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思えば私は、校舎裏に行くことなど初めてであった。登校はいつもギリギリ、下校はただ淡々とそれとなく。行こうなどと思い付いた事すらなかった。だが、この光景を見て浮かんだ言葉は。『もっと早く来るんだった』『来てよかった』などといった素晴らしいものばかり。
繁る草木と百合の花。地を貫く鉄柱。滲み照らす赤い光。そんな絶景の中心に彼女がいる。気づけば、ここに来る前の恐怖や緊張などはどこかへ消えていた。ただ見とれていた。この美しさに、不知火レモンに。『神を秘める』と書いて神秘である。この景色、それはまさに神秘。思えば私は、彼女を正面から見たことなど初めてであった。顔は勿論整っているが、そんなものではない。内在的な何かが、神がかった何かが彼女の中にあるように私の瞳は捉えた。それが私の魂を掴んで離さなかった。心を蝕むという言葉があるが、それに引けを取らぬほど強く握り締められていた。
「佐藤サナさん。すみません、突然呼び出したりなんかして……」
「いえ、大丈夫ですよ」
不思議と鼓動が轟いて仕方が無かった。それも緊張からによるものではない。高鳴り、と呼べば良いのだろうか。この場で彼女と二人きりだという状況が嬉しくてたまらない。私自身にも未だ理解できぬ何かが私の心を動かし、掴んでいる。この感情を何と呼ぶのか、私はまだ知らない。だが、一つだけ言える事がある。私にとっての不知火レモンは、友でも何でもない顔見知り程度の関係性の筈の彼女は。特別な存在なのだ。
「とても綺麗なところですね……」
「ええ。もしかして佐藤さんは初めて? ここに来るのは」
「はい。初めてです」
今思えば、私は彼女を避けていたのかもしれない。自分でも自覚せずに、この感情に気づいてしまわぬように。一体、いつからだったのだろう。こんな想いを抱き始めたのは。いや、初めからだ。初めて目にしたその瞬間から、私は彼女に憧れていたのかもしれない。不知火レモンは私と対極にいるようで。輝きとはまた違う、私の心引き寄せる魅力を持っていた。
「私はね、よく来るんだ。ここに」
風が二人の間を吹き抜け、花弁や葉は舞い散る。私の黒髪と彼女の銀髪が。私の紅い瞳と彼女の碧い瞳が。私たちの時が一瞬、交わった。何が面白かった、と聞かれれば正直なところわからない。だが、面白かった。私たちは二人で小さく笑った。意外であった、不知火レモンが笑うなどと。私の中での彼女はいつも独りで、孤高といった印象であったから。笑う彼女は単なる一人の女の子であった。それが悲しいような嬉しいような。そんな気がした。ああ、そうだ。彼女も人間なのだ。当たり前の事だというのに、私はそれをどこか忘れてしまっていた。
「今日はあなたに、伝えたい事があったの。
サナさん――”あなたが好き”」
ざくり。
次の瞬間、私は既に彼女のそんな言葉はどうでも良く感じてしまっていた。まるで時が静止したかのように、世界から全ての音が消えた。彼女が突然唾を散らした。いや、それは唾では無い。赤い塊だった。咳をするように、生理的な当たり前の現象のようにそれは行われた。血だ。不知火レモンが血を吐いた。私の鼓動は揺れていた。それはもう、血液が走るのが感じられるくらいに。腹が焼き切れるように熱かった。怒りでは無く物理的にだ。火炎に炙られるなんて温いものでは無い、太陽が胃にいるかのような。そんな感覚だ。視界が赤に染まっていった。涙のように血が流れる。何が起きているかなど理解できるはずもない。ただ、死がそこにある事だけが確かであった。空洞だ。熱を感じる箇所から、身体として感覚が一切無い。まるで初めから何も無かったかのように。赤に染まる視界の隙間から私は見た。黒く光る鋭いものが私と彼女を貫き繋げていた。理解は出来ずとも本能からわかった。私は悟った。呆気なく悟った。
あ、死ぬんだ。私。
黒は勢いよく引き抜かれ、赤が噴き出た。痛みは無い。あるのは何かが消えたのだという感覚のみ。鼓動の音ももう聞こえなかった。自分という存在が、この身体から抜け落ちていく。どこまでもどこまでも。地の果ててと堕ちてゆく。浴槽に溺れたかのように世界が鈍い。もう意識すらままならないのだ。回る視界を光が潰す。先刻までは、あれほど美しく感じられた光が。
それでも。それでも、諦めはしなかった。せめて死ぬ前に、その理由を知りたかった。血で何も見えなくとも、光がそこにあろうとも。私は瞬きすらしなかった。不条理など知らない。そんなものはブチ壊す。私はもう、何も失いたくは無い。
――黒。黒い。深淵。そこにいたのは、六本の腕を持ったヒト型の闇だった。ああ、なんだ。また悪魔か。