テラーノベル
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大広間の正面に、博正が立った。
白髪。黒い礼服。笑わない顔で、創業の年と、父・宗一郎の名前と、氷川の客への礼を、短く言った。拍手。グラスの音。ことはは遼の隣で、頭を下げた。
挨拶が終わると、人が動いた。大広間の天井の灯りが、グラスの中で揺れている。ことはは、藍色の袖の中で、手を一度握って、開いた。帯留めの石が、灯りを一つ、返した。
遼のところには、人が来た。取引先の社長。銀行の人。親族。遼は短く応え、ことはを「妻だ」と一言で紹介した。ことはは頭を下げた。下げるたびに、帯留めの石が、胸の下で揺れた。
銀行の人の奥方が、ことはの着物を見て言った。
「ご実家は、お商売を?」
「和菓子屋です。下町で」
「まあ。どんなお菓子を」
答える前に、遼が言った。
「豆大福だ。朝、六時半から売っている」
奥方は、「専務がお詳しいのね」と笑った。遼は、何も言わなかった。ことはは、遼の横顔を見た。六時半。この人が、人前で言った。
三度目の紹介のあと、遼が、ことはの手を取った。
人前で。
左手を、右手で。何も言わずに。そのまま、次の客のほうへ歩いた。手は、離されなかった。
ことはは、歩いた。手を取られて、妻として。契約だ、と遼は言った。人前では妻として。これは、契約の手だ。
そう思おうとした。手は、温かかった。
取引先の男が一人、遼に言った。酒の入った声だった。
「専務がご結婚とは。うちの娘が、聞いて泣いておりましたよ。冗談ですが」
「妻がいる」
遼は、それだけ言った。冗談に、冗談で返さなかった。男は笑って、ことはに頭を下げて、離れて行った。ことはは、取られた手を見た。妻がいる。契約の妻が。それでも、人前で、そう言った。
人の中に、西園の顔があった。黒い礼服で、グラスを持って、ことはを見て頭を下げた。契約書を作った人が、契約の夫婦を見ている。ことはは頭を下げ返した。西園は、それ以上近づいてこなかった。
「柊屋さん」
鈴の音がした。
人の間から、絹江が出てきた。黒い留袖。帯に、鈴の根付。ことはを見て、遼を見て、笑った。
「専務さん。この子の店の豆大福、本店の常設にしてほしいわ。わたし、催事で二十個買ったの」
遼は、絹江を見た。見て、言った。
「妻の店です」
妻の店です。常設のことには答えなかった。答えずに、妻の店だと言った。絹江は、少し目を見開いて、それから、鈴を鳴らして笑った。
「そうね。妻の店ね。会長が食べていた味のまま。あれは、本物よ。――だったら、専務さんがいちばんよく知ってるでしょう。あの味を」
遼は、何も言わなかった。
ことはは、絹江を見ていた。絹江は、ことはの帯留めを見た。見て、何かを言いかけて、やめた。
「また、柳町に行くわ」
絹江は、鈴を鳴らして、人の中へ戻って行った。
◇
麗華は、大広間の反対の端にいた。
赤いドレスが、人の間を動くのが、ことはの目の端に見えていた。取引先の男と話し、笑い、グラスを持ち替える。本家の娘の顔で。
一度、目が合った。
麗華は、笑った。笑って、グラスを少し上げた。乾杯の形に。
隣の遼は、見ていなかった。見ていないのか、見て何も言わないのか、ことはには分からない。この人の顔は、どちらのときも同じだった。
ことはは、頭を下げた。下げたまま、帯の下で息を整えた。表紙一枚。中身はない。自分に言った。
遼の手は、まだことはの手を離していなかった。
「疲れたか」
遼が、前を見たまま言った。
「……いいえ」
「嘘が下手だな」
嘘を、二度ついた。昨日の車と、今と。ことはは、何も言わなかった。言わないで、手を握り返しそうになって、やめた。契約の手だ。握り返す手は、契約にない。
◇
麗華が動いたのは、それから二十分ほどあとだった。
ことはは、遼の隣から見ていた。赤いドレスが、博正のそばへ行く。博正は、取引先の男と話している。麗華は、その話が終わるのを待った。待って、父の腕に手を置いた。
「お父様。見て」
声は小さい。小さいけれど、聞こえる。聞こえる距離に、ことはと遼はいる。麗華は、その距離を分かって立っていた。
麗華は、スマホの画面を、博正に向ける。
博正が、画面を見た。
「遼さんの結婚、紙なの」
博正は、画面から目を上げた。
上げて、ことはを見た。
ことはは、動けなかった。帯の下で、心臓が鳴っている。表紙一枚。婚前契約書。氷川遼。柊ことは。それが、博正の目の中にある。
遼は、ことはの手を離さなかった。離さないまま、博正を見ていた。顔は、動かなかった。
博正が、歩いてきた。
人の間を、まっすぐに。麗華が、半歩遅れてついてくる。赤いドレス。今夜初めて、麗華の目が、口と同じに笑っていた。
博正は、二人の前で止まった。
大広間の、人の声が、少し遠くなった。近くにいた客が、話をやめて、こちらを見ている。氷川の社長と、専務と、その妻。西園の顔も、人の中にあった。
博正は、ことはを見た。遼ではなく、ことはを。
「氷川遼の妻として、一つ聞く」
低い声だった。
「この結婚は、本物か」
コメント
1件
遼が人前でことはの手を取って歩いた場面、すごく印象的でした。「妻の店」という一言と、あの呼び方に彼なりの意志が滲んでいて。ただ、契約の手だと思おうとすることはの理性と、手の温かさの間で揺れる感じが、細やかに描かれていて好きです。最後の博正の「本物か」——あの一言でページの空気がピンと変わりました。続きが気になります🌷
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