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「お邪魔します……」
恐る恐る声を出して、真衣香は坪井が玄関の扉を開けたままにしてくれている、その隣を通り過ぎて彼の部屋に足を踏み入れた。
足元をみる。
ベージュ色のタイルが見えた。ここに立つ自分の足。
あの日、うつむき、涙を流す真衣香がここを出る前に最後に見たものだ。
頭に浮かんだ苦い思い出も「どーぞ。早く入って」と、すぐに返事をくれた坪井の優しい声でうっすらと消えていく気がした。
リビングに入り「お前が来てくれるの、1ヶ月振りくらい?」と、弾む声で言いながら坪井はテーブルの上にあったリモコンに触れた。
ベッドの右上にあるエアコンのランプが緑に光って動き出す。
無音だった室内に、風の音が響く。
暖かい風が真衣香の身体に触れ始めたところで「冷蔵庫何か入ってたかな……」と呟き、坪井が傍を離れた。
その背中を見つめたあと、ぼんやりと見覚えのある部屋の様子を見渡してみる。
以前来た時と変わらず黒の家具でまとめられた部屋。
立ったままの真衣香に「座っててね」と、坪井が指差したソファも変わらない。何も、変わらないはずなのだけれど。
「うん、ありがとう」と、心ここに在らずで返事をして。
どこか殺風景になったように感じる坪井の部屋の中を、再び見渡していた。
(な、なんだろう……何が……あ)
驚き、声を上げそうになって、口もとに慌てて手をやった。
なぜか? 何に驚いたのか?
前回、真衣香の心を大きく揺らしたものが、今日は”ない”から。
ベッドに置かれていた、可愛らしいふわふわのクッションが見当たらない。
部屋の中にあったピンクの卓上ミラーもなくなっているし、その周りにあったアクセサリーの類も見当たらず、よく見知ったロゴの化粧品も無くなっていた。
そう。坪井が暮らしている形跡以外、何も見えない。
目に見える事実を、真衣香の頭が正確に認識した途端、脳裏によみがえったのは『好き』だと何度も伝えてくれてきた坪井の声だ。
信じようとも、まともに聞き入れようともせずに否定してきた言葉。
真衣香の目からは、堪える暇さえもなく涙が溢れ出した。ポタポタと大粒の涙が足もとに落ちていく。
だから、「立花、ごめん。酒しかないから何か買ってくるよ」と言ってくれた坪井の方を振り返ったなら、当たり前だけどひどく驚かせてしまったのだった。
「え、ど、どうしたの!?」
坪井はキッチンから、転げそうな勢いで走って真衣香の目の前までやって来て、顔を覗き込む。
突然押しかけて来た挙句、部屋に入れてあげたなら泣き出すなんて。どこか冷静な頭の奥にいる自分が己の行動を、呆れたように振り返らせるけど。
けれど、何よりも先に、逃げてばかりだった自分の行動を謝りたかった。好きだとか、信じるだとか。口先だけだったのはどちらだろうか?
「……坪井くん」
「う、うん、どうしたの?」
「私、坪井くんの話……何も聞こうと、しなくて……ごめんなさい」
「え?」
殺風景になった部屋の中で”お前以外誰も呼ばない”と言い切ってくれた、坪井の声が、言葉が。真衣香の心の中で真実になっていく。
「覚えてる? 坪井くん。前に、楽しくて笑ってる坪井くんと、笑おうとして笑ってる坪井くんの違いくらいはわかるようになったよって……言ったの」
「……え、あ、ああ、うん。そりゃ、お前と話したことならもちろん覚えてる」
坪井は、唐突な真衣香の言葉をどう受け止めればいいのかわからない様子で答えた。真衣香も、もう少しうまく切り出せないものかと内心思ったのだが、きっと考えてばかりではうまく伝えられないんだろう。
こうして溢れ出した気持ちこそ、ありのままに声にするべきなのだろう。
そう感じたから、声を止めることはしなかった。