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太田から名刺を渡された日から、ひと月が過ぎた。
梨都子だけではなく清水からも、ひとまず連絡してみたらと言われたけれど、まだ迷っていた。
必ず返事がほしいという口ぶりではなかったから――。
そんな理由を勝手につけて、彼への電話をずっと後回しにしていた。
この間、ラッキーなことに太田と直接仕事で絡むことはなかったが、同じフロアで働く者同士だ。時折視線を感じて目をやると、何か言いたそうな顔で太田が私を見つめていた。その度に気まずくて、私は今までのような笑顔を作れないでいたが、彼の方にはこれまでと変わった様子は見られなかった。
突然告白されたあの日、付き合ってみようかと思わないではなかった。けれどこれまでのおよそひと月、否が応でも意識せざるを得ない状況にありながら、恋愛的な意味の「好き」という感情はまだ芽生えていない。これからそういう気持ちになるのかどうかだって分からないのに、太田に頷いてしまっていいのか、いっそのこと断った方がすっきりするのではないか――。
そんなことを考え、悶々と思い悩み続けていたある日のことだ。
仕事を終えてロビーに降りた私は、はっとして足を止めた。窓の外を向いた太田の背中が見えたのだ。私が帰る時には彼の姿が見えなかったから、もう帰ったとばかり思っていた。なぜこんな所にいるのかと不思議に思ったが、私を待っていたのだとすぐに察した。理由はもちろん、私からの電話がずっとなかったからだろう。
動揺して足元がぐらついた。それを立て直そうと足を動かした時、ヒールの踵がカツンと音を立てた。
太田が振り返った。私の姿を認めた彼は、にっこり笑って軽く手を挙げた。
「お疲れ」
予想外の笑顔にどぎまぎしながら、私は挨拶を返した。
「お疲れ様です……」
電話をかけなかったことを責められると思っていたから、少しほっとした。けれど改めて対面したら、気まずい思いがいっそう強くなる。すぐにも彼の傍を駆け抜けて、外に飛び出したくなった。しかし、そういうわけにはいかない。私の答えを聞きたくて、彼は待っていたに違いないのだ。
どう切り出そうかと考えて目を泳がせていたら、太田がゆっくりと近づいてきた。
「今、帰り?」
「……はい」
「嫌じゃなければ、途中まで一緒に帰ろうぜ」
「でも、あの……」
口ごもる私に、太田は静かに言った。
「ごめん。待ち伏せなんてどうかとは思ったんだけど、このままだと、俺の告白がなかったことにされそうだと思ったから」
やっぱりこの話だ――。
私はつかえつつ言葉をつないだ。
「色々考えて、どうしたらいいか悩んでしまって。それでずっと電話できないでいて……」
「それって、とりあえずは嫌われているわけじゃないと思っていいのかな」
「太田さんのこと、嫌いなわけでは……」
「そっか」
彼はほっとしたようにつぶやき、それから口調を明るくして続けた。
「腹減ってない?晩飯、付き合ってよ。一人より二人の方がきっと美味しいからさ」
返事を迷いつつも、私は少しだけ緊張を解いた。同時に観念する。今この場で答えを出してほしいと言われることはないと分かったが、これ以上逃げ続けるわけにはいかないと思った。
梨都子の言葉がふと思い出された。
『会って話してみたら何か発展するかもしれないでしょ』
発展するかどうかは分からないけれど、彼ともう少し話してみてから答えを出そう――。
そう思い、私は彼の誘いを受けることにした。
首を縦に振る私を見て、太田の顔が嬉しそうに綻んだ。
「ありがとう。それじゃあ、あの店に行ってみようか」
「あの店?」
太田は悪戯っぽく笑うと、店の名前は口にしないまま、先に立って私を促した。
いったいどこに行くのだろうと考えながら、太田の後に着いていく。彼が足を止めた店の暖簾を見て気がついた。あの日、太田と食事をした店だった。その帰りのタクシーの中で、彼は私に付き合わないかと言ったのだった。答えを欲しがっている彼の気持ちが伝わってくるようだった。
店にいたのは二時間にも満たなかったと思う。
思い返してみれば、同じ課にいた時、太田とは仲が良かったとはいえ、そんなに多くプライベートの話をしたことはなかった。だから会話が進むにつれて、私も太田も以前にも増して互いに打ち解けていったように思う。それに伴うようにして、私の心にも少しずつ変化が生まれ始めてはいたが、気持ちが定まったと言えるほどではなかった。
食事を終えての帰り道、途中の公園で足を止めた太田は私の前に立ち、緊張した面持ちで言った。
「笹本、改めて言う。俺とつき合ってほしい」
言葉を探そうとしてやめた。太田の判断に委ねることになってしまうとしても、今の気持ちを素直に話した方がいいと考えた。顔を上げた私は、おもむろに口を開いた。
