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山下佳彦、35歳。
俺は、水原社長に首を切られた。
「どうして解任されるのかわかってますね」
だと……
仕事を辞め、しばらくは家にいた。
貯金は十分過ぎる程あった。
朝からビールを飲み、何をするわけでもなくテレビをぼーっと見る毎日。
会社にいた時と比べたら、何とも低堕落だ。
俺は、本気であの子のこと……
なんて、今更言ってもしょうがない。
彼女とどう接したらいいのかわからず、ただ毎日コピーを頼んだ。
その時、近くで見る顔がすごく可愛くて。
「ちゃんと鍵かけといてよ」
「わかってる。今夜も遅いのか?」
「ええ。残業になると思う」
パートに出てた妻が、俺が失業した瞬間に、そこの社員になった。
どうせ、俺とは顔を突き合わせていたくないんだろう。
今夜もホスト通いか……?
妻が男に金を貢いでるなんて情けない。
「ねえ、明日、ちょっと話があるから付き合って」
妻からの誘いなんて何年ぶりだ?
「ああ」
「行ってきます」
妻が、元気のない声でつぶやいた。
ドアを開けて出ていく背中が、とても小さく見えた。
「……」
あいつと出会ったのは夜の街。
お酒の勢いに任せた一夜のつもりだった。
なのにお互いなぜか離れられず、のらりくらりと関係を続けて……今に至る。
そう、俺たちは本当の夫婦ではない――
妻と呼ぶのは、会社での体裁を考えてのことだった。
気づいたら、いつの間にかこんなことになって。
明日、いったいどこに行くって言うんだ。
次の日、昼過ぎに目覚めると、もう妻は支度を済ませて待っていた。
「なんだよ、その荷物」
小さめの旅行カバンに思わず目がいった。
「運転するから」
そう言うと、着替えを急かされ、車に押し込まれた。
俺、まさかこいつに殺される?
このバックの中には……
なんてことを考えてるうちに、1時間半くらいか、車は旅館に到着した。
「ここ……」
「久しぶり……だよね」
「あ、ああ……」
昔、1度だけ妻と泊まった旅館。
たった1度の旅行。
それ以来、仕事にかまけて、どこにも連れてってやれなかった。
俺達は、1番眺めの良い部屋に通された。
「おい。この部屋、高いんじゃないのか?」
「ここが良かったの。あなたと来た、最初で最後の楽しい思い出の場所だから」
「……あ、ああ、そうだな。確かに……でも、お前……」
「景色が最高なのよね、この部屋。海も見えて。初めて来た時も、あまりに綺麗だからって、ずっと部屋にこもって……」
正直、あの時は、疲れていてあまり動きたくなくて、部屋でゆっくりすることを提案した。
妻にしてみれば、初めての旅行なんだから、観光もしたかったのかも知れない。
「そんな嫌味を言うために来たのか? 俺のことどうするつもりだよ。お前の魂胆聞かせろよ」
思わず口調が荒くなる。
「私の名前は明美。お前でも、おい、でもないわ。ずっとそんな風に呼ばれて、あなたはいつも仕事仕事って、私のことをないがしろにしてきた。私達は確かに夫婦じゃない。でも私は……あなたのこと……」