今になって今日がひな祭りだったことを思い出して急いで書いた。難しいこと気にしちゃだめ
窓から差し込む陽光が、リビングの畳の上に柔らかな四角い模様を描いていた。
三月三日。世間では雛祭りと呼ばれるその日、中原中也のマンションの一角には、少しばかり場違いな、けれど温かな光景が広がっていた。
「……中也、これでいいかな? 右と左、逆じゃないかな」
棚の上に設えられた小さな雛飾りの前で、太宰治が不安げに首を傾げている。 今の太宰には、人を煙に巻き、死を弄ぶような不遜な気配は微塵もない。ゆったりとしたベージュのニットを纏った彼は、どこにでもいる、少し自分に自信のない穏やかな青年の顔をしていた。
「あぁ? ……あー、お内裏様が左で、お雛様が右だ。いや、現代風なら逆か。……まぁ、テメェが綺麗だと思う方に置けよ。神様が文句言いに来るわけじゃねぇんだからな」
キッチンから、まな板を叩く小気味よい音と共に中也の声が響く。 中也は腕を捲り、真剣な表情で蓮根の飾り切りをしていた。今日は二人が、自分たちのための季節の行事として、一日中ゆっくり過ごすと決めた日だった。
「……そうだね。中也が隣にいてくれるなら、どっちがどっちでも、きっと正解なんだろうね」
太宰は慎重な手つきで、掌に乗るほど小さな木目込みの人形を並べた。 自分のような人間が、こんなに穏やかな春の日を享受していいのだろうか。 ふとした瞬間に頭をもたげる、彼特有の自尊心の低さ。自分がこの温かな光の中に混じっていることが、何かの間違いではないかという予感。
けれど、それを打ち消してくれるのは、いつもキッチンの向こう側から聞こえる、少し乱暴で、けれど絶対的な肯定感に満ちた相棒の気配だった。
「おい、太宰。手ェ洗って座れ。出来たぞ」
中也が運んできたのは、春を丸ごと盛り付けたような色鮮やかな食卓だった。 海老と絹さや、錦糸卵が踊る散らし寿司に、蛤のお吸い物はふわりと潮の香りを漂わせている。中也が「ついでに買っただけだ」と言い張る桃の花のひと枝が、小さな花瓶に活けられていた。
「わあ……。すごいね、中也。本当に君は何でもできてしまうんだね。それに比べて私は、お人形を並べるだけで精一杯だったよ」
太宰は少し気まずそうに、自分の細い指先を見つめた。
「テメェ、またそうやって自分を下げんのか。……お人形、綺麗に並んでたじゃねぇか。あのお内裏様、どこかテメェに似てて、少しだけ間抜けたいいツラしてるぜ」
「……ふふ、そうかな。中也がそう言ってくれるなら、あのお人形も本望だろうね」
二人は向かい合って座り、小さく杯を交わした。 中也が用意したのは、度数の低い、桃の香りがする甘いお酒だった。
「いただきます」
一口、散らし寿司を口にした太宰は、驚いたように瞬きをした。 「……美味しい。中也、これ、今まで食べた中で一番美味しいよ」
「大袈裟なんだよ、テメェは。酢飯の塩梅が良かっただけだ」
中也は照れ隠しに酒を煽ったが、その耳元がほんのりと赤くなっているのを、太宰は見逃さなかった。 幸せだ、と太宰は心の中で呟いた。 嘘も、偽りも、策略も必要ない場所。 自分がただの太宰として、目の前の中也とご飯を食べている。その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
食事が終わり、窓の外が群青色に染まり始める頃、二人は炬燵に足を突っ込んで、食後のひなあられを楽しんでいた。
「……中也。このピンク色は桃の花で、緑は若草、白は雪の色なんだって。さっき調べたんだ。冬が去って、命が芽吹く。それを願って食べるんだね」
太宰は一粒、白いあられを摘み上げた。 そして、それを自分の口には運ばず、中也の口元にそっと差し出した。
「中也も、健やかに過ごさなきゃダメだよ」
「……テメェこそな。……あむ」
