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『帰るわ。
馨ちゃんによろしく』
夕方、姉さんからメッセージが届いた。
姉さんの恋人も苦労するな。
今日、馨は打ち合わせに出て直帰予定。誘おうかとメッセージ画面を眺めて、やめた。
久し振りに独り酒でもと思ったが、それもやめた。
帰って馨の部屋の準備でもするか……。
平内の話を聞いた時はさほど感じなかったが、時間が経つにつれてゆっくりと苛立ちが募っていった。
馨に結婚したい男がいた――。
処女じゃないことは気にならなかった。けれど、男慣れしているようではないし、あまり経験がないのだろうと勝手に思っていた。
人数の問題じゃねーよな。
俺は何人かの女と付き合ってきたが、一度として結婚を考えたことはない。それどころか、『愛してる』と口にしたこともない。
けれど、馨は結婚を約束し、『愛している』と囁き合った相手がいた。
俺はまだ言われたことのない、言葉。
契約だなんて言い出したくせに……。
暗くて静かな家に帰った時、今朝の馨の姿を思い出した。
陽の光が満ちた温かいリビング。香ばしい香り。エプロン姿の馨。
どうしてこんなに、求めてやまないのだろう――。
年甲斐もなく『運命』なんて言葉を信じてしまいそうなほど、馨が愛おしくてたまらない。
まさか、本気で結婚に惹かれる日がくるとは思わなかったな……。
『高津さんにプロポーズされて、本当に嬉しそうだった』
平内の言葉がよみがえる。
義父の転落死がなければ、馨は他の男の妻になっていた――。
馨が俺じゃない男の為に台所に立ち、俺じゃない男に抱かれるなんて、想像だけでも腹立たしい。
馨は俺のモノだ――――。
俺は今朝まで姉さんが眠っていたベッドからシーツを剥ぎ取り、洗濯機に放り込んだ。
*****
どんなに遅くなっても金曜の夜中に馨の荷物を運ぼうと思っていたのに、あっさり断られた。
「今週は忙しくて荷物もまとめられてないんです! ちゃんと明日には行きますから」
確かに今週の馨は忙しかった。
佐々さんへの引継ぎと、その為の打ち合わせ、先方への挨拶、宇宙展の正式契約。
俺は渋々、一人でよく行くBarに飲みに行った。カウンターに座り、ウイスキーのロックを注文する。
「雄大?」
振り返ると、玲が立っていた。
「よう。仕事か?」
「そ。一人?」
「ああ」
「一緒に飲んだら那須川さんに怒られる?」
「いや? 座れよ。キールでいいか?」
付き合っている時、玲がよく飲んでいた。
当時、玲の家がこの店の近くで、俺たちはよくここで待ち合わせをした。
「ん」
キールと生ハムのサラダ、ミックスナッツを注文する。
「金曜の夜に独り酒?」
「そっちこそ」
「宇宙展のお陰で、馨が残業続きでな」
「奇遇ね。私も宇宙展のお陰でしばらく東京にいることになったの」
「お前が?」
「そ。畑中のアシスタントにつくの」
バーテンダーにウイスキーとキールを差し出され、俺たちは無言で乾杯をした。
「ちょくちょく顔を合わせることになりそうだな」
「え?」
「宇宙展は俺と馨で担当する。俺はアシストだけどな」
「部長が?」
「人手不足でな」
「公私混同なんて、らしくないわね」と言って、玲が笑う。
「ま、私はまた雄大と仕事ができて嬉しいわ。那須川さんには可哀想だけど」
「あいつなら大丈夫だろ」
「信頼してるのね。けど、女心はそんなに単純じゃないわよ?」
「たまには嫉妬されたいね」
「あら。そういうの煩わしいんじゃなかったの?」
言われて、気がついた。
そうだ。
俺は束縛や嫉妬が煩わしくて、それを恋人にもはっきり伝えていた。結婚する気がないことも。
俺もヤキが回ったな……。
出張で玲に嫉妬する馨を可愛いと思ったし、嬉しかった。
『お前は俺のモンだ』なんて、束縛以外の何物でもない。
『俺はお前のモンだろ』なんて、束縛してくれと言っているようなものだ。
「はははっ……」
「何よ?」
「いや……。俺も青かったなと思ってさ」
「え?」
「束縛も嫉妬も煩わしいと思ってたけど、要はそうしたい、そうされたいと思う相手がいなかったってだけなんだよな」
馨を束縛したい。
馨になら、束縛されたい。
「何よ……それ……」
玲が聞き取れるか聞き取れないかの声で呟いた。
「なんで……そんな……」
「ん?」
表情が曇ったような気がした瞬間、いつもの強気な視線で俺を見た。
「気持ち悪いのよ。デレデレしちゃって!」
「気持ち悪いはねーだろ」
俺は、歯に衣着せぬ玲の性格が好きだった。一緒にいて楽だった。
だから、玲が転勤になった時、『また、な』と言って別れた。
玲となら、再会しても男女の関係抜きの気心知れた友人として付き合えると思ったから。
互いに三杯ずつ飲んで、店を出た。
「自分の分くらい、出すわよ」
最後に飲んだダイキリが効いたのか、酒に強い玲の足元が危うい。俺は彼女の腰を抱き、支えた。
「彼女が怒るわよ?」
「友達に何杯か奢ったくらいで、怒るかよ」
「友達……ねぇ……?」
俺はタクシーを停め、玲を乗せた。
「タクシー代は出さないから」
「友達だものねぇ?」
「おやすみ」と言って、車から離れようとした時、ジャケットの襟をグイッと引き寄せられた。
前のめりになり、車に手をついて身体を支える。その拍子に、玲の唇が俺の唇に触れた。
「おやすみ」
トンッと胸を押されて、俺は車から三歩後退った。
酔ってんな……。
俺は乱れたジャケットを直し、走り去ったタクシーとは反対方向に歩き出した。