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#ハッピーエンド
#婚約破棄
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屋敷での浮世離れした生活が始まって数日
私は、月城様の「異常なまでの手厚さ」に、心臓が休まる暇もなかった。
朝の着替えから始まり、指先一つ触れさせないほど丁寧な髪梳き、そして三度の食事。
彼はそれらすべてを「私の特権であり、至上の悦びだ」と断言し、侍女や式神が手を貸す隙さえ一切与えない。
そんなある日の穏やかな午後。
いつもなら淡々と事務仕事をこなしているはずの月城様が
いつになく険しく、真剣な表情を湛えて私の前に座り込んだ。
その眼光の鋭さに、私は思わず背筋を正す。
「輝夜、折り入って相談……いや、確認したいことがある」
「はい……?なんでしょう、そんなに怖い顔をして…」
「君は、何をしている時が一番幸せを感じる?どんな些細なことでもいい。今の私には、君の幸福の定義を知る必要があるんだ」
相談というにはあまりに重く
まるで国家の存亡を左右する機密事項を問い詰めるような尋問の熱量だった。
私は戸惑いながらも、ふと
感情を押し殺して過ごした月の宮では決して許されなかった「地上の贅」への憧憬を思い出す。
「ええと……この間いただいたお食事が、とても美味しかったので。…あ、甘いものとか、少し気になります!地上の菓子は、見た目も可愛らしいと聞いたことがあって」
ぽつりと、願望というよりは独り言のように漏らしたその一言。
その瞬間、月城様の深い瑠璃色の瞳に、獲物を見定めたような鋭い光が宿った。
「甘いもの、か。……承知した。一刻だけ、待っていてくれ」
彼はそう言い残すと
目にも留まらぬ速さで複雑な印を結び、低く、けれど威厳に満ちた声を響かせた。
「急急如律令──!帝都中の逸品を、一欠片も残さずここへ集めよ!」
彼の背後に控えていた数十体の一等式神たちが
主の放つ凄まじいプレッシャーに弾かれるように、一斉に四方八方へと飛び出していく。
……正直、その気迫は、千年の眠りから覚めた大怨霊でも現れたのかと錯覚するほどに凄まじいものだった。
それから二時間も経たないうちに。
静寂に包まれていた寝殿の縁側に、次々と「それ」が運び込まれてきた。
「月城様……これは、一体どういう…?」
「京で一番と名高い菓子屋の逸品、そのすべてだ。羊羹、練り切り、求肥、飴細工。……もし足りないものや、気に入らないものがあれば、今すぐ店ごと買い取ろう」
縁側を埋め尽くしたのは、まるで宝石箱をひっくり返したかのように美しい菓子の山だった。
一つ二つどころの騒ぎではない。
何十、何百という漆塗りの箱が積み上がり
濃厚な砂糖と小豆の甘い香りが、春の風に乗って部屋中に充満していく。
「ま、街中の菓子がなくなっちゃいます!こんなに一人で食べきれるわけがありません!」
「君が一口食べて、その蕾のような唇を綻ばせてくれるなら、代価など安いものだ」
「さあ、まずはこの『雪間草』から試すといい。白と緑の対比が、君の清らかな瞳の色に似ていたから、真っ先に選んだんだ」
月城様は私の隣に、衣が触れ合うほどぴたりと腰を下ろすと
繊細な花の細工が施された生菓子を、黒文字で丁寧に掬い上げて私の口元へと運んできた。
拒否権など端から存在しないような、甘く、けれど逃げ道を塞ぐような独占的な眼差し。
「……さあ、あーんして。私の手から、食べてほしい」
「っ……あ、あん……」
観念して小さな口を開けば、上品な餡の甘さと、舌の上でとろけるような繊細な食感が広がった。
あまりの美味しさと、鼻に抜ける爽やかな香りに、強張っていた私の頬が思わずふわりと緩む。
「……んんっ、おいしい…っ、すごく、甘くて……幸せな味がします」
私が、心からの笑みを零した、その時だった。
穏やかだった屋敷の庭に、突如として、ざあっと激しい旋風が吹き抜ける。
見れば、まだ硬い蕾だったはずの庭の桜の木々が、信じられない速度で膨らみ
一瞬にして淡い紅色の花を咲かせ──
そのまま、視界を埋め尽くすほどの満開になった。
さらには池の蓮までもが、奇跡のような光を放ちながら次々と花開いていく。
「えっ!?お庭が……!」
「……おっと。すまない、少しだけ術が漏れたようだ。抑えていたつもりだったのだが」
月城様は事も無げに、いつものポーカーフェイスで言う。
けれど、よく見ればその白い耳の先が、隠しきれない情熱で微かに赤く染まっていた。
長年、感情を殺して冷徹に生きてきた彼の強大な魔力が
私の笑顔を見たことによる「魂の歓喜」に過剰反応し、周辺の季節さえも狂わせてしまったのだ。
「君が喜ぶと、私の内側がどうしようもなく騒ぎ出すんだ。制御できないほどにね」
「……輝夜、もっと食べて。君の口を、私の与える甘さだけで満たして、私のことしか考えられないようにしたい」
彼は私の指先に心持ち残った小さな砂糖の粒を、自らの唇でそっと、熱く拭い去った。
心臓の鼓動が、耳元で鐘のようにうるさく鳴り響く。
「月城様、あの……そんなに見つめられると、味が、わからなくなります……っ」
「構わない。味など忘れてもいい。……ただ、私という存在だけを、君の芯まで、骨の髄まで刻み込みたいだけなのだから」
仕事一筋で、鉄の規律を誇っていたはずの男は、今や一人の少女を甘やかし
堕落させるためだけに、国をも揺るがすその強大な力を惜しみなく注ぎ込んでいる。
美しく、そして逃れることのできない箱庭のような結界の中で
私は彼の深く重い愛情に、じわじわと浸食され始めていた。