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無限の闇に包まれる。深く濃い無窮の夜空に白い一番星だけが切なげに瞬いている。そして自分の心だけがぽつんと闇の中に浮かんでいる。
その心の前に、足の長い兎のような、耳の長い猫のような、尻尾の長い熊のような白い獣が寝転がっている。ププマルは寝返りを打って、その心がやって来たことに気づくと、安堵したように言う。
「やあ、これで二冊目だねププ。一安心ププ。また十四年待たされるのかと思って気が気でなかったのププ」
魔導書を封印したら魔法が使えなくなるって言っておいてよ。咒詩編が使えなくなった時、本当に焦ったんだからね。
まあ、今回はそれのお陰で助かった、というかこれから助かる予定だけど。
「正しくはそうじゃないププ。封印したからではなく、魔導書が完成して前世の姿を取り戻したから使えなくなるのププ」
でも触媒としては使えるようだけど。
「触媒だか何だかは魔法がある世界の方の決まりごとププ。ププは知ったこっちゃないププ」
ええっと、魔導書としての現世の力が、前世の姿になったことで失われて、でも触媒としての力は現世の姿でも存在して……。
「そっちの世界のことはそっちで勉強するププ。さあ、封印するよププ」ププマルがそう言うと、暗闇に二つ目の白い星が灯った。「これで二冊ププ。順調ププ」
星が灯った途端に暗い世界と白い獣ププマルが遠退いていく。
じゃあね、ププマル。なるべく早く集めるようにするから。
「ぜひそうして欲しいププ。でもププは気長に待ってるププ。すでに十四年ププ。誤差みたいなものププ」
ユカリは気が付けば、夜の帳にすっぽりと覆われた卵山の森の中に、かわらずいた。その目の前でシーベラが元の姿に戻った魔導書を見下ろして打ち震えていた。
「何をした? 何をしたんだ? 何だ、この薄っぺらい紙束は。私の魔導書は、私の魔法は、私の力はどこに行った?」
ベルニージュが背後からシーベラに飛び掛かる。その両手には輝かしい魔法が燃え滾っている。
しかしシーベラの背中から大量の蛾が飛び出し、ベルニージュを弾き飛ばした。ベルニージュは枯れ葉にまみれて地面を転がる。蛾はまるで凶暴な獣のような形に群れを成してベルニージュに襲い掛かるが、ベルニージュの両手から放たれた炎もまた一頭の獣の如く吠え、燃え盛る。二頭の魔法の獣は爪や牙にも劣らない魔法の力を武器にして取っ組み合う。互いの主を守るように立ち回り、互いの主を討ち滅ぼそうと躍りかかる。
最大の好機はため息をつき、ユカリとベルニージュを見捨てて森の闇の奥に立ち去ってしまった。
ユカリは一歩退き、しかし強い口調でシーベラの問いに答える。
「それが本来の姿なんだよ。もうその魔導書から奇跡の力は失われた。残念だったね、魔女シーベラ。グリュエー! 吹き飛ばして!」
卵山の頂から吹き下ろす風が地響きのように轟き、魔女に掴みかかると容赦なく夜空へと吹き飛ばす。しかし冬に身につける厚い衣のようにシーベラは体から湧き出る蛾を纏い、グリュエーの力に抗う。魔女は星々を背にして、空中で姿勢を制御し、恨みに満ちた悪霊のような形相で、強風に逆らってユカリのもとへと飛んでくる。グリュエーはさらに力を強めるが、蛾の群れは主を推し進める。
シーベラは歯を剥き出しにして叫ぶ。「よくも! よくも! 私の持つべき力を! 何者にも負けない奇跡を! おのれ! おのれ!」
獲物を見出した猛禽のように夜空を舞い降りたシーベラは、後ずさりするユカリの元まで一息に近づき、ユカリの頭を鋭い爪の伸びる両手で押さえつけた。
