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志進様が、あの硝煙と決意の匂いを残して二度目の出撃へと向かってから
季節は無情にも、そして確実に一巡りした。
帝都には再び、人を狂わせるような甘い春の香りが立ち込め
九条家の庭に鎮座する枝垂れ桜が、あの再会の夜と同じように淡い紅色の蕾をパンパンに膨らませていた。
けれど、戦況の激化とともに、ここ数ヶ月、彼からの便りはぷっつりと途絶えていた。
「生存者名簿に彼の名がない」という無機質な噂や
「北方海域で行方不明になった」という心ない風聞が耳を塞いでも隙間から入り込んでくる。
そのたびに、私の心は生木を裂かれるような痛みで千切れそうになった。
けれど、私はあの日
彼の熱い胸の中で交わした魂の約束だけを唯一の杖にして、毎日、夜が明ける前から門の前に立ち続けていた。
「桜子、今日もかい。そんなに根を詰めては、彼が戻る前に貴女が倒れてしまうわ」
母の痛々しいものを見るような声に、私は静かに首を振る。
私は、彼がかつて贈ってくれた桃色の小紋を、一番美しい着付けで纏っていた。
髪には、彼が「春の陽光のようだ」と褒めてくれた、繊細な細工の簪を挿して。
「……信じているんです。あの人は、何よりも『義務』を重んじるお方ですから。…私を一生かけて幸せにするという、世界で一番大切で、困難な義務を、彼が投げ出すはずがありませんもの」
その時だった。
地平線の向こう、春の霞を切り裂くようにして
一台の自動車が猛烈な砂埃を上げてこちらへ向かってくるのが見えた。
見間違えるはずもない、軍用の黒塗りの車。
私の心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすようにうるさく鼓動を刻み始める。
車が門の前で急停車し、重いドアが開いた。
降りてきたのは、かつての眩い白装束ではなく
泥に汚れ、血と潮風に焼かれて所々が綻びた軍服を纏った、ひとりの男だった。
杖をつき、痛めた足を引きずるような足取り。
けれど、その双眸だけは、一年前よりも深く、鋭く、真っ直ぐに私だけを見据えていた。
「……志進、様…っ」
声が震えて、地面に根を張ったように足が動かない。
視界が涙で滲み、彼が幻ではないかと何度も瞬きを繰り返す。
彼はゆっくりと、一歩ずつ大地を踏みしめるように歩み寄り、私の数歩前で立ち止まった。
そして、かつての仮面のような「完璧な優男」の微笑みではなく
子供のようにくしゃりと顔を歪めて、泣きそうなほど愛おしげに目を細めた。
「…ただいま、桜子。遅くなって、本当にすまない。……君を待たせるという、最大の軍規違反を犯してしまったね」
その、掠れているけれど温かな声を聞いた瞬間
私の凍てついた世界に、ようやく本物の春が訪れた。
私はなりふり構わず、令嬢としての嗜みも
周囲の視線もすべて放り出して駆け出し、彼の逞しい胸に飛び込んだ。
軍服からは、戦地の過酷さを物語る硝煙と鉄の匂いがした。
けれど、その奥にある鼓動は
あの日よりもずっと力強く激しく、私という存在を求めて波打っていた。
「志進様……! 志進様……っ! ああ、生きて、生きていてくださった……!」
「……おや、大切な約束を忘れたのかい? 『志進様』ではなく、名前で呼んでほしいと言ったはずだよ。それとも、まだ僕は君にとって『遠い婚約者』のままかな」
彼は私の背中に震える腕を回し
私の体が溶けて一体になってしまうのではないかと思うほど、折れそうな強さで抱きしめた。
見上げれば、鉄の意志を持つはずの彼の瞳には、溢れんばかりの大粒の涙が浮かんでいた。
「……志進。…おかえりなさい、私の、たった一人の旦那様」
私の言葉に、彼はこの世のすべてを手に入れたかのように満足そうに微笑み
私の額に、そして涙に濡れた頬に、慈しむような、狂おしいほどの口づけを落とした。
その瞬間、頭上からは満開になった桜の花びらが
私たちの帰還を祝う雪のように、ひらひらと美しく舞い落ちてくる。
「親が決めた、家同士の『婚約』は、今日この瞬間で終わりだ。…これからは、僕という一人の男が、一生をかけて君に恋をし、君を愛し続ける。……いいかい?」
差し出された、傷だらけで無骨な彼の手を、私はもう二度と迷わずに、泣きながら握り返した。
「当たり前ですよ…!」
『義務』という名の冷たい鎖は、長い冬を越え
いつの間にか二人を永遠に繋ぎ止める、灼熱の愛の絆へと姿を変えていた。
朝焼けに染まる、燃えるような桜の下。
私たちは、誰に強制されるでもない、自分たちの意志による新しい一歩を踏み出した。
もう、本心を飲み込む必要も、役割を演じる必要もない。
これからは、この温かな掌から伝わる確かな熱とともに
二人で同じ景色を、同じ喜びを分かち合って生きていくのだから。
#王子
#シリアス