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夕暮れ。
西の空がゆっくりと沈み、
屋敷の中へ
暗い青が流れ込んでいた。
イチは
与えられた部屋のベッドに
座っていた。
手は膝の上に揃え、
目は落としたまま。
窓の外の色の変化を
ただ静かに眺めている。
コン……
やさしいノック音が
静寂を揺らした。
「……入るぞ」
低い声。
戸口から
ルシアンが姿を見せた。
夕光を背に受け、
影が伸びる。
イチは
顔を上げる。
驚きはない。
ただ
“見つけた”――
というように
彼を目で追う。
ルシアンは
部屋へ入り、
扉を静かに閉めた。
「……様子を見に来ただけだ」
少し不器用な言い方。
けれど
その声には
確かな気遣いが滲む。
イチは
まばたきをひとつ。
その反応だけでも
何故か
安心したような空気が生まれた。
ルシアンは
ゆっくりと
懐から小さな冊子を取り出す。
革の表紙。
擦り切れた端。
手に馴染んだ跡。
――エリオットの日記。
「……これを
持ってきた」
イチは
瞬きも忘れ、
それを見つめる。
差し出されると
胸の奥が
じくりと、痛んだ。
理由は
わからない。
でも
“それが大切だ”
ということだけは
わかった。
イチは
両手で受け取る。
手が震えた。
表紙を開く。
しかし
そこに並ぶ文字は
意味を持たない。
黒い線のように
連なり
重なり
ただそこにある。
読めない。
読めるはずがない。
けれど――
紙に触れた瞬間
彼の手の温度が
まだそこに残っているような
錯覚が走った。
ページの端には
インクの滲み。
筆圧が強く残る箇所。
震えた線。
イチは
文字ではなく
“息遣い”を
読み取った。
――ここに
彼がいた。
胸が
ぎゅ、と
掴まれる。
熱いのに
冷たい。
痛いのに
苦しい。
名前のない感情が
体の奥で
膨らんでいく。
イチは
日記を抱きしめた。
強く、
壊れないように
でも手放さないように。
その様子を見て
ルシアンは
息を止めた。
「……エリオットが
残したものだ」
説明でも慰めでもない。
ただ、
まっすぐな事実。
イチの指が
ページを撫でる。
目が
ほんの少し
うるむ。
涙にはならない。
でも
“溢れそう”な光。
イチは
日記を胸に抱えたまま
立ち上がり――
部屋の扉の方を見た。
(――帰りたい)
声はない。
でも
その姿だけで
十分伝わる。
ルシアンは
ゆっくりと
少女を見た。
「……行きたいのか」
静かに問う。
イチは
こくりと頷かない。
ただ
扉を、
その向こうを、
森を見つめている。
彼女の意志は
言葉の代わりに
背中に宿っていた。
ルシアンは
苦しげに息を吐く。
「……あそこへ戻っても
彼はいない」
その事実は
あまりに残酷で
あまりに真っ直ぐだった。
イチは
動かない。
目は
ただ
静かに
遠くを見るだけ。
ルシアンは
言葉を探し
口を開いた。
「……でもな」
一拍置いて
続ける。
「――ここにいれば
守る」
それは
誓いのようで
不器用で
でも
真っ直ぐな言葉。
イチは
ゆっくりと
ルシアンを見上げた。
そこには
恐怖も
拒絶も
なかった。
ただ――
“信じていいのか”
と
問うような
淡い光。
ルシアンは
視線を逸らさず
続ける。
「俺たちは
お前を害しない。
奪わない。
捨てない」
言葉が
胸に水のように落ちていく。
イチは
それが何を意味するのか
まだ理解していない。
でも――
“悪い人ではない”
そう感じた。
理由は
いらない。
本能が
そう言った。
イチは
小さく――
ほんのわずか
頷いた。
日記を胸に。
ルシアンは
それを見ると
ふっと
微かに笑った。
安堵でも
歓喜でもなく
ただ
“よかった”
という小さな温度。
「……今は、休め」
その一言を残して
彼は部屋を後にした。
扉が閉まったあと。
イチは
日記を抱いたまま
ベッドに戻る。
彼女の胸には
ひとつの想いが
確かに灯っていた。
――もう、ひとりじゃない。