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#王子
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噎せ返るような線香の香りと、獣の体臭。
それから、腐りかけた脂の匂い。
すべてが混じり合った濁りきった空気のなかで、私は己の運命が切り売りされる音を聞いていた。
「───三千両。その娘、俺が買おう」
熱気に浮かされ、罵声と卑猥な笑い声を上げていた見物人たちの怒号が
一瞬で凍りついたように静まり返る。
私は、競り台の冷たい板張りの床に膝をついたまま、剥き出しの肩を抱きしめた。
薄汚れた襦袢一枚の背中に、じっとりと嫌な汗が伝う。
ここは江戸の境界。
人ならざる者が夜な夜な集い、欲望を貪る異界の遊郭「朧月夜」。
没落した実家の莫大な借金を背負わされ、私が連れてこられたのは
華やかな花魁道中の真ん中などではなかった。
あやかし達の「餌」
別の名で「玩具」を決める
無慈悲な人身売買の市だ。
「……三、三千両!?おい、正気かよ。あんなひょろ長い小娘に」
「誰だ、そんな法外な値をつけたのは……どこぞの成金か?」
不気味な沈黙を破り、ざわめきが波紋のように広がる。
群衆が、何かに怯えるように左右へと割れていった。
その道の中央を、悠然と歩み寄ってくる人影がある。
豪奢な紺青の着物を流れるように着こなし、肩には漆黒の羽織を引っ掛けた一人の男だった。
人混みの奥から現れたその姿は、あまりにも場違いなほどに美しく、そして禍々しかった。
白磁のように滑らかな肌に、冷徹な理知を感じさせる整った貌。
けれど、その額からは、煤よりも深い黒を湛えた二本の角が天を突き
切れ長の瞳は夜の底で燃える焔のような緋色に光っている。
(鬼……)
本能が、心臓を鷲掴みにされたかのような警鐘を鳴らす。
この街で最も恐れられ、神に等しい力を持つとされる存在。
街の支配者にして、最強の鬼──刹那
「文句があるか」
刹那様が周囲を一瞥する。
たったそれだけで、あれほど騒がしかった妖たちが
まるで大蛇に睨まれた蛙のように縮こまり、這いつくばった。
空気そのものが重圧に震え、私の肺を圧迫する。
彼は一段高い競り台へとゆっくりと上がり、私の目の前で片膝をついた。
逃げようにも、腰が抜けて動けない。
ただ、彼の放つ圧倒的な威圧感に射すくめられることしかできなかった。
「名前は」
低く、地鳴りのように耳の奥を震わせる声。
私は、恐怖で貼り付いた喉を必死に動かし、消え入りそうな震え声でようやく答えた。
「……つ、緒美……と申します」
「緒美か。……良い名だ。飾り気はないが、解くのが惜しいほどにな」
ふ、と彼の口角がわずかに上がる。
刹那様の手が、ゆっくりと私の頬へ伸びてきた。
その鋭利な爪の先が、月明かりを跳ね返して冷たく光る。
私は身をすくめ、反射的に目を閉じた。
ここで喉笛を裂かれ、見世物として喰べられてしまうのだと、絶望が脳裏を支配する。
けれど───頬に触れたのは、想像を絶するほどに温かな感触だった。
大きく、そして吸い付くような柔らかな指先。
彼は私の顎を優しく、だが拒絶を許さぬ力で上向かせた。無理やり目を開けさせられると
すぐ目の前に、吸い込まれそうな紅い瞳があった。
「運が良かったな。これでお前は俺の所有物だ。…死ぬまで、逃がしてはやらない」
その言葉は、絶望の淵で差し伸べられた救いのようでありながら
同時に一生をかけて解くことのできない残酷な呪縛のようでもあった。
刹那様は私の細い腰を抱き寄せると、羽毛でも扱うかのように軽々と私を抱き上げた。
見物人のあやかし達が、恨めしげに
「また一人、憐れな犠牲者が出た」と言わんばかりの嘲笑を浮かべて、私たちを見送る。
───鬼に買われた女は、二度と生きては戻れない。
───あやかしに愛された番は、魂の欠片も残らず喰らい尽くされる。
そんな不吉な噂が、冷たい風とともに脳裏をよぎる。
それでも。
私を抱く彼の腕のあまりの力強さと、薄い着物越しに伝わってくる規則正しい一定の鼓動に
私は生まれて初めて、深い安らぎを感じてしまっていた。
この温もりの先が、さらなる深い地獄への入り口だとも知らずに。
「さあ、行こう。我が『つがい』よ」
空には、この世のものとは思えないほど赤々とした月が浮かび
何もかもを知っているかのように、私たちの影を歪に照らし出していた。