中也は素直に、太宰の指先からあられを食べた。 カリッとした軽い食感と、控えめな砂糖の甘さ。 指先が微かに唇に触れ、太宰の顔がカッと熱くなった。
「……甘いね」
「あぁ。……悪くねぇな、こういうのも」
中也は太宰の隣に移動し、肩を並べて座った。 太宰は、自然と自分の肩に中也の重みが預けられるのを感じ、その心地よさに身を委ねた。
「中也」
「なんだ」
「……私、来年もこうして、君とあられを食べたいな。再来年も、その先も。君が飽きて、私を追い出すまで」
太宰の声は、最後の方は震えていた。 自分のような人間が未来を願うことへの畏れ。 それを、中也は力強く、重力を持って繋ぎ止めた。
中也は太宰の細い腰をぐいと引き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めた。
「飽きるわけねぇだろ。来年も、再来年も、その先もだ。テメェがどこに行こうとしても、俺が引きずり戻して、ここに座らせてやるよ。……分かったか、ボケ」
「……うん。……ありがとう、中也」
太宰は中也の首元に顔を埋めた。 そこからは、今日一緒に作った料理の匂いと、大好きな人の温かな体温の匂いがした。 自尊心が低く、いつもどこかで終わりを待っていた太宰。けれど、今この瞬間に注がれる中也の真っ直ぐな愛情は、彼の空っぽな心に、桃色の光を少しずつ満たしていくようだった。
夜が深まり、お酒の力もあって、二人はひどく心地よい眠気に包まれていた。 中也は太宰を抱き上げたまま、寝室へと向かう。
「……中也、重くないかい?」
「テメェみたいなひょろひょろ、重力使うまでもねぇよ。……大人しくしてろ」
中也は太宰をベッドに下ろすと、自分もその隣に滑り込んだ。 薄い毛布の中で、二人の足が絡まり合い、体温が混ざり合う。 太宰は、暗闇の中で中原中也の顔を探した。 月の光が、中也の端正な輪郭を淡く照らしている。
「中也」
「しつこいぞ、寝ろ」
「……大好きだよ」
太宰は、中也の胸板に手を当て、その鼓動を確かめるように囁いた。 中也は一瞬、息を止めたが、すぐに太宰の手を上から包み込み、指を絡めた。
「……知ってるよ。……俺もだ。おやすみ、太宰」
「おやすみ、中也」
太宰は、中也の腕の中で、今夜は一度も悪い夢を見ることなく、深い眠りへと落ちていった。 明日になれば、また日常が始まる。 けれど、自分たちの間にあるこの確かな絆は、昨日よりも少しだけ、強く、温かく結び直されている。
リビングでは、役目を終えた小さなお内裏様とお雛様が、月光を浴びて静かに並んでいた。 彼らが願ったのは、不器用な二人の、終わることのない春の続きだった。
翌朝、中也が目を覚ますと、隣で太宰がまだ幸せそうに寝息を立てていた。 中也は、太宰の額に柔らかなキスを落とした。 それは、ひな祭りの魔法が、今日から始まる新しい毎日にも、ずっと続いていくことを祈るような、静かな儀式だった。
「……さて。今日は残った散らし寿司で、豪華な朝飯にするか」
中也は小さく笑い、愛おしい眠り姫を起こさないように、そっとベッドを抜け出した。 外は、快晴。 本格的な春の訪れを告げる、温かな風が吹き抜けていった。
太宰が目を覚ます頃には、キッチンのほうからまた、元気の出るような音が聞こえてくるだろう。 自分は愛される価値がある。そんな当たり前のことを、太宰が心から信じられるようになるまで、中也は何度でも、季節の行事を口実に彼を抱きしめるつもりだった。
「おい、太宰。いつまで寝てんだ、起きろ」
「あと五分……、中也が添い寝してくれたら起きるよ……」
「……テメェなぁ」
呆れた声。けれど、そこには隠しきれないほどの慈しみがあふれている。 世界で一番優しくて、健全な、二人の春。 それはまだ、始まったばかりなのだ。






