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#極道
鷹槻れん/鷹槻うなの

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#白い結婚
夕凪ゆな
373
草原草原(くさはらそうげん)

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扇レンナ
241
六時二十八分。
ことはは店先に立っていた。工房の中から店先を見るのではなく、台の内側に。母がいつも立つ場所に。
「あんたが店番なんて、いつ以来」
母はシャッターの鍵を外しながら、面白そうに言った。
「源さんに、朝の餡を頼んだから」
「ふうん」
母はそれ以上聞かずに、シャッターを上げた。音が通りに響く。十月の朝の空気が、店の中に流れ込んできた。
六時半。
通りには誰もいなかった。
ことはは台の上に、今朝の豆大福を並べた。一列に十二個。藍色の紙を敷いて。通りの左、右。向かいの八百屋がシャッターを上げている音。遠くで新聞配達の自転車。
来なかった。
七時になっても、八時になっても。常連は、来なかった。
豆腐屋の奥さんが来て、豆大福を三つ買った。出かけに寄ったという男の人が一つ。小学生を送った帰りの母親が二つ。ことはは一人ずつに頭を下げて、釣りを渡した。背の高い男は、一人も来なかった。
「あら、珍しい。来ないわね」
母が店先に出てきて、通りを見た。
「あんたが店にいるからかしらねえ」
「……そんなこと、あるの」
「ないでしょう。顔も知らないのに」
母は笑って、台の数を数えた。ことはは工房に戻った。源さんが鍋から顔を上げて、何も聞かなかった。聞かないのが、源さんのやさしさだった。
◇
十時過ぎ、店の前に黒い車が止まった。
降りてきたのは宇野だった。黒いスーツ。帽子はない。店の表を一度見上げて、戸を開けた。
「奥様。専務のお言いつけで、搬入の段取りを伺いに参りました」
母が、台の内側で口を開けたまま、宇野を見上げている。背が高い。母の目が、宇野の頭の上から足元まで下りて、ことはのほうを見た。
ことはは工房の帳場から、搬入の計画を書いた紙を持ってきた。餅と餡の量、木箱の数、車の時間。宇野は紙を受け取って、黙って読んだ。読み終えて、一度だけ工房のガラス窓を見た。
「承知しました。これを専務に。――それと、出店に関わる書類は、秘書室でも写しを取らせていただきます。催事部に出されたものも」
「……どうして」
「専務のお言いつけです」
「氷川さんは、何を聞きたいんでしょう」
宇野は一拍置いた。
「お答えできません」
それだけ言って、頭を下げ、車に戻った。
母が、宇野の車が商店街を出て行くのを見送ってから、小さく言った。
「背の高い人ねえ」
ことはは、何も言わなかった。帽子を目深にかぶった、黒いコートの常連。宇野は帽子をかぶっていない。かぶれば、どう見えるのか。考えて、やめた。
◇
昼前、郵便が来た。
西園法律事務所。厚い封筒で、中は契約書の控えだった。ことはの分。遼の判と、ことはの判と、西園の判。第七条のページに、折り目がついている。読み上げたとき、西園が開いていたページだ。
ことはは封筒を持ったまま、工房の帳場の前に立った。
坂の上の家に置くか。店に置くか。
どちらでもいい、と思おうとした。思えなかった。あの家の部屋に、この紙を置きたくなかった。
帳場の引き出しを開けて、帳面の下に封筒を入れた。鍵はかけない。鍵をかければ、母が聞く。
「何、それ」
母が覗いた。
「店の書類」
嘘ではなかった。店のための紙だ。母はそれ以上、見なかった。
◇
午後、蓮田が店に来た。
スーツに、大きな鞄。店先で母に頭を下げ、ことはが出て行くと、もう一度頭を下げた。
「本店催事部の蓮田です。あの、搬入のことで、いくつか」
蓮田は鞄から紙の束を出した。催事の規則。搬入の時間、売り場の寸法、火気、衛生、試食。ことはは一枚ずつ受け取って、読んだ。
「試食は、禁止です」
蓮田が言った。
「催事場での試食の提供は、今回は認められません。それと、火を使う実演も禁止です。安全上の理由で」
「……試食も、火も」
「はい。課長の指示です」
ことはは紙を見た。看板の店が、柱の裏で、試食もなく、実演もできない。並べた豆大福を、通りかかった客が見て、買うかどうかを決めるだけ。
「蓮田さん。この規則、今回の催事で決まったものですか。それとも、本店の催事はいつもこうなんですか」
蓮田は鞄の持ち手を握った。
「……今回、課長が」
「規則の文面を、見せていただけますか。禁止の条項のところ」
蓮田は少し迷って、束の中から二枚を抜いて見せた。ことはは読んだ。
火気を使用する実演は禁止。来場者への試食品の提供は禁止。
火を使わない実演については、何も書いていなかった。
「ありがとうございます。分かりました」
蓮田は、ことはがどこを読んでいたのかを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
「あの、柊屋さん」
「はい」
「僕は、担当です。何かあれば、僕に連絡してください。課長じゃなく」
それだけ言って、蓮田は帰った。鞄を両手で抱えるようにして、商店街を歩いて行く背中を、ことはは店先から見ていた。
◇
夜、屋敷。
遼は八時に帰ってきた。食堂を通りかかって、ことはを見た。
「催事はどうなっている」
「準備しています」
「売り場は」
「……決まりました」
「どこだ」
ことはは箸を置いた。
「口を出さないでください。うちの店のことです」
遼は、ことはを見た。しばらく見てから、言った。
「勝手にしろ」
書斎へ行った。扉が閉まる。
ことはは、箸を取り直した。言うべきことを言った。頼めば済むことを、頼まなかった。これでいい。
これでいいと思いながら、一人の食堂で、箸はしばらく動かなかった。
◇
九時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
芹沢が出て、戻ってきた。
「宇野さんが、ことはさんに」
玄関に、背の高い黒いコートが立っていた。朝のスーツの上に、コートを着ている。手に、紙の束。
「奥様。夜分に失礼いたします」
「宇野さん。朝、来てくださったのに。何か」
「本店の催事の規則の一式です。催事部が出店者に渡しているものと、その元になっている本店の内規の写しを、添えてございます」
ことはは束を受け取った。蓮田が見せた二枚より、ずっと厚い。
「……これは、氷川さんが」
宇野は一拍置いた。
「専務から、ではありません。私の判断です」
「宇野さんの」
「今朝、搬入の段取りを伺って、出店者が規則の全部を知らずに催事に臨むのは本店の不利益になると判断しましたので」
宇野は頭を下げて、帰った。
ことはは玄関に立ったまま、束を見た。
束の一番上に、小さな紙が一枚、挟んであった。
火を使用しない実演については、本内規に定めなし。ただし、素手で菓子に触れる実演は、衛生の条により、手洗いの記録を売り場に備えること。
手洗いの記録。蓮田の二枚には、なかった条だった。
宇野の字だった。たぶん。
コメント
1件
うわ、このエピソード静かだけどめっちゃ重いっすね……! 六時半に店に立つことはの緊張感、来なかった常連、そして宇野の「私の判断です」って最後の紙。蓮田が「課長じゃなく」って言ったのも含めて、誰が味方で誰が敵か、まだ全然読めない感じがゾクゾクする。ことはが遼に「口を出さないで」って言い切ったあと箸が動かないシーン、グッときたわ。次が気になる!