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第3話:つわりの嵐と、揺らぐ皇帝
妊娠二ヶ月目を迎える頃、世界は一変した。「奇跡」という美しい言葉の裏側に隠された、残酷なまでの肉体的苦痛――いわゆる「つわり」が、私の身体を容赦なく破壊し始めたのだ。
「うっ……、ごほっ……!」
ある朝、リビングに漂ってきたわずかな出汁の匂い。いつもなら私が美味しいと感じていたはずのその香りが、今の私の脳には「猛毒」として処理された。
猛烈な吐き気に突き動かされ、私は洗面所へ駆け込んだ。胃の中のものをすべて吐き出し、何も出なくなってもなお、胃壁が雑巾のように強く絞られるような激痛が続く。胃液と胆汁が喉を焼き、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
「ネス、大丈夫か。吐くだけ吐け。俺がついてる。全部俺に預けろ」
背中に、大きな、そして温かい手が添えられる。カイザーだった。彼は自分の高価なシルクのシャツが、私の吐瀉物や涙で汚れるのも一向に気にせず、私の長い髪を片手でまとめ、もう片方の手で優しく、何度も何度も背中を擦ってくれた。
プロとしてミリ単位の肉体管理をし、完璧な環境だけを好む彼にとって、家庭内でのこの「制御不能な不調」は、どれほどのストレスだろうか。それなのに、彼の瞳にあるのは嫌悪ではなく、痛々しいほどの私への心配だった。
「ごめん、ミヒャ……。せっかく作ってくれた朝ご飯なのに……何もできなくて、ごめんなさい……」
「馬鹿を言うな。お前が苦しんでいる時に、メニューの心配などするわけがないだろ。ほら、口を濯げ」
洗面所の床にへたり込む私を、カイザーは軽々と横抱きにし、リビングのソファへと運んだ。冷たいタオルを持ってきて私の額に乗せてくれる。その彼の指先が、微かに強張っているのが分かった。
(情けない。ミヒャの完璧な城を、私の体調不良で汚してしまうなんて。私が彼を世話しなきゃいけないのに、これじゃあ逆だ。ミヒャの負担になりたくないのに……っ)
自分への不甲斐なさと、身体の痛みに耐えかねてシクシクと泣く私を見て、カイザーはソファの脇に膝をつき、私の両手を自分の顔に押し当てた。その青い瞳には、激しい焦燥感が渦巻いている。
「……すまない、ネス。俺がお前を妊娠させたせいで、こんなに苦しい思いをさせている。お前を傷つけるものはピッチの上でも日常でも俺がすべて排除してきたのに、お前の内側からお前を苦しめるものに対して、俺は何もできない……。この俺が、お前一人を救えないなどと、ふざけた現実だ」
それは、ピッチの上でどんな理不尽な戦況も力でねじ伏せてきた「皇帝」が、初めて突きつけられた、コントロールできない不条理への怒りと焦りだった。彼は自分の無力さに、本気で傷ついていたのだ。その不器用な、けれどあまりにも深い愛おしさに、私は胸が詰まった。私は震える手で彼の頬を撫で、掠れた声で微笑んだ。
「ミヒャのせいじゃないよ。赤ちゃんが、お腹の中で『パパ、ママ、私はここにいるよ』って元気いっぱいに過ごしてる証拠だよ。ミヒャがこうして手を握ってくれるだけで、私は世界一幸せな妊婦さんだよ。だから、そんな悲しい顔をしないで……」
「……アピールにしては過激すぎる。俺に似て、自己主張が激しいやつだな。外に出てきたら、たっぷり教育してやる」
カイザーは少しだけ口元を緩め、私のお腹にそっと目を向けた。その眼差しは、冷酷なストライカーのものではなく、ただ一人の愛する男の、狂おしいほどの慈愛に満ちていた。
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