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プロローグ
――あの子と、すべてを忘れてしまった貴女が闘っているもの。
記憶は、ときに優しく、ときに残酷だ。
忘れることで守られる心もあれば、忘れたせいで傷つき続ける心もある。
「名前を呼ぶ声」
教室にチャイムが響く。
礼華はその音を、遠くで聞いていた。
「起立」
誰かの声で、ようやく現実に引き戻される。
椅子が床を擦る音が一斉に鳴り、礼華も遅れて立ち上がった。
「おはようございます」
教壇に立つ実莉の声は、少し掠れていた。
それだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(今日も、無理してる)
礼華には分かる。
笑顔の裏に隠された疲れ。
まっすぐ立っているようで、どこか崩れそうな姿。
授業が始まっても、文字は頭に入ってこない。
ノートを取るふりをしながら、視線は自然と前に向いてしまう。
「……礼華」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「ここ、読める?」
「……はい」
立ち上がると、クラスの視線が集まる。
でも礼華の視界に映るのは、実莉だけだった。
読み終えたあと、実莉は一瞬だけ目を細めた。
なぜか、懐かしむような、苦しそうな表情。
その表情を見た瞬間、礼華の胸に知らない感情が流れ込む。
――守らなきゃ。
理由は分からない。
でも強く、そう思った。
⸻
昼休み。
「礼華、また先生見てたでしょ」
紗耶が呆れたように言う。
「見てない」
「見てた」
即答だった。
「……やめときなよ。先生だよ?」
正論だった。
礼華も分かっている。
「分かってる」
でも、気持ちは止まらない。
春斗が横から口を挟む。
「礼華さ、最近顔色悪くね?」
「え?」
「無理してない?」
その言葉に、礼華は一瞬言葉を失った。
無理をしている自覚はない。
ただ、胸の奥にずっと重たいものがあるだけだ。
⸻
放課後。
実莉は職員室で一人、机に向かっていた。
プリントの文字が歪む。
頭がふらつく。
「……っ」
慌てて立ち上がり、保健室へ向かう。
洗面台に手をつき、吐く。
涙が一緒に落ちた。
「どうして……」
苦しいのに、理由が分からない。
誰かを思い出しそうで、何も思い出せない。
そのとき、脳裏に一瞬だけ浮かんだ。
――小さな女の子。
――自分の後ろをついてくる影。
――「お姉ちゃん」と呼ぶ声。
実莉は頭を抱えた。
「……違う」
思い出してはいけない気がした。
⸻
その夜、母は一人、写真を見ていた。
幼い二人の姉妹が笑っている写真。
片方は、もう覚えていない。
片方は、まだ知らない。
「……ごめんね」
誰に向けた言葉なのか、分からないまま。