赤く輝く毬が泥の沼に飲み込まれるように日が地平線へと沈む。秋の彩りもまた闇に溶け、妖しい夜がナボーンの街に君臨する。
ベルニージュの母の力か、魔女シーベラの力か、あるいは二つが合わさった力なのか、魔法の戒めはとても強力だった。シーベラが去って気兼ねなく魔法を行使できる状況にあってなお、ベルニージュは未だに解放されずにいた。長い時間をかけていくら触ってもその手を縛る素材が分からず、また後ろ手に縛られているために結び目も分からない。そこに組み込まれている悪辣な魔法の正体を推察する手がかりがまるで足りなかった。
そこへ、ベルニージュにはあまり馴染みのない幸運が、息せき切った魔法少女を連れてきた。
「ユカリ!」とベルニージュは叫ぶ。
少しばかり情けない声色だったことを恥じる。
「ベルニージュ! ごめん、私、ベルニージュのことをずっと忘れてて!」
「そんなの後で良いから――」
「そうだ。そんなのは後でいい」立ち去ったはずの魔女シーベラの邪な声だった。「ユカリだったか? 私に他の魔導書も寄越してもらおうか」
シーベラがベルニージュの背後から現れる。いつから後ろに隠れていたのか分からないが、もう戻ってきたということは用事を済ませてきたということだろうか、と訝しむ。
魔女シーベラがベルニージュを人質にもせず、横を通り過ぎ、ユカリの方へと歩を進める。その手には二つの羊皮紙が握られていた。その自信に満ちた態度から、語られずともその組み合わせがベルニージュにも分かる。最悪の組み合わせだ。
人為による害を遠ざける魔導書と天命による害を遠ざける魔導書。偶然も必然も運命も宿命も跳ね除ける奇跡を宿しているのだ。もはや冥府の主の使いとて魔女シーベラに手出しはできない。勢い込んで遣わされても、主の領地へ介添えできない。シーベラは実質的に不死の存在となったのだ。
ベルニージュの知る限りの魔法では、この状況をどうすることもできない。
「山彦に何かしたの!?」とユカリが怒鳴るように叫ぶ。
シーベラはつまらなそうに答える。
「あのがきか? どうもしないよ。良いものを持ってたから貰っただけさ。確かにがきにしては凶暴だったが、まあ、がきはがきだ」そう言ってシーベラはこれ見よがしに二枚の羊皮紙をひらひらと揺らす。「こっちはさっきそこで拾った。幸運が私の手を取っているようだ。さあ、残りの魔導書もこちらに渡せ。素直に渡してくれるね?」
ユカリはベルニージュをちらと見て、シーベラに視線を戻す。「先にベルニージュを解放してください」
シーベラは心底可笑しそうに笑う。
「別に構わないよ。好きにしな。何ならありとあらゆる魔法を私に試し終わるまで待ったっていい。殺すも縛るも奪うも、やれるものならやってみるがいい。だが、逃げるのはなしだ。千年かけてでも追い回すが、面倒だからな」
それらの魔導書は持ち主だけでなく、周囲の人間にも奇跡をもたらす、ということにシーベラは気づいていない。だからといって、ベルニージュたちの助けになるわけではないが。
ユカリが突然、全身をびくりとさせて、首を巡らせ、鋭い眼差しで辺りを見回す。ベルニージュには何も見えなかったが、ユカリは何かの存在に気づき、そしてその存在は三人の周囲を囲んでいるらしい。はるか遠い血筋とはいえ、相手は夜闇の神ジェムティアンの神裔だ。ここから逃がすつもりはないだろうが、千年かけてでも追い回すという言葉にも嘘はないだろう。
ユカリは見えない脅威を警戒しつつも、シーベラを回り込むようにベルニージュの方へと歩いてくる。
ベルニージュは囁く。「ユカリ。縄の素材と結び目を教えて」
ユカリが後ろ手に回ったベルニージュの手元を覗き見る。「これ、カホムルだね。蛇の目結びだよ」