その瞬間、シーベラの両手が兆しもなく発火し、大いに燃え盛る。炎は容赦なく、シーベラの手を、腕を、その身に纏った蛾の群れを焼き尽くす。焦げた臭いと煙が辺りへ広がる。
ユカリの額から現れ出でた炎はベルニージュの生み出した炎の獣にも劣らない吠え声を立てて、魂まで食い尽くそうかというように暴れ狂う。
暗い森の中で炎が踊り、旧い信仰に基づく邪な儀式に見られるような妖しい光と影を辺りに投げ掛けた。シーベラの甲走る苦悶の叫びが怖ろし気に響き渡る。
同時に炎の爆ぜる音が慎重に丁寧に形を結び、炎に眩まされて目をぎゅっと瞑るユカリの頭の中で囁く。それはシーベラの声だが、その口調はベルニージュの母のものだ。
「ベルニージュさんをよろしくね。ユカリさん」
ユカリは瞼をこわごわ開く。もちろんそこにいるのはシーベラであって、ベルニージュの母ではない。シーベラは虚ろな表情を浮かべ、頭をベルニージュに両手で押さえられている。
まさにベルニージュが強力な呪文を唱え切ったところだった。それは人間の心の奥深くにある誰もが知っている原初の言葉であり、夢を構成する虚ろな言葉だ。古い記憶の海に吹く雄大なる風の音だ。呪文はシーベラの口から頭の中へと潜り込むと、力任せに目的のものを引き抜く。
すると色とりどりに光り輝く蝶の群れがシーベラの口から飛び出して、混乱した様子で辺りを飛び回る。無数の蝶は乱舞して、シーベラの口の中へ戻ろうとする。しかしベルニージュがシーベラの口を手で塞ぎ、それを防ぎ、追い払う。それでも蝶は他に行くべき場所などないと、シーベラの周囲を悲し気に惑わし気に飛び回る。
ユカリはようやく立ち直り、ベルニージュのそばに駆け寄った。
ユカリは舞い踊る無数の蝶を見渡して呟く。「これって、この蝶って、記憶? 魔女シーベラの」
「そう。何もかも全部取り上げた」ベルニージュはシーベラの口を塞いだまま淡々と答える。「こうなると人はもうどうにもならない」
「少し。気の毒だね」
虚空を見つめるシーベラの瞳から逃れるように、ベルニージュの赤い瞳を見つめる。
「殺すよりは温情的だよ」ベルニージュもまたシーベラの方を見れないでいる。「永遠にこのままというわけでもない。シーベラには聞きたいことが沢山あるからね。しばらくワタシが記憶を預からせてもらう。ちょっと回収が面倒だけど。それより、さっきの炎、何? そんな魔法が使えたなんて知らなかった」
ユカリは慌てて謙虚に首を横に振る。
「たぶんベルニージュのお母さんだよ。私から記憶を奪った時にでも仕込んだんじゃないかな。いざという時のために」
「はあ、なるほどね。念には念をってわけだ。消えてなお恐ろしい人だよ」
怖ろしいだなんてそんなことはないだろう、とユカリは思ったが、そんなことはベルニージュが一番よく知っているのだろう、とその優し気な表情から窺い知れた。
「ありがとう、ベル。察してくれて」とユカリは礼を言う。
「本当にぎりぎりだったよ。あんな回りくどいことしなくても、そのまま魔導書を渡してしまえば良かったんじゃない?」
「それだと怪しまれるだろうからね」ユカリは自信たっぷりに断言する。「あえてシーベラ自身に奪わせる形にしたんだよ」
ベルニージュは微妙な表情で返事をする。「まあ、そういうことにしておこう。何にせよお手柄だね」
その時、ナボーンの街の方で大きな騒ぎが聞こえた。人々の叫び、怒鳴り声、悲鳴、そういった声が混然一体となって森の方へと流れてきたのだ。
まだシーベラの怪物という大きな問題が残っていた。魔女シーベラがこのような状態になっても、変わらず凶暴な力で暴れているらしい。
「私、先に行くね!」
ユカリは街の方へと駆け降りていく。ベルニージュが何か呼びかけていたが、居ても立っても居られなかった。