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以上だ。特に問題はなかったような気がする。
結局、明彦を中国版ゾンビにはしなかったのだから。
「私、何かしてもうた? ごめんね」
疲れていた明彦を起こすのが憚られ、何時に起きたいか聞いてあげなかった。
もしかしたら、何かの用事に遅れてしまったのかもしれない。
「何かした? だと! 結婚式の翌日の朝、消えた花嫁の言葉か? それは!」
そう言われれば、確かにそうである。
「ごめんなさい。私なんかいなくてもアキにい…明彦さんは気にしないと思ったから」
「気にしない?そんなわけあるか! 昨日結婚したのをもう忘れたのか? 一晩寝たらリセットされるのか。だから高校生の頃、微分積分を三回も俺に教えさせたのか? そういえば、化学もロクに理解していなかったから……」
くどくどと明彦の説教が始まり、思わず小さくなって自分から正座する。
微分積分は仕方がない。だって何がわからないのか、わからなかった。それに今では微分積分が何だったかも思い出せない。
当時、スラスラと説明していく明彦に対し、私が全く理解できないという顔をすると、今度は明彦がこんな簡単なものも理解できないのかとばかりの驚いた顔をしていた。
それから、明彦は勉強を教えてくれるときは、一から全部を紙に書いて、わかるか? わかるか? と何度も聞きながら教えてくれるようになった。
数学の成績表に2がつかなかったのは、勉強を見てくれていた明彦のおかげである。
「だって…。理数系は難しかったんだもん」
姉に憧れた麗は必死に勉強をして何とか姉と同じ高校に入学した。
とはいえ、姉とそこでクラスメイトになったのが縁で親友になったという明彦はもう卒業していたし、そもそも特進クラスだった。
しかし、姉のファンクラブの会長でもある麗にとって、推しがいた空間に行くというのが大事だったのだ。
しかし、普通科の、それも補欠合格がやっとだった麗は、入学してすぐ、スラスラと授業を進める先生と、それを理解できているクラスメイトに着いていけず、愕然としたことを今も覚えている。
「理数系は難しかった? 古文も英語も壊滅的な点数をとってきたくせによく言う」
壊滅的な点数とは酷い言い様だ。
平均点にギリギリ届かないくらいだった。
……明彦がヤマを教えてくれていたから。
「そんな昔の事はもう忘れてよ」
上目使いに明彦を見ると、明彦はコホンとわざとらしく咳をした。
「そうだな。今朝の話をしようか」
(しまった。藪蛇だ)
「いや、だって、今朝は明彦さんが気持ち良さそうに寝てたから、起こすの悪いなーと思って、つい」
「ならば、俺が起きるまで待っていれば良かったんじゃないか? ええ? それか、夫を朝だよ起きてと可愛く起こす新妻をしてくれればよかったはず」
麗は、明彦が夫と妻という単語を強く発音するせいで、己が明彦の妻になったのだと強制的に意識させられた。
「オッシャルトオリデス」
麗はシュンと俯いた。
明彦は娶った以上、本気で麗を妻として扱ってくれるつもりなのだ。
なんの利益もないだろうに。
哀れみ、だろうか。政略のコマである麗のことなんか籍だけ入れて放っておけばいいのに、麗が中学生のころから妹分として可愛がってきたから、放置するのは気が引けるのだろう。
「いつも面倒見てくれてありがとう。でもホンマ、私のことは気にかけてくれんでええよ。明彦さんに好きな人とかできても、嫉妬のあまり暴れたりせんと粛々と離婚するって約束できるし」
明彦の妹分のままでいたいのも、明彦にこれ以上面倒をかけたくないのも麗の本心だった
ずっと可愛がってくれていた明彦にこれ以上迷惑はかけたくない。
「そう約束される方が不快だ。離婚はしない。そもそも……俺が無償で勉強を教えてやったのは、後にも先にも麗だけだ」
それは知らなかった。
だが、明彦が大学生時代に難関大学を受験する学生が通う学習塾の講師のアルバイトをしていたのは聞いていた。
つまり、本来ならばお金が発生するものを麗はタダでやってもらっていた事になる。
「ごめんなさい。いつも手間かけさせて。でも、もうほんまに、私の事は気にせんと好きに生きてくれてええんやで」
明彦に相応しい女性は、姉のような才媛で麗ではない。当たり前のことだ。
「全く、本当に好きにしていいなら、麗は今頃ベットの上で俺に組み敷かれて鳴いている」
「へっ?」
突如として発せられた淫猥な雰囲気のする言葉に麗は驚いた。
見つめてくる明彦の瞳が、ゾッとするほど艶っぽくて、麗は頬に血が集まり、赤くなっている気がした。
「な、何で、そないなこと言うん……?」
両手で顔を隠そうとすると、いつの間にかソファから下りていた明彦に両手を捕まれ、顔から剥がされる。
至近距離で、麗の頬だけでなく顔全体が熱くなる。
「それはっ………俺が、麗を……だな」
何となく明彦の顔も赤くなっているように見えた。
「うん」
続きを促すように頷くが明彦は何も言わない。
「麗が、……だからな」
全く中身のない言葉が続くので、やはり結婚の理由は言えないことなのだろう。
会社はどうなるのだろうか?
