「本当、礼とか要らねぇから……」
小さく吐き捨てるように言った想に抱き起こされながら、それでも結葉はやっぱりこの幼なじみの彼に感謝せずにはいられないのだ。
「想ちゃんがね、いつでも連絡していいって言ってくれたから……だから私、勇気が出せたんだよ?」
もしも逃げ出すことが出来たとして、誰にも頼れる宛がなかったとしたら。
そう考えたら、結葉は心細くて何も出来ないでうずくまってしまっていたはずなのだから。
「想ちゃんがいてくれてよかった……。ホントにホントに有難うね」
それは、本心からの言葉だった。
***
「結葉……」
想はすぐそばに座る結葉を抱きしめようと手を伸ばしかけて。
けれど寸でのところでグッとその手を握り込んで自分の腿の上に下ろすと、気持ちを切り替えるように言った。
「――大体の事情は分かったよ。そんな話を聞かされちゃ、ますますお前を旦那んトコに帰すわけにゃあいかねぇって思ったわ」
その言葉に結葉が顔を上げると、想は不安げな顔で自分を見上げてくる結葉の髪の毛をぐしゃぐしゃっと撫でた。
そうして結葉を勇気付けるみたいにニッと笑ってみせると、
「とりあえず、まずは買い物だな。お前の服も買わねぇとまずいし、アイツもあのままってわけにゃ行かねぇだろ?」
トートバッグに入れられたまま、中でカサカサと音を立てている雪日を指差す。
「お前んトコにあったような専用のでっかいアクリルケースはさすがに無理だけどさ……。ホームセンターで衣装ケース買って帰ってちぃーと細工したら結構いい感じのが作れると思うぞ?」
言って、「行くか?」と結葉に問いかけてくる。
その申し出にうなずきかけて。
ハッとしたように揺れる瞳で想を見上げると、結葉は恥ずかしそうにつぶやいた。
「……想ちゃん、ごめんなさい。私、お金、持ってない……」
***
実際結葉は、雪日を連れ出すだけで精一杯だったのだ。
いつも持ち歩いていた財布や化粧ポーチなどが入ったバッグも、偉央に隠されてしまっていて見当たらなかったから。
とにかく逃げることだけを考えて、無一文で飛び出してきてしまった。
「バーカ。そんなん気にすることねぇよ。金なら俺が持ってる」
言って、想がニッと笑ってくれたけれど、結葉はソワソワと落ち着かない。
「……ごめんね、想ちゃん。私、バイトとかしてちゃんと返すから」
眉根を寄せて想を見上げたら、一瞬だけ押し黙った想だったけれど。
そこは結葉の性格を熟知した幼なじみ。「返さなくていい」とか言わずに、「ん、それで良いよ」と再度頭を撫でてくれた。
それが、結葉にはとても有り難かったのだ。
マンションを出るとき、結葉が手に出来たのは雪日入りのキャリーと、封の開いた彼のご飯。
それから首輪がわりに偉央から持たされていたGPS機能付のキッズ携帯と、身体を隠すために使ったバスタオルのみ。
キッズ携帯は、想の車に乗り込む直前にバスタオルに包んでマンションを出てすぐの植え込みのそばへ隠すように置いてきた。
コンシェルジュルームに置き去りにすることも考えた結葉だったけれど、それでは親切にしてくれた斉藤と白木に迷惑がかりそうで申し訳がないと思ったから。
(でも……結局私があのマンションを逃げ出した時点で、彼女たちが無関係ではいられないこと、明白だよね……)
あのマンションを出入りする人間が、正面入り口にいるコンシェルジュらの視線をかいくぐることは構造上不可能なのだから。
ましてや結葉がキッズ携帯を置き去りにしたのはエントランスを出てすぐの辺り。
偉央が彼女たちの関与を疑わないわけがない。
でも――。
「想ちゃん、偉央さんは……コンシェルジュの女性たちを問い詰めたりすると思う……?」
俯いたままポツンと。
半ば独り言のようにつぶやいたら、想がほんの少し考えてから「しねぇんじゃねーか?」と応じてくれた。
「俺、お前の旦那のことはよく知らねぇから絶対とは言い切れねぇけど。……あの人、プライド高いタイプだろ? そういう人間が妻に逃げられたってぇのをわざわざ自分から周りに触れ回るようなことはしねぇ気がするんだわ。――違うか?」
な?と同意を求めるように自分を見つめてくる想から、結葉は視線が外せない。
結葉も想と同意見で。
それでも自分が絡んでいることだったからだろう。「もしも私のせいで誰かに迷惑が掛かってしまったら」と考えると不安で堪らなかったのだ。
いま、想に「そんなことは起こり得ないと思う」と言ってもらえてやっと。
想の言葉を噛み砕くように吟味してしばし後、ようやく結葉は肩の力を抜くことが出来た。
偉央は、コンシェルジュたちに妻である結葉に自分がしてきたことをある程度は知られていると分かっていたとしても、敢えて自分から事を荒立てるような人ではないと結葉は思っている。
結葉が置き去りにしたキッズ携帯やバスタオルも、きっと偉央は何も言わずに回収するだけに止めるだろう。
「私も……そう思う」
やっと声に出してポツンとつぶやいたら、想が
「だったらそんな浮かねぇ顔すんな。お前がここにいても、誰にも迷惑は掛かったりしねぇ。――結葉は……今は自分のことだけ考えてりゃ良いんだよ」
そこまで言って、結葉を恐る恐る労わるように抱き寄せてくれると、
「もし何かあっても俺が全力で守ってやる」
言って、結葉の頭を優しく撫でてくれた。
結葉は懐かしい想のホワイトモスの香りに包まれながら、小さくコクン……とうなずいた。
***
時計を見るともうじき十一時になろうかと言うところで。
そろそろ昼の心配もしないといけない。
「なぁ結葉。とりあえず買い物、行かね? ついでに出先で何か食って帰ろうぜ?」
結葉を抱いていた腕を緩めると、想は立ち上がりながら彼女に声を掛ける。
「あ、あの、でも……私……」
自分の提案に、結葉が不安そうに瞳を揺らすのを見て、想は彼女が外に出るのを怖がっているのだと悟った。
コメント
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もし見つかったらどうしょうって思うよね💦