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#ダークファンタジー
パトカーの窓に映る自分の顔は、もう完全に見知らぬ男のものだった。
警察官たちが交わす「坂上さん、落ち着いてください」という言葉が
不思議とすんなり耳に入るようになっていた。
抵抗する気力すら、霧が晴れるように消えていく。
「……すみません。少し、混乱していたみたいだ」
自分の口から出た声は、低く、濁り、酷く疲れていた。
署での簡単な事情聴取の後、迎えに来たのはあの「やつれた女」だった。
「ごめんなさい、お巡りさん。主人は最近、仕事が忙しくて少し頭が……。ほら、剛さん、帰りましょう?」
彼女が俺の腕を取る。
その掌の熱、使い古された石鹸の匂い。
記憶の断片が、パズルのピースが嵌まるように脳内に吸着していく。
この女と苦労した20年。
家賃を滞納し、二人で泣きながら安物のパンを分け合った夜。
佐藤タクミとしての輝かしい未来は、もうどこにもない。
ここにあるのは、泥にまみれた「坂上剛」の現実だけだ。
夜道を歩き、あの古びたアパートの前に立つ。
402号室。
鍵を差し込むと、何の抵抗もなく回った。
「おかえりなさい。お腹空いたでしょ? 煮物、温め直すわね」
女───美咲が台所へ向かう。
俺はリビングのソファに深く沈み込んだ。
部屋の隅に置かれた鏡を見る。
そこには、右目の下に深い火傷の痕を持つ男が、力なく微笑んでいた。
「……ああ、そうか」
俺は悟った。
「忘れ物センター」とは、失くしたものを取り戻す場所じゃない。
人生に絶望し、自分であることを辞めたくなった人間が、名前と身体を捨てに来る場所。
そして、その「空席」に、別の誰かを補充する場所。
佐藤タクミは、死んだ美咲を追い求めるあまり
自分自身を「不要なもの」として捨ててしまったのだ。
そして、この坂上剛もまた、20年の苦渋に満ちた生活に耐えきれず、自分を捨てた。
俺たちはただ、互いのゴミ箱を交換したに過ぎない。
「……剛さん? どうしたの、そんなに指輪を見つめて」
美咲が皿を持って戻ってくる。
俺は指に嵌まった、安っぽい真鍮の指輪を見つめた。
プラチナの輝きはない。
刻印も『Takeshi to Misaki』だ。
でも、目の前で微笑むこの女は、確かに美咲だ。
俺が望んだ通り、彼女は生きている。
たとえ、俺が俺でなくなってしまったとしても。
「……いや、なんでもないよ。美咲」
その名を呼んだ瞬間、俺の脳内から「佐藤タクミ」という概念が完全に消滅した。
俺は坂上剛だ。
この女を愛し、この汚れた部屋で、這いずるように生きていく男だ。
◆◇◆◇
深夜2時。
遠くの駅の方から、幻聴のような電話のベルが聞こえた気がした。
今、この瞬間も、誰かが「大切なもの」を探して、あの番号を回しているのだろう。
「次は、誰が来るんだろうな……」
俺は、もう二度と思い出すことのない「誰か」のために、静かに食卓についた。
窓の外では、新しい「佐藤タクミ」が
俺の家で、俺のベッドで、幸せな夢を見ているはずだ。
世界は今日も、完璧に補充されている。