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夏の午後の柔らかな陽光が『サラ・ベーカリー』の大きな窓から差し込み、店内の木製テーブルにまだらな影を落としていた
午後三時を過ぎ、客足が落ち着いた店内には、焼きたてのパンの香りがほのかに漂い、レジの釣り銭を数える沙羅の手元だけが、静かな空間にカチャカチャと小さな音を響かせていた
しかし沙羅の指は硬貨を揃える動作を繰り返しながらも、どこか心ここにあらずといった様子だった
「何を考えてる?沙羅?」
ふと、親友の真由美が沙羅のすぐ背後に忍び寄り、いたずらっぽく耳元にフッと息を吹きかけた
「わからない・・・」
沙羅は沈んだ声で答え、首を振った・・・レジの引き出しをそっと閉め、カウンターに両肘をついてため息をついた
「考えることが多すぎて・・・心が揺れてるの」
沙羅の声はまるで風に揺れる木の葉のように頼りなかった、彼女は指先でカウンターの木目をなぞった
真由美は、店頭の棚に並んだバゲットを透明なポリ袋に詰め、配達用の白いコンテナーに次々と並べながら沙羅に視線をむけた
「改めて見ると音々ちゃん、力にびっくりするほどそっくりね、何?あのシャチハタ親子、圧倒的に力のDNAが勝ってるじゃない」
真由美は声を潜め、外から客が入ってこない事を確認してから言った、その真由美の言葉がまるで水面に投げ込まれた小石のように、沙羅の心に波紋を広げた
「どうするの?」
真由美の声は穏やかだったが、その奥には沙羅を突き動かそうとする強い意志が隠されていた
「どうもしないわ、また来たら追い返すだけ、力はそのうち消えるわよ、ノラ犬と一緒」
沙羅はそう言いながらツンと顎を上げ、カウンターの端に置かれたテイクアウト用の箱を組み立て出した、細かく組み立ててどんどん重ねていく
「でもいい機会じゃない? 音々ちゃんと力は接触するべきよ、だって彼は音々ちゃんの実の父親なのよ」
「そんなこと無理よ!」
沙羅の声が突然店内に響いた、彼女は箱を握り潰し、カウンターに叩くように置いた、瞳には怒りと恐怖が交錯していた
「音々になんて言うの?あなたのパパは私を捨てたのよって?」
沙羅の声は震え、最後にはかすれて消えた
「ドロドロの離婚経験者から言わせてもらうと、たとえあなたが力をどう思おうと、音々ちゃんには父親のことを知る権利があるわ、今まで話したことなかったんでしょう?」
真由美の声は優しかったが、どこか容赦がなかった
「子供って、私達が思ってるよりずっと色んなことを考えてるわよ、今朝、音々ちゃんが学校に行く前に『力は何処に泊まってるんだろう?』って、浩紀に言ってたの、聞いてた私、ドキッとしたわ」
沙羅の目が見開かれ、凍りついたように動かなくなった、音々が力を気にしている? そんな可能性は沙羅の心のどこかでずっと避けてきたものだった
本当は、沙羅は何度も想像していたのだ・・・20歳になった音々が、自力で父親を探し出し、星のように絆を紡ぐ姿を、しかしそれは今ではなく、もっと遠い未来の話だと自分に言い聞かせていた
真由美は黙って沙羅の背中に手を置いた、その手はまるで沙羅の揺れる心を支えるように、優しくしっかりとそこにあった
「沙羅・・・わかるよ、私も離婚した時同じだったから・・・でも音々ちゃんも力をひと目見て、何か感じたモノがあったんじゃないかしら、親子の絆とか・・・あの二人にしか分からないものが・・・」
真由美の声には、過去の自分を振り返るような苦さが滲んでいた、沙羅は顔を上げ、真奈美の目を見た・・・
そこには沙羅の痛みを理解する親友の眼差しがあった、真由美は意地悪ではなく、心底自分を思って言ってくれている、沙羅の胸に熱いものが込み上げてきた
でもこんな風に、突然青天の霹靂とはまさにこのこと・・・音々が力を憎まないでほしいと願ったこともあった・・・
私だって、今までも娘の存在を彼に伝えようと出来たかもしれない・・・それをしなかったのは私自身・・・音々に責められてもしょうがないかもしれない
でも音々を生んだ時は一人で育てるつもりだったし、父親なんかいらないと思っていた・・・
今思えば自分勝手だったかもしれない、本当は力の声を聞きたかった、彼に私の声を届けたかった、帰ってきてほしかった
しかしあの頃の自分は結婚式に結婚できなかった女の怒りに囚われ、長い時間をかけて力への思いを消したのだ
「どっちみち、音々ちゃんの事をどう思ってるのかは、聞く必要があるんじゃない?それと今日はもう閉店よ!」
沙羅は驚いて真由美を見た、そういえばさっきからせっせと彼女は店に陳列しているパンを、白いコンテナーに片っ端から詰めている
「え?・・・どうして?まだお店にこんなにパンが残っているわ?」
沙羅の質問に真由美がヒラヒラと伝票を振って見せる
「今ある店のパンが全部売り切れたわ、あなたに家まで配達して欲しいんですって!」
「誰が?」
しばらく真由美と沙羅は見つめ合った
「行けばわかるわ」
そう言って真由美は店のパンをいそいそと白いコンテナに詰めだした
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沙羅は力の実家の前にじっと佇んでいた・・・・
目の前にはかつて何度も足を運んだことのある懐かしい家屋が広がっている・・・
高校時代、力と付き合っていた頃、毎日のように一緒に過ごしてお互いの家を行き来した、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる
力のお父さんの健一さんの趣味である園芸の庭を沙羅はざっと眺めた
色とりどりの花々が丁寧に手入れされ、季節ごとに表情を変える庭は一見何も変わっていないように思われた
だがよく見れば新しい花壇が加わり、植木の配置も変わっている、8年の歳月は確かにここにも流れていたのだ
沙羅はぐっと奥歯を噛み締めた
あの結婚式の日のことを思い出す、純白のウェディングドレスに身を包み、結婚式場で力の到着を待ち続けたあの瞬間・・・
幸せの絶頂から一転、連絡すらろくに取れず、置き去りにされた自分・・・
胸の奥にしまい込んだ痛みがざわめきと供に蘇る、だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない、沙羅は深呼吸し、力の家のインターフォンを鳴らした
ガラッ!