じっと明彦を見つめていると、ゆっくりと明彦の手が離れ、そのままソファへ戻っていった。
「………………ところで、麗、新婚旅行はどこに行きたい?」
「新婚旅行?」
予想の斜め上から来た明彦の話題に麗は目を丸くした。
「ああ。急な結婚で、ドレスや指輪、それに、俺の家に住むことだって勝手に決めただろ? 慌ただしい思いをさせたし、新婚旅行くらいは好きなところを言っていい。とはいえ、そんなに長くは休めないから、あまり遠くには行けないがな。で、何処に行きたい?」
麗は混乱した。
新婚旅行、ハネムーン、確か坂本龍馬とその妻が日本で初めて行ったやつ。結婚したてのラブラブの二人が寄り添って行く旅行。
(それをアキ兄ちゃんと行くの? 二人で? 政略結婚なのに?)
「私は行かんでええよ。お留守番しとくし、明彦さんは楽しんできて」
明彦の満足するような旅の費用など、麗一人分ですら、逆立ちしても出せない。
麗の給料は安い。本当に安い。
社長令嬢なのだから、ちょっとくらい色をつけてくれてもいいのに、と甘えたことを考えたこともあるレベルだ。
元々父は麗の入社を嫌がっていたので、あり得ないとわかっているが。
「新婚旅行だと言ったろう? 何故一人で行かなければならない。あれか? 俺は一人で観光地で写真を撮り、一人で隣にいない妻の肩を抱き、一人で乾杯をし、一人で誰もいない空間に甘い言葉を囁くのか?」
すかさず麗の脳内で、世界遺産を前にピースをしながら自撮り棒で自撮りをしている明彦や、海を前に右腕を広げ、左手でグラスを傾け、足を組みながら夕焼けの街に向かって、君の瞳に乾杯と口説き文句を言っている明彦の映像が浮かんだ。
明彦の顔が無駄に良いだけに、その間抜けな様子に思わず笑いそうになって、変な咳が出た。
「……っん、いや、そうやなくて。他の誰かと行ってきたらええんちゃうかなー、と思って」
麗は顔の前で手を振り、自分は遠慮すると伝える。
「妻と新婚旅行に行かずに誰と行けと言うんだ」
「えー」
麗は今お付き合いしている人はいないのかと聞きかけ、流石に口をつぐむ。
明彦は父のような不倫男ではない。
「いや、いい。この事に関しては麗が信用できないような生き方をしてきた俺が悪かった」
「生き方が悪いだなんて、そんな大層な」
明彦が女性を取っ替え引っ替えしていることは麗も昔から知っていた。
それも、美人でグラマラスな女性ばかりを。
ただ、それぞれの美女達の期間が被っていたことはなかったはず。
だからこそ、麗は明彦と父を重ねずに懐くことができたのだから。
(ああでもここ数年は、アキ兄ちゃんのカノジョ、紹介されてなかったな……)
「兎に角、新婚旅行は俺と麗で行く。何処がいい? 国内だと温泉地か沖縄のリゾートホテルという手もある。どうせ、パスポートを持っていないだろう?」
明彦の言葉に麗は得意になってフフンと笑った。
「それが、私持ってるねん」
麗は海外に行ったことがないので、それまでパスポートは必要なかった。
だが、いつかアメリカに姉のお世話をしに行きたいと思っていたので、取得しておいたのだ。
確か名字が変わっていても航空券と名前が一致すれば問題なかった筈だ。棚橋に嫁ぐと決まったときに調べた。
「でも、国内の方がええかな。あんまりお金ないし」
「お金があったら何処に行きたいんだ?」
「アメリカ! 絶対、アメリカ! 姉さん、そろそろお味噌汁が恋しくなってるころやと思うねん。作ってあげに行かないと」
喜ぶ姉を想像し、うっとりする麗に明彦が大きなため息をついた。
「……ほかには?」
「せやねー。ヴェネチアに行ってみたいな。姉さんがゴンドラから見る街並みはそれは綺麗やったって言ってたから。それに、バルセロナでサクラダファミリアも見てみたいわ。姉さんが荘厳でありながら緻密で圧倒されたって褒めてたから」
姉は学生時代、高給の塾講師や単価の高い単発のアルバイト、そして明彦と共同で事業を起こして稼ぎ、そのお金で世界各地に旅をしに行っていた。
麗は姉から土産話を聞く事が楽しみで、いつも姉が帰って来るのを今か今かと指折り待っていた。
「あ、そやそや、あとはエジプト。姉さんが……」
「もういい。麗音が関係のないところで行きたいところはないのか?」
明彦が目頭を揉みながら、質問を重ねてくる。
「うーん、なら、台湾かな? こないだテレビで台湾の旅行番組やってて、料理が美味しそうやったから」
芸人と大御所女優とオカマの3人が出演していた旅行番組はタイトルに食い倒れと書かれていただけあり、美味しそうな料理を沢山紹介していた。
麗は芸人が旨い! と唸っていた小籠包が本当に美味しそうに見えたので、記憶に残っていたのだ。
「よし、台湾で決定だ」
「決定? え? 決定っ!?」