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ユカリはノンネットの視線から逃れるように内装も簡素な馬車の中に目を走らせる。溟海の剣どころか剣も刃物も羊皮紙も見当たらない。御者は一介の僧侶らしく、ただ怯えている。アルメノンの姿はない。しかし『深遠の霊杖』の力で魔導書があることも聖女アルメノンがいることも分かっていた。おそらく加護官の騎馬の中に紛れていたのだ、とユカリは考え足らずを悔やむ。
「ユカリちゃん! 出ておいで! こっちはレモニカを抑えたよ!」
土壁の向こうからアルメノンの余裕ぶった声が聞こえた。ふとノンネットの改めて取り繕った責めるような顔を見て、ユカリはかぶりを振ると、飛び上がり、土壁の上に立つ。
加護官の黒衣を纏うアルメノンがシャリューレの姿のレモニカを背後から羽交い絞めにし、その首元に溟海の剣らしき剣を押し当てている。レモニカは『至上の魔鏡』をかぶっているが、冠の水は乾いている。水を蒸発させる魔術か何かで対策されていたのだろう、とユカリは推測する。
「全く君はとんでもなく暴力的な手段をとるんだね。信じられないよ、ワタシは」とアルメノンがわざとらしくため息をついて言った。
たぶん挑発をしているつもりさえない、とユカリには感じられた。
「貴女に言われるほど暴力的な手段を取ったとは思えませんが」とユカリは返す。
何人かの加護官が松明を携えてアルメノンのもとに集まった。
「やっぱり親かなあ。それともクオルがいらないことをしたのかな?」
それは挑発に違いなく、今度は聞き捨てならなかった。
「私の出生に、貴女も関係しているんですか?」
「していると言えばしているし、していないと言えばしていないね。絨毯を踏む時は眺めないし、眺める時は踏まないものだよ。それよりユカリちゃん。こんなに酷い姉妹の再会があるかい? 愛しい親友の姿をした可愛い妹の首に刃を押し当てる者の気持ちにもなってくれよ」
「貴女はわたくしの姉、なのですか?」とレモニカが刃から逃れるように仰け反りながら震える声で言う。
「そうだよ。驚いた? お姉ちゃんだよ。レモニカはきっと呪いのために軟禁生活をしていたんだろう? あそこはそういう所だからね。そして兄弟姉妹に会うのも初めてだったりするんじゃないかな? まあ、ある意味ではその方が幸せだったかもね。身内の血で血を洗うよりはさ」
レモニカは恐怖を押し込めて尋ねる。「お姉さまはどうして救済機構に?」
「いいね。お姉さま。良い響き」アルメノンはうっとりした眼差しでレモニカの横顔を覗き込む。「ついぞそんな風に慕われたことはなかったよ。どうしてって昔の護女はみんな同じようなものだって知ってるだろ? もちろん攫われてきたのさ」
「大王国の王女をさらうことなど簡単なことではないはずです」
「一人きりで家出した君がよく言うよ」そう言ってアルメノンはシャリューレの姿をまさぐる。「親友の体を親友に無断でまさぐるのはなんだか罪悪感があるね。くんくん。匂いもシャリューレに変身してるのかな。レモニカ、大地の剣はどこ?」
「わたくしは持っていませんわ」
「そうみたいだね。じゃあユカリちゃん、君が持ってるんだね? おっと、待って待って。取り出そうとしなくていい。もう知ってると思うけど、手で握らなくては使えないが、手で握るだけで自由自在だからね。ノンネット! ユカリちゃんから大地の剣を取り上げてくれ! 注意深くね! 刃物じゃなくて羊皮紙の可能性もあるから!」
「はい! すぐに!」土壁の上に立つユカリの背後、足元からノンネットが答えた。
ノンネットは御者の手と肩と頭を借りて馬車をよじ登り、土壁の上に飛び移る。
「失礼します」と言って、ノンネットもユカリの合切袋や懐の中を探る。「猊下。刃物も羊皮紙も見当たりません。薄い紙の束がありますが、これですか?」
アルメノンは否定する。「そんなのじゃない。他にないか? 君の足元の土壁が何よりの証拠だ。魔導書でもなければ彼女らにこんな魔術は使えない。よく探してごらん」
「しかし」と言いつつもノンネットは再びくまなく探す。しかしどこにも見つからない。
「何? 林に隠したの? じゃあ、もういいや」ため息をついてアルメノンは言った。「さあ、海に呑み込まれて死にたくなければ大地の剣を使うしかない。窒息死はつらいらしいよ」
アルメノンの背後から物々しい音が迫る。ガミルトンの低地を沈め、ホールガレンの港町を砕いたものに比べれば小さいが、人間を死に至らしめるには十分な背丈の海嘯が先陣を切る勇ましい騎兵の如く吶喊して林の向こうから迫る。
しかし街道に至るずっと手前で堅牢な大地が隆起し、聳える。少しも揺らぐことのない土塊が、咆哮をあげる海嘯を押しとどめた。
「ほら、やっぱり。持ってるんじゃないか。……あれ?」アルメノンはユカリの空いた手を見る。「何? 誰が持ってるの?」
加護官の一人が何者かの気配に気付き、松明をかざす。アルメノンが振り返った先で松明に照らされていたのは尼僧モディーハンナだ。
アルメノンはため息をついて言う。「君か。モディーハンナ。本当に勝手が過ぎる子だよ。ワタシは君の才能を買ってるってのに。それよりユカリちゃん、昨日今日知った人間に魔導書を貸したの? 呆れちゃうね。馬鹿正直というか――」
