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家に戻った和香は、あんまり住んでないから、綺麗な状態を保てそうなものだけど。
掃除しないと、やっぱり、埃っぽいな、と思いながら、自分の部屋を眺めていた。
狭いながらも、楽しかった我が家だ。
冷蔵庫を開けると、肉まんの賞味期限が過ぎていた。
肉まんの歌も詠まなければな、と思いながら、捨てていると、誰かが壁を叩いてきた。
羽積の部屋がある方の壁だ。
なんだろ? と近くまで行くと、今度は軽く叩いてくる。
やっぱり、羽積さんか。
倒れているので、助けてくださいとか?
具合が悪いとか?
敵にやられたとか?
敵って誰?
私かな? と思いながら、羽積の部屋を訪ね、ピンポンと鳴らそうとしたとき、ガチャリとドアが開いた。
顔を出してきた瞬間、羽積が言う。
「ビールを渡そうと思ったのに、出遅れた」
ビールを?
何故? と思う和香に、羽積が缶ビールをひとつ投げてくる。
「外でも眺めながら、少し呑まないか」
「ありがとうございます。
でも、今日、寒いので――
あ、羽積さん、熱燗もいける口ですか?」
ああ、と羽積が頷いたので、
「じゃ、ちょっとお待ちください」
と言って、和香は一度部屋に戻っていった。
食材は次々腐りゆくが、酒類はなかなか腐らないせいもあり、豊富だった。
和香はとっておきの日本酒を電子レンジで熱燗にすると、外に持って出た。
酒を用意するときの手際だけはいいとよく姉に褒められていたものだが……。
「はい、あったまりますよ」
和香は、なみなみと日本酒の注がれた大きめの白いコップを羽積に渡した。
立ちのぼる蒸気を見ているだけで、鼻がつんとして来て、温まる感じがした。
「……ありがとう」
二人で、灯りの少ない街を見下ろし、熱燗を呑む。
「羽積さんは最初から知ってたんですかね? なにもかも」
なんの話とも語らずにそう言うと、羽積は、
「俺たちがなんでも知ってると思うなよ。
そうだったら、わざわざこんなところで、いろんな職業の人間に身をやつして、ゴソゴソしてたりしないだろ」
と言う。
はは、そうですよね、と笑ったあとで、和香はコップの中を見つめて言った。
「全部放り出して逃げたら、ややこしいこと全部、終わりにできるかなーとか、ちょっと思っちゃったりもするんですよね」
「なにを放り出すんだ?
神森耀か?
それとも、神森耀か?
あるいは、神森耀か?」
「なんで、何度も課長だけ放り出されるんですか……」
と和香は苦笑いする。
「……専務たちは善人じゃないかもしれないですけど。
悪人ではないかもしれないし。
なんだかんだで、会社をここまで引っ張ってきて、あんなに大きくしたメンツだし。
時折思うんです。
お坊ちゃん育ちで、生真面目。
融通が効かず、扱いづらかったのは、父の方だったのではないのかな、と。
……そういう上司、いたら困りますよね、と自分も社員となった今、思います。
人がいい悪いは、会社の発展にはあまり関係ないですしね」
はは、と和香は笑ってみせる。
「専務たちは、敢えて自分達が泥を被って、うちの父を追い出したのだったのかも。
まあ……自分の出世に邪魔だった、が一番大きいとは思いますけど。
でも、私たちに、悪いと思う気持ちはあったんでしょうね」
和香は羽積にスマホを見せる。
「スマホのエアドロップ、連絡先のみにしたら、外に知ってる人がいたんです。
父の古い友人だと名乗る人で。
時折、困ったときに相談にのってくれてたメールアドレスの人です。
お会いしたことはなかったんですが……。
でも、このメールアドレスがスマホに表示されたとき、近くを歩いていたのは、お孫さんの手を引いた専務だったんですよ」
私はもう、なにが真実なのか、わからなくなりました、と和香は言う。
「なにが真実でもいいだろう。
過去のことさえ忘れれば、お前は今、幸せなはずだ。
……お前にとって厄介なもの。
お前を惑わせるものが目の前から消えれば、お前は幸せに暮らしていけるはず」
「え?」
羽積は酒のなくなったコップを和香に返して言う。
「ありがとう。
俺は今日は幸せだった」
おやすみ、と羽積は部屋に入っていってしまう。
「あ、ありがとうございました。
羽積さん」
話を聞いてもらって少しスッキリした和香は、もう閉まっている扉に向かい、深々と頭を下げた。
月曜の朝。