「沙羅ッ!」
玄関のドアが勢いよく開き、力の姿が飛び出してきた
沙羅の心臓が一瞬跳ねる、8年ぶりに目の当たりにする力は、ロックスターとしての輝きをまとっているものの、どこか高校時代の少年の面影を残していた
沙羅は用心深く力を見つめた
その体から発せられるパワーに胃がしめつけられ、脚から力が抜けそうになった
彼は相変わらず憎らしいほどハンサムで、それが沙羅には腹立たしかった、あれだけの事がありながら彼だけが変わらずにいるなんて不公平だ
―二度と会う事が無いと思っていた人なのに―
自分の人生に切っても切れない繋がりを持った人・・・
彼がもし娘の繋がりを強くしようとすれば、計り知れない被害をもたらす可能性がある
その事を考えると沙羅は身の毛がよだった、それでも次の瞬間には表情の制御を取り戻し、事務的に言葉を紡ぐ
「お店の在庫商品全部とのご注文でしたね!53個で5万3千円です!」
ドンッと、沙羅はパンがぎっしり詰まった白いコンテナを土間に置いた、コンテナの重さは心の重さと比例するかのようだった、そしてヒラリと力の目の前に伝票を掲げた
力は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐにウキウキとした笑顔を見せる
「え? ああ! そうだね! カードでお願いします!」
力は黒いクレジットカードを差し出した、その軽やかな態度はまるで何もなかったかのような笑顔に、沙羅の胸は締め付けられる
―どうして私に会えて嬉しくてたまらないって顔をするの? ―
8年前、結婚式の日に自分を置き去りにした男が、なぜこんな無邪気な顔で立っていられるのか、沙羅は冷たく切り返す
「決算カードリーダーを持ってきてないわ、現金でお願いします!」
「え? そ・・・そう? ちょっと待って! 父さん!父さん!」
力が慌てて後ろを振り返り大声で叫んだ、すると奥からバタバタと足音が響き、必死の形相で健一が玄関に飛び出してきた
「やっ・・・やぁ! 沙羅ちゃん! 久しぶりだね!」
健一の声は明るく懐かしさに満ちていた、沙羅にとって健一はかつて第二の父親のように優しくしてくれた存在だ
庭で一緒に花の世話をしたり、夕飯をご馳走になったりした記憶がよぎる、だが今はそんな思い出に浸る余裕はない、沙羅はこれ以上この二人に話すことなどないとばかりに、伝票を健一に突き出した
「お会計を!!」
「父さん! 立替といて!」
力が慌てて健一に振る
「え? ああ!! ハイハイ!」
健一はゴソゴソとズボンのポケットから財布を取り出し、手に持った伝票の金額を見て、ぎょっとした表情を浮かべた
「ご・・・五万!」
沙羅は感情を押し殺し、プイッと顔を背ける
「無いなら帰ります」
「ああっ!! ちょっと待って! 払う! 払うよ!ちょっと待って」
健一が慌てて財布の中を漁り、足りないのか慌てて家の中に引っ込んだ
「ね・・・ねぇ・・・沙羅・・・上がって行かない?」
力はその横で沙羅の顔色を伺いながら、慎重に言葉を選んだ
「僕達の娘のことも話し合いたい―」
「私の娘よ!!」
―あなたは私に精子を提供しただけの存在でしょ!―
そう言おうとして思いとどまった
力の不在の中、十月十日このお腹の中で育てて半身を痛めてこの世に誕生させ、夜泣きに耐え、熱を出した娘を看病し、パン屋を経営しながら必死に生きてきた・・・
なのに力は今さら何を言うのか、沙羅の声は鋭く冷たく響いた
「・・・僕の顔が見たくないのはわかるけど・・・」
「私は忙しいの!」
力は言葉に詰まり俯く・・・
健一も気まずそうに現金を握りしめたまま二人を見守る、沙羅の瞳には怒りと悲しみが混在している
力はあの日の選択を後悔しているのだろうか?
それとも、単にロックスターとしての気まぐれで、過去を取り戻そうとしているだけなのか?
沙羅の心は揺れ動く
大人気ない喧嘩を吹っ掛けたい訳ではない
ただ・・・あまりにも突然の事で
出来るなら、この二人と関わり合いたくない