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#王子
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喧騒が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは、夜風に揺れる竹林のざわめきだった。
刹那様に抱えられたまま連れてこられたのは
遊郭の中心から少し離れた、静まり返るほどに立派な屋敷だった。
威厳を放つ朱塗りの柱、月明かりを反射する池
手入れの行き届いた枯山水の庭園。
どこか懐かしく、鼻腔をくすぐる白檀のお香の香りが
ここが人外の魔窟であることを一瞬忘れさせる。
「あの……降ろして…いただけますか」
震える声で請うと、彼は無言のまま、柔らかな畳の上に私を静かに下ろした。
膝の力が抜け、崩れ落ちるように座り込む私。
その無様な姿を見下ろし、刹那様は側に控えていた
どこか無機質な瞳の女衆に顎で合図を送った。
「まずは身体を洗わせ、着替えさせろ。……泥を被ったままでは、食が進まぬ」
(食が進まぬ……?)
その言葉に、心臓が跳ねた。
やはり、私は今夜の夕餉として、美味しく頂かれるためにここへ連れてこられたのだろうか。
抗う術もなく、私は言われるがままに湯を浴びせられた。
こびりついた砂を流し、芳しい花の油で磨かれ
用意されたのは絹のように滑らかな、淡い桃色の振袖だった。
鏡に映る自分は、死を待つ生贄というより
まるで誰かに大切にされる深窓の令嬢のようで
それが余計に、供え物として美しく飾り立てられている事実を突きつけてきて、皮肉でならなかった。
やがて、広い広間に一人通される。
そこには、人間界の高級料亭でもお目にかかれないような
目も眩むばかりの豪華な料理が並んでいた。
「座れ」
上座にどっしりと腰を下ろした刹那様が、漆塗りの盃を傾けながら命じる。
毒見でもさせるのか、それとも肥えさせてから喰らうつもりなのか。
恐る恐る箸を取ったが、彼は自ら箸をつけることもなく
ただ私が食事を口に運ぶ様子を、猛獣が獲物を観察するようにじっと見つめていた。
「……あの、刹那様。私は、いつ喰べられるのでしょうか」
沈黙に耐えきれず、震える声で問いかけた。
逃れられない運命なら、せめて心の準備をさせてほしかった。
刹那様はふっと口角を上げ、氷のように冷ややかな笑みを浮かべた。
「喰らう?ああ、そうだな。俺がその気になれば、骨の髄まで噛み砕き、その魂ごと飲み干してやることもできる。……だが、今はその時ではない」
彼は盃を置き、音もなく私のすぐ目の前まで身を乗り出した。
夜の底を思わせる緋色の瞳が、私の視線を捕らえて離さない。
逃げようとしても、その視線の強さに身体が縛り付けられたように動かなくなった。
「緒美。お前に命じる。───俺を、決して愛するな」
唐突な、そして奇妙な命令に、私は呆気に取られた。
愛するな。
そんなこと、言われずとも分かっている。
自分を買い取った恐ろしい鬼に恋い焦がれる人間など、この世にいるはずがない。
「……私のような卑しい身分で、貴方様を慕うなど滅相もございません。心より、お守りいたします」
「口先では何とでも言える。だが、心はどうだ? …俺は呪われているのだ、緒美。俺が真に愛した女は……理性を失った俺の手によって、生きたまま喰らい尽くされる定めにある」
彼の手が、私の細い首筋にそっと添えられた。
鋭い爪の先が皮膚をかすめ、ひんやりとした死の予感が背筋を走る。
愛という甘い言葉からは程遠い、捕食者の感触。
「この忌まわしい呪いを解くには、愛を知らぬまま『番』の契りを結び、形だけの夫婦として三百年を過ごさねばならぬ」
「そのための器として、俺はお前を買った。お前はただ、周囲に『俺の最愛の女』だと信じ込ませるための操り人形でいればいい」
その声は、冷徹な響きの中に、どこか酷く寂しげな余韻を孕んでいた。
最強の鬼として君臨しながら、誰とも心を通わせることが許されず
一生を孤独の檻で過ごさねばならない男の絶望。
「愛さなければ……喰われずに、死なないということですね?」
「左様だ。お前が俺を愛さず、俺もお前を愛さなければ、お前はこの屋敷で贅沢三昧の暮らしを約束される。だが……もし一瞬でも心が通じ、情が移れば、その瞬間に俺の牙がお前の喉笛を裂くだろう」
彼は私の首から手を離し、懐から一つの古い金細工の懐中時計を取り出した。
繊細な蔦の模様が彫り込まれたその時計は、まるで心臓のように微かな熱を帯びている。
「これが止まっている間は、俺の理性は保たれている。……だが、もし針が動き出せば、それはお前か俺のどちらかが『愛』を孕んだ合図だ」
チ、チ、と小さな時計の刻む音が、静まり返った部屋に不吉に響く。
私はその時計と、目の前の美しくも恐ろしい鬼を交互に見つめた。
喰べられないために、愛してはいけない。
それはあまりに簡単で、そして世界で一番残酷な契約だった。
「……承知いたしました。誓って、刹那様を決して愛しません」
私は伏せ目で、静かにそう誓った。
しかし。
その時、刹那様がふと見せた
安堵とも絶望ともつかぬ微かな眉の動きに、私の胸の奥が小さく疼いたことに
私はまだ、気づいていなかった。