テラーノベル
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階段の踊り場。埃を被った窓から、濁った光が差していた。
誰も来ない。誰も聞いていない。
──この場所でさえ、遥は油断できなかった。
壁に背を預け、息を整えるふりをしている。
でも、それは演技でもあり、本物でもあった。
そうしなければ、声が震えてしまいそうだったから。
日下部は階段の途中で立ち止まっていた。
一段上から、遥の様子をじっと見ていた。
見ているだけ──
いつもそうだった。
「……何、黙ってんの」
遥の声が沈む。
その低さは、怒りでも嘲りでもなかった。
疲れ切った魂が、皮膚の裏から漏れ出しているような、かすかな音。
「また、“見るだけ”?」
「……ちがう」
「何が」
日下部は言葉を選ぶようにして黙る。
その間に、遥の指が動いた。
袖を引き、シャツの裾を整えるふりをして、無意識に肌を隠そうとする。
だが、乱れた襟の下から──鎖骨にかかる小さな歯型が覗いた。
それに日下部の視線がわずかに止まる。
気づいた遥は、ふっと笑った。
「……見ちゃった?」
声が乾いている。
それは傷口に塩を塗りこむような笑いだった。
「蓮司のじゃないよ。──きっと、颯馬。いや、晃司かも。……もう、わかんないや」
平坦な声。
でも、それを聞いた日下部の肩が、わずかに揺れた。
遥は構わず続けた。
「でさ、どの痕が一番、嘘に見えた?」
「やめろ」
「やめて、って何? おまえが一番、“黙って見てた”じゃん」
遥は顔を上げた。
その目には、怒りも涙もなかった。
「昔、おまえの家にいたとき、何もされなかった。……それが、いちばん、怖かった」
日下部が息を呑む。
「毎日、誰かに何かされてたのに。──痛かったり、気持ち悪かったり、苦しかったり、……それが、普通だったのに」
「おまえのとこは、静かすぎて、……死ぬみたいだった」
「だから逃げた。おまえを捨てて逃げたんだ、俺が」
日下部は言葉を失う。
「ねぇ、信じるとか言ってたけどさ。おまえ、俺の何を信じてんの?」
遥が一歩、近づく。
「俺、演技ばっかしてるし。蓮司とだって、──“やってる”し。……嫌でも、身体はちゃんと動くし」
「──楽しいの? そんな俺、見て」
「ねえ、日下部」
遥が、すっと笑った。
「壊れてくとこ、興奮する?」
「ちがう」
即答。
でもその即答は、あまりにも悲痛すぎて、遥はむしろ苦笑した。
「それ、蓮司と同じこと言ってみなよ」
「“かわいくなくなったね”とか、“壊れてくほうが好き”とか、──言ってくれたら安心する」
「だって、もう“どうでもいいもの”でいさせてよ」
「じゃないと、どこにも居場所ないんだよ、俺」
日下部は近づいた。
一歩ずつ、慎重に、けれど確実に。
遥は逃げなかった。
そのまま、ぺたんと床に座り込む。
「抱きしめてって言ったら、おまえ、どうすんの?」
「それ、演技か?」
遥は目を伏せた。
「わかんない」
「本音、ないのか?」
「本音が、演技より気持ち悪いんだよ」
言い切った声が、かすかに震えた。
「──助けてほしいって思ったことはあるよ。……でも、助けられるような人間じゃない」
「守られたいよ。……でも、そんな価値ない。汚いから。全部、俺が悪いから」
「信じてほしいよ。……でも、俺自身が、俺のこと信じてないから」
「……じゃあさ、どうすればいい?」
「日下部、おまえ、俺をどうしたいの?」
沈黙が落ちる。
日下部は言葉を吐き出すようにして答えた。
「……生きててほしい」
遥は笑った。
──たぶん、それがいちばん信じたくない言葉だった。
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