ベルニージュは返事をするように呪文を唱え、縄を解きほぐす。鬱血して痕になっている手首をさすり、ユカリに囁きかける。
「どうすればいいの? ユカリ」
当然何かをさせるために先に縄を解かせたのだろうと思ってベルニージュは尋ねた。
ユカリは合切袋から残りの全ての魔導書を取り出す。そこにはベルニージュの見覚えのない魔導書もあった。山彦に宿っていた魔導書を手に入れたのだろう、と察する。
ユカリはベルニージュの手を握って言う。「ベルニージュは魔女に勝てる?」
シーベラによく聞こえるようにユカリは言っているようだった。この状況で挑発する意味がよく分からなかったが、まさか考えなしなわけもない。
「それは、当然だよ。もちろん、ワタシは誰にも負けない。魔導書がなければ、勝つよ。いや、魔導書にもいつかは勝つんだけどね」
魔導書を奪えるというのか、とベルニージュは疑問に思う。もちろんそんなことはありえない。奪う、が成立しない魔導書を相手は持っているのだ。
「じゃあ、逃げよう」
そう軽々しく言って、ユカリはベルニージュの手を引いて踵を返した。ユカリは魔導書を掲げて、何かを追い払うようにしながら山を街の方へ降りる。
だが、次の瞬間にはユカリの姿が消え失せていた。シーベラの魔法か、でなければユカリが新たに手に入れた魔導書、山彦から手に入れたのであろう魔導書の力だ。
さっきからのユカリの不自然な言動は、言葉にすることなくベルニージュに狙いを伝えたい、ということに他ならない。ベルニージュならばきっと察してくれる、とユカリは期待している。是非応えなくてはならない。
ベルニージュは考える。ユカリなら本当に逃げたりはしない。しかし他者だけ逃がす、ということならあるかもしれない。しかしベルニージュも逃げはしない。それをユカリは分かっているはずだ。相手が不死でなければ挟み撃ちでも何でもできるが、ことはそう単純でも簡単でもない。
とにかくベルニージュは深い夜に更に溶けつつある森を静かに走り、ユカリの姿を探す。
その時、いかにも分かりやすい悲鳴が聞こえた。明らかにユカリの、演技の悲鳴だ。ベルニージュにはまだ全容が分かっていないが、本当にその作戦は大丈夫なのだろうか、と心配になる。
「やだ! 近寄らないで!」
普段の口調を知られていればすぐにばれてしまうような演技でユカリは叫ぶ。
ベルニージュは、地面に倒れて後ずさりするユカリと、それを追い詰めるシーベラの背中を見出した。
魔導書がユカリのすぐ手の届く辺りに散らばっている。シーベラは動かなかった。
「小細工なんて無駄だと分からないのか? 不意打ちもまた無意味だ。この魔導書の力強さを誰よりも知っているのが、お前たちのはずだがな」
ベルニージュの存在もばれている。そうと分かってもまだベルニージュは息を潜めていた。
「まあいい。乗ってやろう。私はお前に近づき、おもむろに魔導書を拾う。背中はがら空きで、背後には我が愛しきベルニージュさんがいるという訳だ」
シーベラは言葉の通りに実行する。ゆっくりと歩き、ユカリに近づく。
ユカリが魔女の近くにいたままでは、ベルニージュも強力で大規模な呪文を放つことができず、やきもきする。放ったところで効果はないはずだが、ユカリのさっきの言葉は攻撃しろと言っているのだとしか思えなかった。このままでは魔導書が、完成してしまう。
二人の見守る中、ほとんど一まとめになっている魔導書をシーベラは手に取る。七つの羊皮紙、七つの魔導書が一つになり、光を放つ。
ベルニージュはようやくユカリの狙いに気づき、シーベラの元へ駆け出した。
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