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剣の切っ先のような翼を広げて潮風を乗りこなす冠鴎が高地の海沿いをなぞるように飛んでいる。円らな黒真珠の眼下には、高山植物が馴染みのない塩辛い風に揺れている。潮の香る風が吹き、牧羊犬に追い立てられる哀れな羊群のように散り散りになった細かな雲が濃い緑の林を通り抜けていく。黄色の冠を戴く海鳥はその林を南北に貫く街道から目を離さない。他にも何羽かの鴎がついてきて、不安そうに鳴いている。群れから離れた一羽を責め、心配してもいる。
地上の石畳の街道を一台の馬車と三十程の騎馬が隊列になって走っていた。馬に跨って風を切る黒衣の僧服は背中に炎を背負い、白鞘を佩いている。それらは護女に侍る加護官だということを鴎は知っている。聖女の候補者たる護女に加護官が侍るのであれば、聖女自身にも加護官がついていたとしても何らおかしくはない。
箱馬車は確かな造りで、ひとかどの地位ある人物が乗っているのは間違いないが、装飾としては地味でまるで安い棺のようだ。前後と脇を挟む馬たちも陰気な紺の馬衣をかぶせられ、奇妙なことに脇腹に一枚ずつ計二枚の石板を下げている。
クオルが使っていたのは粘土板だったが聖女の広間にあった石碑は人造魔導書だろうとベルニージュは推測していた。だとすればあの石板もそうなのかもしれない。
つまり計六十枚ほどの人造魔導書と溟海の剣をあの隊列は所持しているというわけだ。彼我の戦力差は大きい。ユカリたちの四つの魔導書は元々救済機構の所有していた物であり、当然その力は十全に把握されているだろう。対策するのもさして難しくはない。他には大地の剣と魔法少女の魔導書だ。殺し合いであれば天地がひっくり返っても勝ち目はないが、目的は多少穏当であり、やりようはあるはずだ。
鴎から意識を切り離し、ユカリはまだ若い船の新しい船室の清潔な寝台の上で目を開く。レモニカの焚書官の鉄仮面がユカリを覗き込んでいて、悲鳴を堪えるように息をのんだ。
「びっくりした。どうしたの? じっと見たりなんかして」とユカリは尋ねる。
レモニカは変わらずじっと見つめて、しかし安心させるように微笑む。「見守っておりました。ご安心ください。誰にも指一本触れさせていませんわ」
「そう。じゃあここまで運んでくれたのもレモニカなんだね。ありがとう。それはそうと作戦会議しよう」
ユカリは寝台を降り、船室を出て、少し色褪せた菖蒲色の外套を潮風に翻し、レモニカとともにモディーハンナの姿を探す。帆柱には今もジェスランが縛り付けてある。
「自由にしろとは言わないけど、おじさんにはきついよ。何とかならない?」
他にどうしようもない。
青空を旋回する冠鴎の群れを見つめていたモディーハンナに後ろから声をかけると、跳び上がって振り返る。
モディーハンナは息を整えるように胸に手を当てて言う。「てっきりここへ鴎が戻って来るのかと思って待ち構えていました」
ユカリは困った風な笑みを浮かべて答える。「すみません。魂だけで戻ってきたんです」
たぶん。
その場でユカリは冠鴎の目を通して見てきたものを二人に伝える。
「どうなさいますの?」とレモニカは不安そうに眉根を寄せてユカリを見上げる。「当然のことですが、とても厳重に守られているに違いありませんわ。そうでなくとも魔導書なのですから、簡単に参るはずもありません。それに加護官、というのは詳しく存じ上げませんが、人造魔導書は魔導書に引けを取らない触媒だと聞き及んでおりますもの。ベルニージュさまが熱心にネドマリアさまとお話していました」
「加護官は簡単にいえば親衛隊みたいなものですね」モディーハンナは潮風に暴れる髪を抑えつけて説明する。「基本的には僧兵の中でも精鋭中の精鋭が選抜されます。秀でているのは剣術のみならず騎馬術や弓術、捕手術をも鍛え上げているとか。当然、聖女の加護官ともなると――」
「精鋭中の精鋭中の精鋭ってことですね」とユカリは腕を組み、海の向こうの高地を走っているだろう聖女の隊列を見透かすように見つめて言った。「当然、戦いは避けます。必要なのは溟海の剣だけですし。ただ、聖女は剣と名付けたようですけど、今もそうかどうかは分からない。海を操る魔法の品が剣である必要性はないと思いますし、結局のところ正体は羊皮紙ですから」
「そうですわね」レモニカはしっかりと頷く。「羊皮紙かもしれませんし、あるいはジェスランの剣とは別の剣に宿らせている可能性もあります。単純にジェスランが嘘をついている可能性もありますわ。気に留めておきますわね」
「本当のことを言ったんだけどなあ。別の剣に宿らせている可能性は否定できないけどさ」とジェスランは一人呟く。
慈悲深い夜は星々で飾り立てた暗い帳の裾を引きずって、様変わりしたガミルトンにも分け隔てなく、その聖らかな腕を広げる。その呟きは夢見る人の泡沫の生を慰めた。人と同様に棲み処を失った冠鴎もまた新たな海岸で豊かな風の吹く朝の夢を見た。
ユカリとレモニカ、モディーハンナは不安げな僧侶たちや十分な金で雇われつつも戸惑いを隠せない水夫たちに任せて船を沖に残す。グリュエーの力で海抜の低い高地、北高地に上陸した。既に船にて聖女アルメノンの騎馬隊列に先回りしており、街道脇の林の中でその訪れを待ち構えている。
街道の先にはロープスウェルという宿場町がある。既に日も暮れている以上、そこで一泊する可能性が高いと踏んだ。聖女が現れないとなるとロープスウェルの寺院は騒ぎになるだろう。そこから街道へ人が遣わされるまでに、ここから逃げ去っていなくてはいけない。
蝙蝠の耳で隊列を確認し、偵察を終えたユカリが意識を取り戻すと、倒れないように抱きとめてくれていた母エイカの姿をしたレモニカから身を離す。
「ありがとう。レモニカ。そろそろ来るよ。備えて」
直に雨粒が屋根を叩くような音が聞こえ、遠雷の轟きに似た音が聞こえ、とうとう多数の馬の足音と石畳を走る車輪の唸り声が聞こえる。
ユカリは装飾過多の短剣、大地の剣を右手に握り、意識を集中させた。ユカリの魂と大地の剣の中の魔導書が呼応するように繋がり、大地そのものに袖を通したかのような一体感を得る。
大地の全てが自在だ。身じろぎするように大地の衣を揺らし、袖を引っ張るように地を割り、裾を持ち上げるように隆起させ、聖女の馬車と加護官の馬を隔離する。馬車は街道を破壊して隆起した土塊に囲まれて身動きが取れなくなった。いかに訓練された馬たちといえど、己の蹄以上に信じる確固とした大地に牙を剥かれ、恐怖と混乱に呑み込まれて暴れる。
「あとお願い」と言って、ユカリは大地の剣を預けて、風に乗って飛び上がり、暴れ馬の群れを飛び越え、土壁を乗り越え、隔離された聖女の馬車の隣に着地する。
扉は素直に開いたが、中にいたのは聖女アルメノンではなかった。
炎の刺繍に全身を覆われた黒い衣は身を縮ませる。栗色の瞳には恐怖と悲しみの色が見え、炎に似た赤い布飾りの被り物を抑えるように頭を抱えていた。
「ノンネット!? どうしてここに?」
ノンネットは安心と恐怖を混じらせた声で訴える。「こちらの台詞です! ユカリさん。どうして、どうしてこんなことを?」