下に迎えに来てくれている耀のところに駆け下りながら、和香は叫んだ。
「課長っ、大変ですっ。
羽積さんが荷物ごと消えてますっ」
「お前のストーカーをやめて、自分の持ち場に帰ったんじゃないのか?」
そう車の中から耀は言うが。
「いや、それがうちの玄関に手紙が挟まってて。
私の目の前から、私を惑わせるものを消してくれるとか書いてあるんですよ。
で、どっちをっ? って思って」
「どっちをって?」
と耀が自分を見上げてくる。
「課長と専務たちの、どっちを消すつもりなのかなってことですよっ」
「待てっ。
なんで俺が消されるっ!?」
今、一番、私の心を乱してる人だからですよっ、と思ったが、恥ずかしくてちょっと言えなかった。
「……本気なんでしょうか。
でもまあ、羽積さん、いい人なんで。
ほんとうに人のためにそこまでしそうで、ちょっと怖いっていうか」
と和香は呟いたが、耀は、
「ちょっと待てっ。
いい人は誰のためだろうが、人間、消さないぞっ!?」
と悲鳴を上げる。
「まあ、とりあえず、課長は今はご無事のようなんで、会社に行ってみましょうっ」
和香は羽積からの手紙を手に耀の車に飛び乗った。
おはようございます~と下で普通に挨拶し、社内に入った和香たちだったが。
いつものように自分の部署には行かずに、役員室のあるフロアに上がってみる。
だが、そこには通常の朝の風景が広がっていた。
それでも、耀は油断せずに、側を通った女子社員に聞いていた。
「専務は今、どちらに?」
「あ、そういえば、まだお見かけしてません。
いつもお早いのに珍しいですね」
彼女が通り過ぎたあと、耀が呟く。
「ここに来る前にすでになにか……?」
和香はあまり人気のない静かなフロアを見回しながら言った。
「でも、常務と専務と一気に片をつけようと思ったら、二人そろってる社内がいいような気もするんですが。
……そういえば、この上の会議室のフロア、この時間なら、まだ人もいないのでは?
私なら、誰かに邪魔されずに、なにかするときは、あそこを選びますね」
「今度から、お前に人気ないの会議室に呼び出されたときは気をつけるよ……」
ともかく、行ってみよう、という耀とともに、上のフロアに上がると、和香の読みは正しく。
一番奥の大きな会議室のスクリーンの前に、専務と常務。
そして、羽積が立っていた。
羽積の手にはナイフも銃もなかったが。
その身体にはみなぎる殺気があった。
常務は怯えていたが、専務は悟り切ったような顔をしていた。
「羽積さん」
と和香が呼びかけると、チラ、と和香を振り返り、羽積は言う。
「邪魔するのか、No.7」
それは、組織にいたときの和香の呼び名だった。
「やめてください、羽積さん。
あなたにそんな指令は出ていないはずです。
本来の仕事に戻ってください」
そう言いながら、和香は、ぎょっとした。
近くの長机の下に時也と美那がしゃがんでいたからだ。
美那の手には長机の上に配ろうとしたらしき書類があり。
時也の足元にはお茶のペットボトルのつまったダンボールがあった。
「……早起き、三文の徳じゃない」
と青ざめた美那が呟いている。
確かに、いつもギリギリにやってくる美那が普段通りに働いていたら、今、ここにはいなかったことだろう。
羽積の声が大きな会議室に響いた。
「No.7。
伝説の電卓の達人、石崎和香」
……電卓が飛んでくるのだろうか、という顔で、時也が身構える。
いや、経理上のごまかしを見逃さないだけなのだが。
「お前の姉は算盤の達人だったな」
算盤も飛んでくるのだろうか、と美那も身構える。
「こいつら、叩けば埃は出る。
俺が闇に葬るから。
お前は幸せになれ、和香」
「森くん」
と観念したように、専務は常務に呼びかけた。
「石崎くんは、藤村くんの娘だよ」
えっ、と常務が専務を見る。
「我々もここらが潮時ではないかね。
……私は和香くんが藤村くんの娘だと知って雇った。
彼には申し訳ないことをしたから。
復讐されても仕方がないと思っていた」
それでも雇ってくれたのか、と和香は少ししんみりする。
「和香くんは、藤村くんに似て、ちょっと融通が利かなさそうだが。
藤村くんに似て、頭の回転が速く、発想が普通じゃない感じで、会社に貢献してくれそうだったしね」
そう和香に言い、専務は微笑んだ。
そんな専務の額はよく見ると、赤くなっている。
羽積さんがなにか攻撃を?