アルメノンが言い切る前に、どこの陰から飛び出してきたのか何者かがアルメノンを激しく突き飛ばし、レモニカを奪い取った。しかしそのまま逃げ去りはせず、隊列の外のもう一人の人物にレモニカを預けると、こちらに振り返って剣を構える。
シャリューレとヘルヌスだ。シャリューレの構える剣は前と同じだ。魔導書の宿った天空の剣なのだろうか。
「痛いわ! 離しなさい!」と言ったのは蛙の姿のレモニカだ。ヘルヌスの両手の中で暴れている。「もう攫われるのはこりごりだわ! いい加減にして!」
ヘルヌスは心底嫌そうに呟く。「ああ、本当に蛙になったよ。話には聞いてたけど。暴れないでください、殿下。貴女を逃がしたら俺の首が飛ぶんですよ。いや本当、文字通り」
「ユカリさん!」と言ってモディーハンナがユカリの方へ大地の剣を投げて寄越す。
ユカリは冷や汗をかいたがグリュエーが上手く受け渡してくれて、柄をつかみ取った。大地の剣を右手に、魔法少女の杖を左手に構える。
「痛いなあ、もう。これ、骨、折れちゃったんじゃない?」少しも痛くなさそうにアルメノンは鎖骨の辺りをさする。
三つの魔導書が一堂に会した。四つの魔導書もここにある。計七つの魔導書だ。これで全てだろうか。しかし想定していなかった最悪の可能性がすぐそこに迫っていることにユカリは気づく。もしも魔導書が完成してしまったら、魔導書備え付きの魔法が使えなくなる。しかしそうなっても魔導書がもたらした結果が消えることはない。海に沈んだガミルトンを戻す術がなくなるかもしれない。
溟海の剣を取り戻し、海を海に帰すまで、まだ魔導書を完成させてはならない。
当然そんなこととは露知らず、アルメノンは魔導書を奪おうとするだろう。少なくともアルメノンにはそれでも大して不都合はないはずだ。
一方シャリューレもレモニカを攫ってそのまま逃げないということは魔導書を奪うつもりに違いない。
『深遠の霊杖』と『神助の秘扇』もまたモディーハンナに預けている。今自由に動けるとすればモディーハンナだけだ。とにかくここから遠ざけなければならない。
「三つ巴だね。さあ、加護官諸君。やられっぱなしってわけにはいかないよ」とアルメノンは気楽そうに言った。「数的には有利だけど、シャリューレがいると分かんないなあ」
「グリュエー」とユカリは他の誰にも聞こえないように囁く。「魔導書を完成させるわけにはいかない。モディーハンナを遠くへ逃がして。顔にだけ吹きつけ続ければそれで気づいてくれるはず。最悪の場合多少乱暴にしてもいいから」
「やってみる」とグリュエーも囁き返した。
ここに来る前にユカリはグリュエーのことをモディーハンナに教えている。きっと察してくれるはずだ。加護官たちもユカリとシャリューレに注目している。後は逃がすための時間稼ぎだ。
「だけど手を組んだわけじゃない、みたいだね?」聖女アルメノンはユカリとシャリューレを交互に見る。「シャリューレはジンテラから北に逃げたって聞いてたから、捜索がてらホールガレンまで行ったんだけど。見逃してただけか」
アルメノンも剣を構えるがユカリほどではないにしても素人の構えだ。剣として使うつもりなどもとからないのだろう。
モディーハンナはまだ逃げていない。距離を取ってはいるが、風が顔にだけ吹きつけていることに気づいていない。
「その前に一つ聞いておきたいんですけど」どの前だか分からないがユカリはそう言った。「クオルが母に何をしたのか。知ってるなら教えてくれませんか?」
アルメノンは首を傾げる。
「って言ってもね。あれはクオルが勝手にやったことだよ。ワタシは関知してないんだよね」
「本当ですか?」と言ったのは蛙のレモニカだった。「天罰官ボーニスはクオルに言っていました。彼らは研究成果を催促している、と。そして天罰官は大聖君でもある貴女の手駒では? 無関係とは思えませんね」
意外な人物の思わぬ指摘にユカリもアルメノンも驚く。それまで間断なく隙を伺っていたらしいシャリューレもレモニカの言葉には耳を傾けていた。
「可愛い妹がこの話に噛んでくるとは思わなかったよ」とアルメノンはレモニカ蛙を見て言った。「確かにその通り。だけどその研究ってのはまた別だよ。人造魔導書の方さ。まあ、肝心の研究成果が瓦礫の下に埋まっちゃって苦労してるんだけど。でも、可愛い妹ちゃんの言う通り、関知はしていなかったけどクオルの研究と機構が無関係ってわけでもないんだな」
アルメノンはユカリに向き直る。「クオルがユカリちゃんの母親や他の女たちに施した実験はワタシが進めていた実験の剽窃だからね」
ユカリはアルメノンを睨み据えて言う。「『禁忌の転生』のこと?」
「何だ。知ってたの? いや、何で知ってるの? ああ、そうか」アルメノンはシャリューレの方に目を向ける。「なるほどね。そういう流れか。そう、その通り。特定の人物をね、新生児に生まれ変わらせる研究をしてるんだ。まだ一度も成功してないんだけどね。もしかしたら生まれ変わってたかもしれないけど、赤ん坊は全部死んじゃったからさ。ああ、いや、クオルの実験を含めたら一人だけ生き残りがいるんだった」
そう言ってアルメノンはユカリに向けて微笑みを見せた。「ねえ、ユカリちゃん。いや、ラミスカちゃん。前世のことは覚えてる?」
ユカリの中に沸々と怒りがわき上がる。何に対する怒りなのか分からない。自分を生まれさせたことに対する怒りだろうか。あるいは、何事もなく生まれたかもしれない本当のラミスカの魂を自分が冥府に蹴落としたのかもしれないことだろうか。