「イデッ! イデデデッッ!!」
悲鳴にすらならない。
喉を潰されたような、か細い唸り声をあげているのは有夏である。
「アデーーーーッ!!」
断末魔の叫びに似たそれに、幾ヶ瀬は大仰にため息をついてみせた。
「有夏……、これは酷すぎだよ?」
当人が聞いちゃいないのは分かっているが、愚痴のひとつもこぼしたくなろう。
「ころされる。しんじゃう……」
ブツブツ言いながら、当の有夏は床に蹲ってしまった。
「有夏はコタツで寝ていたいのに。冬の間はずっとコタツで寝ていたいのに……」
「ちょっとー? 有夏さん?」
「コタツから出たら生きていけない……」
さめざめと、これは泣いているようだ。
幾ヶ瀬でなくとも、イラッとするのは分かるだろう。
「とっくに冬は終わったよ。もういいよ。じゃあ、次は俺の番。有夏、押してよ?」
「コタツでゲームをして……寝てたい……」
「有夏?」
「コタツにもどりたい……」
「あり……」
「コタツ……」
「………………」
幾ヶ瀬はすぅと息を吸い込み、それからゆっくり吐き出した。
4つ数えながら息を吸い、肺に酸素が充たされるイメージを保ったまま、さらに4つ。
そして今度は8つ数えながらゆっくりと息を吐き出すのだ。
イライラしたときの対処法である。
覚えておいて損はない。
事の起こりはこうである。
プラザ中崎1階の郵便ポストに入っていたチラシ。
早番から帰宅した幾ヶ瀬がこれを部屋に持ち帰ったことから、ほのぼの(自称)した事件はおこる。
『ヨガ教室オープン! これであなたもリア充になれる。男性も大歓迎』
チラシにはそう書かれていた。
ヨガの腹式呼吸の重要性や、教室の場所や営業時間、講師のプロフィールなど──細かい文字を食い入るように見ていた幾ヶ瀬が勢いよく顔をあげる。
「リア充になれるって、何て上から目線の売り言葉なの。むっ、今なら入会金無料だって! あっ、でも月謝が意外と高いな……いや待て。初月無料だと?」
立ち仕事で疲れた身体が、ヨガの神秘の癒しを求めているのだ。
無料という文句にも惹かれたことだろう。
ひとしきり騒いで、それから部屋の中はシンと静まり返った。
狭い室内に男2人。
そのうち1人は相も変わらずコタツに潜り込んで、よく見ればうっすら微笑んでいる。
「すやすや」
「えっ、何て?」
「すやすや」
「………………」
スヤスヤと気持ち良さそうな寝息を確認するまでもない。
寝ているのだ。
「……いつ見てもこたつで寝てるな、コイツ」
幾ヶ瀬、ボソリと呟く。
コイツ呼ばわりも無理ないこと。
初冬にコタツを設置してから、この男はいつもこうだ。
人間も冬眠するんだっけと戸惑うくらいによく眠る。
目覚めて出かけるのは、ジャンプが発売される月曜くらいのものだ。
「有夏、起きてよっ! 話があるんだよっ!」
怒鳴って起こすと、寝ぼけ眼の青年は「へんなゆめみた」とゴニョゴニョ呟いて、また転がってしまった。
ありえない……と幾ヶ瀬は絶句する。
「何でこんな時間に夢見るの。ゴロゴロしてばっかじゃない! ちょっとは自分の身体のこととか考えてよ!」
言いながら、これは定年後にソファーでごろ寝をしているオヤジに言うセリフだと嘆息する。
「そんなに怠けるなら、ヨガでもするといいよ!」
「よが?」
「そう! 神秘のヨガで全身を整えるんだよっ!」
「なんできゅうに、よが?」
「さぁ、ヨガをするよっ!」
結局のところ、話をそこに持って行った幾ヶ瀬は、説教をしながらも何だか満足した様子であった。
かくして、冒頭の悲鳴に戻るわけだが。
ヨガには興味津々なものの2ヶ月目以降の月謝を渋る幾ヶ瀬と、教室になんて行きたいわけがない有夏の思惑が一致した結果。
とりあえず家でソレっぽいことをしても良くない?──というところに落ち着いたわけだ。
「さぁ、やると決まったからには有夏さん? 動かすよ!」
「ひぃぃ、ひぃぃぃっ……」
なまけものを、コタツからズルズルと引きずり出す。
何ともいえないか細い悲鳴をあげながら、有夏は目をショボシヨボさせた。
「寒ぃし。ヨガとか分かんねぇし。いやだし。やりたきゃ1人で勝手にヨガれ」
「ヨガれって……」
「有夏は春になるまでコタツで暮らすんだ……」
「ちょっとー、有夏さん? もう春ですよー?」
「うるさい。何だったらドラクエ12が出るまでコタツで暮らす……」
「何言ってんの。そんなの、いつになるか分かんないじゃない」
「いつになるか分からんとか言うな」
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