テラーノベル
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昼休みの終わりが近づく頃、晴永はデスクの引き出しから弁当箱を取り出した。
黒地に控えめな柄のそれは、もともと自分が選んだものではない。だが、今では手に取る動作まで含めて、すっかり馴染んでしまっている。
ふたを開けた瞬間、ふわりと立ちのぼる匂いに、晴永はわずかに目を細めた。
卵焼き。
きれいに巻かれ、焦げ目ひとつないそれが、右上にどんと鎮座して存在感を誇示している。
晴永のたっての希望で、この卵焼きはMサイズの卵を二個使ったかなりの太巻き仕様だ。
今日はオーソドックスに何も入っていないプレーンタイプだが、昨日は刻みの小口ネギが入っていて噛むたびにネギのいい香りが鼻へ抜けた。黄色と緑のコントラストも綺麗で、アレンジ卵焼きの中で晴永が一番気に入っているのがそれだ。ほかにもカニカマが入っていたり、とろけるチーズがinされていたり、バラエティに富んでいる。
卵焼きひとつで、こんなに色んな形が楽しめるなんて晴永は知らなかった。
幼いころ、母の代わりに家へ入ってくれていた家政婦の卵焼きは、いつも同じ塩からい味だった。
(俺は甘い卵焼きが好きなんだ)
だし巻き卵に近い味が一番好きなのだが、いま弁当に入っている卵焼きは、出汁と砂糖が入れてあるらしく、晴永の味覚にベストマッチな味付けだった。
「……こんなこと言ったら叱られるかもしれんが……俺は全おかず卵焼きでもいい……」
誰にともなく呟き、両手を合わせていただきますをしてから、いの一番に卵焼きへ箸を伸ばす。
一口かじると、出汁の甘みがじわりと広がった。
(——うまい!)
思わず顔がほころんで、慌てて下を向いたが後の祭り。
その一瞬、周囲の視線が自分に集まっていることに、晴永は気付いていなかった。
「新沼課長のあれ、……どう見ても手作り、だよね?」
「え、課長っていつも社食の常連じゃなかった?」
「卵焼き、大きすぎない?」
ざわざわとした空気が、遅れて耳に届く。
晴永は顔を上げ、ようやく周囲の異変を察した。
「……お、俺のことはいいからみんな、昼飯に行け! 昼休みが終わってもデスクに戻っていなかったら……分かってるだろうな?」
質問を全無視して部下たちを一瞥すると、皆が一斉に顔を見合わせて散っていく。
説明していないのだ。納得した者は一人もいない。だが、それ以上踏み込めばあとが怖いと皆、承知していた。
なにせ相手は、企画宣伝課の鬼課長——新沼晴永なのだ。
だが、みんな、ただ散るほどお人好しではないらしい。
あちこちで『新沼課長に彼女ができたかもしれない』説が飛び交った。
別に女性に作ってもらっただなんて、晴永が一言も言っていないにも関わらず、その噂は、あっという間に広がった。
理由がないわけではない。
凪川 彩絵
#独占欲
本人は知らないが、社内には数名の独身男性を中心とした小さな〝ファンクラブ〟がいくつか存在しているのだ。
中でも一番声が大きいのが、いわゆる「新沼派」だった。
端正な顔立ち、的確な仕事ぶり、隙のない立ち居振る舞い。
厳しいだけでなく、部下に対する配慮も忘れない。
そうした点を理由に、密かに想いを寄せる者は少なくない。
――ほかにも人気の男性社員はいる。
だが、弁当ひとつでここまで騒ぎになるのは、新沼晴永だからだ。
社内では、特定の人気男性社員らに対して抜け駆けするのはご法度という、暗黙のルールがある。
他の対象社員らはある程度自分の立ち位置を把握しているのだが、——晴永だけは、自分がその枠に入っていることを、まるで理解していなかった。
コメント
1件
はるながさん、モテるんだ!(○︎´Δ`人)