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#御曹司
うめぼっち

633
鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

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「本物です」
声は、思ったより大きく出た。
博正の目が、ことはの顔の上で止まっている。麗華の目も。近くの客の目も。遼の手は、ことはの手を離していない。
ことはは、息を一つ吸った。店のことを言うときの息だった。店のことを言うときの声で、店のことではないことを言う。初めてだった。
帯留めの石が、胸の下で、一度揺れた。祖母の石。借り物の格では立たない、と言って、この石だけは借りた。
「わたしは、毎朝五時に氷川の家を出て、柳町の店に通っています。六時半にシャッターを開けて、餡を炊いて、昼に帰って、夜は氷川の家に帰ります。氷川遼の妻として、そうしています。――それが本物でなければ、何が本物ですか」
嘘は、一つもなかった。
博正は、何も言わなかった。
ことはの手の上で、遼の手が、少し動いた。動いて、ことはの背に回った。帯の上。重かった。
「妻の言うとおりだ」
遼は、博正を見て言った。
博正は、甥を見た。見てから、麗華のスマホを、顎で示した。
「紙を見せろ」
麗華が、画面を向けた。博正は、見た。ことはにも、見えた。婚前契約書。氷川遼。柊ことは。表紙の一枚。それだけ。
「婚前契約など、氷川の家なら誰でも作ります」
遼が、言った。叔父に向けた、温度のない敬語で。
「私の父もそうでした。――社長も、お作りになったはずです」
博正の顔が、動いた。
一瞬だった。けれど、動いた。否定しなかった。
「中身は」
博正が、麗華に聞いた。
「……表紙しか」
「表紙だけで、人の結婚を紙だと言ったのか」
麗華の声が、低くなった。
「お父様、でも」
「どこで手に入れた」
麗華は、答えなかった。博正は、娘を見た。ことはを見ていたときと、同じ目で。
「人の家の書類を、盗み撮りさせたのか」
大広間の、近くの客が、顔を見合わせた。
麗華は、何か言おうとして、口を閉じた。開いて、閉じた。赤いドレスの肩が、少し下がった。
「わたしは……」
博正は、娘の言葉を待たなかった。
背を向けた。向けて、取引先の男のほうへ戻って行った。何事もなかったように。氷川の社長の顔で。
麗華は、立っている。立ったまま、ことはを見る。スマホを持った手が、ドレスの赤の上で、白い。
それから、ヒールの音を立てて、人の中へ消えた。
近くの客が、話に戻る。戻るふりをして、まだ見ている。鈴の音が、少し離れたところで、一度鳴った。絹江が、人の間から、ことはに向かって小さく頷いている。
ことはは、息を吐いた。
遼の手は、まだ背にある。
「叔父は、お前の顔を覚えた」
遼が、低く言った。それだけ言って、あとを言わなかった。覚えられたことが、いいことなのか悪いことなのか、ことはには分からなかった。
遼は、手を背から下ろした。下ろして、ことはの左手を、もう一度取った。
◇
帰りの車は、遼が運転した。
宇野はいない。二人だけ。ことはは助手席で、膝の上に手を重ねた。帯留めの石が、暗い中で小さく光っている。
しばらく、どちらも話さなかった。
「なぜ、本物だと言った」
遼が、前を見たまま言った。
ことはは、窓の外を見た。
「嘘ではないので」
「……そうか」
しばらくして、遼が、もう一度口を開いた。
「叔父さんの前で、言う必要はなかった。俺が言えば済んだ」
「あなたが言ったら、紙だと言われたままです。妻が言わないと」
「……そうか」
遼は、しばらく黙って、低く続けた。
「叔父は、知っていて聞いた」
「……何を、ですか」
「聞くな」
二度目のそうか、は、一度目より低い。
信号で、車が止まる。遼は、暖房の目盛りに手を伸ばして、一つ上げた。火曜の朝と、同じ位置で、手が止まる。十二月の夜の車の中は、暖かかった。それでも、上げた。
ことはは、その手を見ている。見ていて、口が動いた。
「遼さん」
言ってから、気づいた。
人前ではない。二人だけの車の中で、遼さん、と言った。氷川さん、と言うはずだった。言い直す言葉を、探す。見つかる前に、信号が変わる。
遼は、前を見たまま、動かない。
何も言わない。言い直せとも、何だとも。車が走り出して、坂を上った。ことはは、言い直さなかった。言い直す時間が、過ぎた。
車は坂を上る。暖房の目盛りは、上がったままだった。ことはは、袖の中の手を、膝の上で重ねた。
坂の上の家の門が見えたとき、遼が、口を開いた。
「叔父の前で言った言葉を、取り消すな」
「……取り消しません」
「なら、いい」
車が、止まった。
◇
玄関の灯りが、ついていた。
芘沢が、扉の内側に立っていた。いつもなら、この時間は台所にいる。立ったまま、二人を待っていた顔だった。
「坊ちゃま。ことはさん」
「何だ」
「西園先生が、お越しです。応接間に。急ぎだと」
ことはは、遼を見た。
遼は、ことはを見なかった。見ないで、靴を脱いだ。脱いで、応接間のほうへ歩いた。
「来い」
振り返らずに言った。
ことはは、帯留めに手を当てた。石が、冷たかった。西園。契約書を作った人。夜の十一時に、急ぎで、来る人。
自分に言ってきた言葉が、玄関の灯りの下で、薄くなった。
コメント
1件
うわあ…第21話、読み終えたよ…! 今回はことはの「本物です」って言葉が本当に胸に刺さった😭💕 毎朝5時に家を出て、店で餡を炊いて、昼に帰る。そんな日々こそが本物だって言い切る姿、めちゃくちゃ強くて綺麗だった…! 遼が背中に手を回して「妻の言うとおりだ」って言ったところも、もう最高にエモい…!! お義父さん(博正)が娘を叱るシーンも意外でドキドキしたよ。それに「遼さん」って呼んじゃったのも気になる〜!! でも取り消すなって言われて、ことはが「取り消しません」って返すところ、めっちゃいい関係になってきてる…💕 最後の西園先生、急ぎって何だろ!? 続きが気になりすぎるよ〜!! 草原草原さん、今日も素敵な物語をありがとう🌸✨