テラーノベル
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「じゃあ、フレシア。曲を頼む」
「かしこまりました」
アシェルはノアの腰に手を回して、ダンスの基本姿勢を取る。
逃げられない状況に、ノアはこれも仕事だと腹を括った。
幸か不幸かわからないけれど、アシェルは目が見えない。つまり、へなちょこステップを踏もうが、優雅さとは遠く離れたそれになろうが、きっと彼は気付かないだろう。
とにかくこの1曲、アシェルの足さえ踏まなければいい。見栄えなんて、二の次三の次。
「では……殿下、よ、よ、よろしくお願いいたします」
「うん。ははっ、ノア。そんなに緊張しなくていいよ」
ノアがアシェルの肩に手を置きながらそう言えば、楽しそうな笑い声が耳朶に響く。
心から楽しそうなアシェルを目にしてもノアはちっとも嬉しくないし、身体はガチガチに硬い。顔だってきっと悲壮感が溢れているだろう。
今にも泣きそうな表情を浮かべるノアをよそに、フレシアの手で魔法の蓄音機から軽やかなワルツが流れ出す。
貴族にとったら、さぞ美しいメロディーなのかもしれないが、ノアにとったらレクイエムにしか聞こえない。
そんな中、アシェルがそっとノアの耳に唇を寄せる。
「……ノア、目を閉じて。何も考えなくていい。とにかく音楽だけを聴いて」
「は、はい」
なんで?などと聞いてはいけないような気がして、ノアは素直に目を閉じる。
耳に流れ込む音楽は、相変わらずレクイエムにしか聞こえないが、アシェルが聞けといったのだから、とにかくそれに耳をすます。
「じゃあ、行こう」
まるで散歩にでも出かけるようなウキウキとした口調でアシェルがそう言ったと同時に、身体がふわりと浮いた。不思議なことに、足が勝手に動き出す。
アシェルが魔法を使えないのは、わかっている。これは彼の巧みなリードのおかげだ。
そうわかっていても、滑らかに踊れている自分に驚きを隠せない。
「お?……おお??」
「こら、ノア。目を閉じていて」
「ひゃい」
うっかり目を開けた途端にアシェルからたしなめられ、ノアはぎゅっと音がしそうなほど強く目を閉じる。
そんなやり取りをしたって、アシェルの足を踏むことはない。ヒール越しに感じるのは、ホールの床の感触だけ。これまた驚きだ。
「……殿下は、ダンスがお上手なんですね」
つい本音を漏らすと、頭上から溜息が降ってきた。
「だから言っただろう?私だって、これくらいはできるんだよ」
「私、殿下が何もできない人だなんて一度も思ったことないですよ」
「そうなのかい?なら……なぜ、さっきあんなにも私と踊るのを拒んだのか聞いてもいいかな?」
「あれはっ、あ……なんでもないです。内緒です、内緒」
流れるようなステップと同じ口調で尋ねられて、うっかり本音を伝えてしまいそうになったノアは、ぎゅっと口を噤む。
別にそれを伝えたところでアシェルは笑って終わりにしてくれるはずだが、なんだか言いたくない。
そんな気持ちから、ますます口をむぎゅっとさせるノアの気配を察したアシェルは、観念したかのように溜息を一つ落とした。
目を閉じてステップを踏んでいるノアは、今、アシェルがどんな顔をしているのかわからない。
でも、遠巻きに見ているグレイアスとフレシアは、ひそひそと小声でささやき合う。
「……あのお方に、あんな顔をさせるのは世界でもたった一人だけなのに。なぜ気付かないんだ?」
「……でも兄様、そうは言ってもノア様だって、殿下の前では特別な顔をしていらしゃいます。つまり、お互い様なのでは?」
「……だろうね。だが、じれったいな」
「……ええ。こういうのを巷では、”じれじれ展開”と言うらしいのです」
「……くだらん。単なる時間の無駄じゃないか」
吐き捨てるように呟いたグレイアスに、フレシアは肩をすくめた。
兄に同感ではあるが、ここであの二人の仲を進展させようとするのは野暮な行為でしかない。
「兄様、くれぐれも余計なことはなさらぬよう。先日の一件だけで十分です」
「わかっている」
即座に頷いたものの、グレイアスはノア一時帰宅事件から一向に進展を見せないアシェルに苛立ちを感じている。
ノアは夜会に出席したら、ためらいなく王城を離れる気だ。
これまで何度も、あの手この手で引き留めて来たけれど、そろそろネタが尽きつつある。
当初の思いとは裏腹に、グレイアスはノアこそアシェルの伴侶に相応しいと思っている。もう一生、契約で良いからずっとそばにいてあげて欲しいと願うほどに。
ノアは座学の成績は大変残念な教え子であるが、底抜けに前向きな性格と根は真面目なのにどこかふてぶてしいところは、アシェルを満たしてくれると信じている。
唯一足りないのは恋慕の情だけだが、最悪、惚れ薬でも飲ませてしまえばいい。
そんな犯罪まがいなことまで考えているグレイアスを知ってか知らずか、アシェルは優雅にノアをリードしている。
魔法の蓄音機から流れるワルツも、終盤にさしかかっている。
ノアは、アシェルの足を一度も踏んでいない。ちょっとヤバイ時もあったけれど、それはそれは器用に、アシェルはノアの足を避け続けた。
そんなアシェルの努力の甲斐あって、ノアは一度もステップを踏み間違えることも、足を踏まれることもなく踊り終えた。
「お疲れさまでした。殿下」
グレイアスはそれ以上何も言わずに、廊下につながる扉を開けた。
ノアの午後の授業を、全て休みにすることを承諾したということだ。
「じゃあ、私たちはこれで失礼するよ。後片付けは任せるね」
一刻も早くここから立ち去りたかったのか、アシェルは早口でそう言い捨てる。
グレイアスが礼を取った時には、もう既にアシェルは廊下へと出ていた。
ただ……去っていくアシェルを視界に入れた途端、グレイアスはギョッとした。
なぜならアシェルは、ノアをかっさらうような形で片腕に抱いていたのだ。
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