「私は今、太田さんと同じような気持ちでの『好き』ではないと思うんです。だから、頷くわけにはいかないかな、って思っていて……」
私の言葉の意味を確かめるように、太田は訊ねた。
「それは、完全にノーではないけど、イエスと言えるまでではないっていう意味?」
「そんな感じです。それに、私のどこを好きって言ってくれるのかな、って」
私はうつむき、太田の言葉を待つ。
すると彼は明るい声でこんなことを言い出した。
「それならしばらくの間、試しにつき合ってみるっていうのはどうだろう?期間は一か月くらい」
私は目を見開いて太田を見上げた。
「お試しって……。そんなの、ありなんですか?」
「ありだろ。その間、笹本には改めて俺を意識して見てもらってさ。そうしたら、イエスに気持ちが傾くかもしれないだろ?そもそも付き合うって、互いをよく知るためだと思うからお試しも何もないとは思うんだけど、笹本が迷っているなら、いったん期限をつけて付き合ってみたらどうかなって思うんだ」
そんな風に言われて、この時点ですぐに断るという選択肢は完全に消えた。
「お試し交際、いいかな?」
太田は答えを待つように私を見ている。
今の私にはそんな始め方が合っているのかもしれない――。
「分かりました。太田さんがそれでもいいと言ってくれるのなら……」
太田が嬉しそうに笑う。
「ありがとう。……さっき、俺に訊いたよね。笹本のどこが好きなのかって」
「えぇ」
「笹本のいい加減じゃない、まじめなとこ。好きだよ」
「ありがとうございます……」
面と向かって「好き」と言われたこともずいぶんと久しぶりだったから、照れてしまう。
もじもじしている私を見て、太田はくすっと笑った。
「もちろんそれだけじゃないけどな。まずは早速、次の日曜日にデートしようぜ」
デート――。
そんなことをするのは、いったい何年ぶりだろう。私はどきどきしながら頷いた。
「次の日曜日ですね」
「まずは連絡先を交換しよう」
こうして、私たちのお試し交際が始まった。
会社では内緒にしたいと強く頼み込む私に、太田は不満そうだったが、結局最後には頷いてくれた。社内恋愛禁止の会社ではないけれど、まだお試しだし、周りに知られるのは恥ずかしいという思いがあった。
太田は優しかった。道を歩く時は他の人にぶつからないようにリードしてくれたし、友達に会うという時には、休日はもちろん平日の夜であっても、彼の都合がつけば必ずと言っていいほど迎えに来てくれた。メッセージのやりとりは毎日だった。返信が早くて、初めの頃はそれに驚いたほどだ。一緒に過ごす中で、太田の態度や言葉、眼差しからは、確かに私を愛してくれていることが伝わってきた。
だからなのか、過去の恋に対する私の想いは次第に変化していった。思い出すことはあってもそれは単なる思い出としてであって、そこに切ないような後悔や未練がましい感情がにじむことは、もうほとんどなくなっていたように思う。
そして、付き合いがさらに深まっていった時、太田が私を想ってくれているように、私も彼を愛するようになるはずだと思えるほどには、彼を好きになっていた。その期限の日を待つことなく太田の申し出を受けることにしたのは、私にとっては自然な流れだっただろう。こうして私たちのお試し期間は終了し、本当の恋人同士としての交際が始まった。
週末にはたいてい太田と一緒に過ごした。外で食事をしたり、飲みに行ったりしていたが、そのうちに互いの部屋を行き来するようになった。
気づいた時には、付き合い始めた頃よりも彼のことが好きになっていた。そして、太田がキスより先を欲しがっていることも分かっていたけれど、何かと理由をつけてはぐらかしていた。私には、体を許す勇気がまだなかった。
理由は学生時代の恋愛にあった。今にして思えば、その頃の私はあまりにも初心すぎた。当時の彼と最後まで至ることなく別れたのは、そのせいだったと思っている。つまり私には、その前までの経験しかない。そしてそれは、ひどく恥ずかしい記憶として残っている。だから私にとっては未経験であるその先の何かを想像した時、恥ずかしさと恐ろしさで怖気づいてしまうのだ。
なんとなくでいいから、話を聞いてくれる人はいないかしら――。
知人、友人の顔を思い浮かべ、その中にこれはと思う人物を見つけた。こんな悩みを話せるのはあの人しかいない。私にとっては姉のような人、梨都子だ。
私は早速彼女に連絡を入れることにした。
『来週木曜の夜なら空いているよ』
その日のうちに返ってきた返事に、私はカレンダーを確かめる。その日は太田が出張で泊まりの予定になっているからちょうどいいかもしれない。そう言えば、彼と付き合い出してから友人と会うのは久しぶりだ。私はうきうきしながらメッセージを返した。
『リッコで会いましょう』