テラーノベル
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私が帰ると、雄大さんはいなかった。
二十三時を五分過ぎていることへの後ろめたさと、漠然とした不安を感じ、電話をかけた。
大通りでタクシーを見つけてお姉さんを見送ったら戻る、と雄大さんは言った。
私は一抹の不安を覚えたが、まさか、と不安を消し去った。
シャワーを浴びて出て来ると、雄大さんは帰っていた。手にはグラス。多分、ウイスキー。
「遅れずに帰って来たな」
そう言った雄大さんに違和感を持った。
「どうしたんですか?」
「何が?」
「何か——」
怒ってる……?
「疲れてます?」
感じたこととは違うことを言った。
どうしてかは、わからない。
「次は馨のいる時に来るって」
「え?」
「姉さん」
「ああ……。はい」
違和感の正体がわかった。
雄大さんが私を見ないこと。
「雄大さん?」
「ん?」
「幸せになれ、って」
「ん?」
「元彼」
「……そうか……」
思った反応と違う。
「なあ、馨」
「はい」
「元彼とは……どうして別れた?」
「え——?」
帰った時、まさか、と拭った不安がよみがえる。
不機嫌そうな、不安そうな、悲しそうな背中。
「雄大さん……」
「ん?」
「マンションの前まで、昊輝に送ってもらったの」
「……そうか」
「やり直さないか、って言われたの」
「……そうか」
その返事が、マンション前での私と昊輝を見ていたのだと、裏付けた。
私は、私を見ようとしない彼の背中に触れた。掌に鼓動を感じる。
「昊輝は警察官なの。経営者には向いてない」
「…………そうか」
「うん……」
「なあ、馨」
「ん?」
「元彼と結婚したかったか?」
迷った。
一瞬だけ。
「うん」
「……俺とは?」
もう一度、迷った。
そして、自分に言い聞かせた。
これは、契約。
私には、雄大さんに愛されたいなんて望む資格はない。
「雄大さんと暮らすの、結構楽しい」
「……そうか——」
その夜、雄大さんが私と目を合わせることはなくて、ただ抱き合って眠った。
翌朝、十数本あったネクタイが六本に減っていた。
*****
春日野さんは今も雄大さんを好きなのか、それとも元彼が自分よりも劣っている女と結婚することが許せないのか、とにかく雄大さんに執着しているようだった。
宇宙展の会議の後、私が隣にいるのもお構いなしに、春日野さんは雄大さんを食事に誘った。私はその場を離れようとしたけれど、雄大さんに手を握られて叶わなかった。
「仕事と無関係なら断るよ」
「この間のこと、那須川さんに叱られちゃった?」
雄大さんに握られた手に、春日野さんの視線が感じる。
「どうだったかな」
「じゃあ、何? 今は友人で仕事仲間でしょう? 食事くらいいいじゃない。ねぇ? 那須川さん」
雄大さんがイライラしているのがわかる。そして、春日野さんが必死なのも。
『きれいに別れたつもりだった』と雄大さんは言った。
『一緒に飲んだのも仕事仲間として、友人としてだった』
本心だろう。
状況がどうであれ、事故がなければ、春日野さんが私を貶めるようなことを言わなければ、きっと雄大さんは誘いに応じていたと思う。
友人だから、と。
けれど、事故はあったし、私は春日野さんに蔑まれた。
雄大さんはきっと、ショックを受けたと思う。
私なら、ショックだ。昊輝が雄大さんを非難したり馬鹿にしたりしたら、ショックだし軽蔑すると思う。
春日野さんだってそんなことがわからないはずはない。それが、わからなくなるほど、必死なんだ。
「雄大さん」
私は繋いだ彼の手をクイッと引っ張った。雄大さんが春日野さんから私に視線を移す。
「行って来て? 食事」
「は?」
「行って来て!」
正面から雄大さんの目を見据えて、言った。
私の言葉と視線の意味を察したのか、彼の表情は苛立ちから諦めに変わった。
「わかったよ」と、小さくため息をつく。
春日野さんを見る。
「明日の七時でいいか?」
「ええ」
「店はメールする」
「楽しみにしてるわ」
春日野さんは本当に嬉しそうに笑った。
春日野さんは私が、独占欲の強い女だと思われたくなくて、食事を許したと思ったはず。
私はどう思われても良かった。
ただ、このままではダメだと思った。
「何考えてんだよ」
会社に戻る途中、ファミレスで食事をすることにした。
「ちゃんと話した方がいいと思って」
「何を」
雄大さんはむくれた顔でアイスコーヒーをすする。
子供みたい、だと思った。
「春日野さんがこんなことをする理由」
「理由?」
「そ。今でも雄大さんが好きなのか、元彼が自分より劣ってる女と結婚するのが気に入らないのかはわからないけど、一緒に仕事をするのに変なしがらみはない方がいいでしょう?」
「俺にどうしろって言うんだよ」と、頬杖をついて口を尖らせる。
ますます、機嫌の悪い子供のよう。
「だから! ちゃんと春日野さんと話して」
「つーか、お前はいーのかよ」
ジロリと雄大さんが私を睨む。
「俺が玲と二人で食事に行って」
いいはずがない。
「俺は嫌だったけどな、お前が元彼と会うの」
「まったく気にならないわけじゃ——」
「だったら、放っときゃいいだろ」
だんだん、腹が立ってきた。
放っておいても、何の解決にもならないじゃない!
「じゃあ、この先の長い仕事の間、私はずっと雄大さんの元カノの視線を気にしてなきゃいけないの?」
「そういうことじゃないけど……」
「この前、言いましたよね。『嫌な思いさせて悪かった』って。本当にそう思ったなら、もう嫌な思いをさせないように、きっちり話をつけてきてください!」
雄大さんが目を見開いて、私を見る。
「わかったよ……」
「私は雄大さんより寛大なので、日付が変わるまでに帰ってくれればいいです」
店員が料理を運んできた。
雄大さんはペスカトーレ、私はオムライス。
十二時が過ぎ、店内が騒がしくなり始めた。
「自分のこととそれ以外とでは全然違うのな、お前」と、雄大さんがフォークにパスタを絡ませながら言った。
「仕事以外でお前に構うな、って忠告するために玲と会うって言ったら、お前はきっと止めたろうな」
「え?」
「玲の気持ちを考えるから、俺を行かせるんだろう?」
「そんなに出来た人間じゃないですよ? 私」と言いながら、オムライスを口に運ぶ。
卵がフワフワで美味しい。
「いや? 俺よりよっぽど出来てるよ」
「雄大さんに褒められると、何か怖いですね」
「なんでだよ」
「何となく」
『キスはダメですよ』
その言葉は、オムライスと一緒に飲み込んだ。
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