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高梨家の実家は、東京郊外にある古びた日本家屋だった。
志乃は駅からの道を歩きながら、無意識に指先を握りしめていた。
(“あの感じ”が、また近づいてきてる)
圭吾の背を追う彼女の視界の端で、
かつて夢の中で見た、歪んだ鏡の縁がちらりと揺れた気がした。
圭吾は、振り返りながら言った。
「怖くないですか?」
志乃は、微笑んで首を振る。
「……怖いのは、“思い出せないまま”でいることです」
彼はその言葉を聞いて、なぜか少し目を伏せた。
家に入り、埃と木の匂いに包まれる。
その奥に――かつて封じられていた納戸があった。
圭吾がふすまを静かに開けると、冷たい空気が一瞬で満ちた。
志乃は息を止めた。
そこに、あの鏡があった。
少し曇った表面に、うっすらと二人の影が並んで映っていた。
「これが……」
「はい。たぶん、あなたが会った“彼”も、ここに」
志乃が鏡に手を伸ばしかけたとき――
ふいに“声”が響いた。
《……しの》
志乃はハッとする。
(……圭吾さんの声、じゃない)
その声は、もっと幼く、もっと懐かしい。
――そう、あの鏡の中の少年の声だった。
圭吾の顔色も変わっていた。
「……志乃さん。何か、聞こえましたか?」
「うん。……あなたの、もうひとりの声、でしょう?」
ふたりは鏡を挟んで向き合った。
そして、鏡の中で――
うっすらと第三の影が浮かび上がる。
少年の姿をした“影の圭吾”。
彼の瞳は、志乃だけをまっすぐ見つめていた。
《また会えたね》
志乃の目から、ぽろりと涙が落ちる。
「……やっぱり、あなた……」
《ぼくはね、ずっとここにいた。
でも、志乃が“ぼくを忘れなかった”から、今もここにいられる》
圭吾は、その“声”を感じながら、胸の奥に熱を覚えていた。
この人が、自分の“存在”を忘れなかった。
この人が、いなかったら――自分はもう消えていたかもしれない。
(ありがとう、志乃さん……)
その瞬間、鏡の中の“影の圭吾”が――ほんのわずか、微笑んだ。
そして。
志乃の手に、ふっと触れた何かの感触。
冷たくて、でも懐かしくて、愛おしい。
志乃は、震える声でつぶやいた。
「ねえ……圭吾さん。あなたを、守らせて。
……今度こそ、ひとりにはしないから」
圭吾はゆっくりと頷いた。
その言葉が、心の奥の誰かにも届いていると信じながら。
鏡の表面には、いま確かに“ふたりとひとつの影”が並んでいた。
光と影、ふたつの存在が、重なり始めていた。