と思ったが、公安が攻撃して、そんなデコピンまがいのことで済むわけはない。
それに気づいた専務は、はは、と力なく笑い、額に手をやり言った。
「羽積くんだっけ?
彼が来たとき、驚いて、足がもつれたんだよ。
もう歳だから」
当時のことをなんて言い訳しても、我々に野心があったのは確かだ、と専務は言う。
「和香くん、こんなことを言うのは卑怯なんだが。
このまま私たちを静かに引退させてくれないか。
私たちの罪が暴かれると、就職したばかりの末の息子や、孫たちにも悪影響があるだろうし。
あの子たちに罪はないから」
「和香たち一家を離散させておいて、自分達の家族だけ守ろうというのは、おかしくないか?」
と羽積は言ってくれるが。
和香の頭には、あの日、祖父の手を握り、ニコニコ歩いていた男の子の姿が浮かんでいた。
あの子を自分みたいな目には遭わせたくないな、と思う。
「わかりました。
そうですね。
ここで私が復讐を遂げたら、きっとあなたがたのご家族が今度は私を恨みに思うし。
それがあってるとか間違ってるとかの問題じゃなくて。
いつもなにをしていても、心に重石が載ってるような人生を、もう誰にも歩いて欲しくないから」
そう和香が口に出したときが、専務も常務も一番辛そうな顔をしていた。
「ありがとう、和香くん。
私たちはこれで引退するよ」
「いえ。
引退はしないでください」
と言うと、専務たちが目を開く。
「このまま残って、会社を発展させてください
あなたがたには、その義務があります。
あなたがたは、父がいない方が会社の未来が見えると思ったから、父を追い落としたはず。
だったら、この会社を、やっぱりそれで正解だったとみんなが思うような世界的な大企業にしてみせてください」
失礼します、と和香は彼らに頭を下げ、羽積にも頭を下げた。
羽積に言う。
「羽積さん、私にわからせたかったんですよね?
復讐なんてしても、なんにもならないって。
……ありがとうございました」
和香はまだ長机の下にしゃがんでいる美那たちにも頭を下げ、大会議室を出て行った。
この会社に入って働きはじめてから、いつも不安だった。
日々の暮らしと働く充足感に流され。
自分は復讐するもことなく、なんとなく、人生を終えてしまうんじゃないかと。
だけど、羽積さんのおかげで、父の無念を彼らにぶつけられたし。
彼らの罪を許すこともできた。
こんな簡単に、彼らを許せたのは、きっと課長のおかげだ。
課長がずっと後ろから見守ってくれていたから。
そして、課長が私に今まで考えてもみなかったような平穏な人生を味あわせてくれたから。
二人でご飯を食べて、図書館に行って、お散歩をして。
そんな普通の人には、当たり前すぎて、いちいち意識することもない日常を味あわせてくれたから――。
和香は廊下で立ち止め、耀を見つめた。
「ありがとうございます、課長」
「いや……、俺はなんの役にも立ててない」
そう言う耀に和香は笑った。
「なに言ってるんですか。
課長に出会わなかったら、私、おねえちゃんが言っていたことがほんとうだってわからなかった。
なにもかも忘れて幸せになることの方が大事だし。
それが一番の復讐だって」
「和香……」
「あ、もう始業時刻ですね。
急ぎましょうっ」
と和香は微笑み、耀を振り返らずに歩き出した。