テラーノベル
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第五話 担当編集は神ではないが、地獄の案内人ではある
締切前日、新田が家まで来た。
来るとは聞いていなかった。インターホンが鳴り、僕が寝癖のまま玄関を開けると、そこに紺色のコートを着た新田が立っていた。片手にはコンビニのコーヒー、もう片方には僕が送れなかった原稿を印刷したファイル。
「なにしてるんですか」
『それはこっちの台詞です』
新田は靴を脱ぎ、ためらいなく上がり込んだ。編集者は作家の生活圏にときどき土足で踏み込む。そうしないと作家が現実から帰ってこない場合があるからだ。
「奥さん、こんにちは」
「あ、どうも……いつもすみません」
「いえ。こちらこそ、いつも本当に」
真紀が思わず背筋を伸ばしていた。新田はなぜか、妻たちには妙に評判がいい。礼儀正しいし、言うべきことは言うし、言わなくていいことは言わない。僕に対してだけは容赦がない。
仕事部屋で向かい合うと、新田はファイルを机に置いた。
『二百枚中、今届いてるのが七十八枚』
「はい」
『そのうち使えそうなのが、三十枚』
「……はい」
『で、残りは自意識の煮こごりです』
「言い方」
『事実です』
新田はページをめくりながら、赤字の入った箇所を次々に示した。
『ここ。主人公が“自分は空っぽだ”って三ページ悩む必要あります?』
「必要です」
『ないです。読者はすでに知ってます』
「ひどいな」
『ひどくても言います。ここは説明じゃなくて場面にしてください。あなた、説明に逃げる癖あるんですよ』
「……」
『あと、この妻、良い人すぎます』
「真紀がいるんで」
『現実の妻をモデルにするとたいてい失敗します。読者に見えてるのは、あなたが感謝と罪悪感をこねて作った“聖女”です。人間に戻してください』
そこまで言って、新田はふと部屋の隅を見た。
先生が本棚の上からこちらを見下ろしていた。
『猫いたんですね』
「勝手に住み着いて」
『なるほど』
新田はしばらく猫を見たあと、僕に向き直った。
『これ、猫書きましょう』
「は?」
『この家にある本当の異物は、売れない作家じゃなくて猫でしょう』
「いや、異物なのはたぶん僕のほうで」
『そういうことじゃなくて。あなた、夫婦の話を真面目に書こうとしすぎて、真面目の沼に沈んでる。そこに猫がいるなら使わない手はないです』
「猫を?」
『猫を。何食わぬ顔で日常を引っかき回す存在。夫婦の緩衝材にもなるし、逆に火種にもなる。しかも読者が絵を浮かべやすい』
僕は思わず先生を見た。先生は欠伸をした。自分が商業上の戦力として評価されているとは夢にも思っていない顔だった。
『あなたのいいところは、くだらない生活のディテールに妙な切実さが出るところです』
新田は言った。
『逆に悪いところは、そこに意味を与えすぎるところ。猫は意味なくそこにいる。それがいい』
「……」
『コアなファンを獲るなら、万人受けを狙うんじゃなくて、“この作家にしか書けない生活”を書いたほうがいい。その生活のなかに、ちゃんと読者の逃げ場と笑える箇所を作るんです』
「笑い」
『あなた、真面目ぶると暗くなるんで。暗さの横に笑いを置いてください。そうすると読者はもっと深いところまで来られる』
その言葉は、不思議なほど腑に落ちた。
新田はさらに二時間居座り、構成を組み直し、場面の順番を入れ替え、削るべき説明を容赦なく削った。途中で真紀が出してくれた煎茶に礼を言い、先生が膝に乗ってきても動じず、僕には「今ここで書け」と命じた。
夕方になるころには、骨組みだけだが、前よりずっと息のできる原稿が目の前にあった。
『このまま今夜書いてください』
「今夜」
『今夜』
「寝たいんですけど」
『知りません』
新田は立ち上がり、コートを羽織った。
『奥さん』
「はい」
『この人、まだいけます。捨てないでください』
「簡単に言いますね」
『簡単じゃないです。現場判断です』
真紀が笑った。久しぶりに、心底からの笑いに見えた。
玄関先で、新田は僕にだけ小さく言った。
『売れないことを、あなたはどこかで美徳にしようとしてる』
「……」
『やめてください。みっともない』
「そんなつもりは」
『あります。売れない自分のほうが純粋だとか、わかる人だけわかればいいとか、そういう言い訳。いちばん文章を腐らせます』
「……はい」
『でも、腐る前ならまだ間に合う。書いてください』
ドアが閉まったあと、僕はしばらく動けなかった。
先生が足元に来て、僕のスリッパを齧り始めた。
「お前、すごいタイミングで家に来たな」
先生は答えない。
答えないまま、また何食わぬ顔をしていた。
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