テラーノベル
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太田から名刺を渡された日から、ひと月が過ぎた。
梨都子と清水の二人から、ひとまず連絡してみたらと言われたものの、まだ迷っている。必ず返事がほしいという口ぶりではなかったからと、勝手に理由をつけて、彼への電話をずっと後回しにしていた。
この間、太田と仕事で直接絡むことはなかった。しかし、同じフロアで働く者同士だ。時折視線を感じて目をやると、何か言いたげな顔つきで太田が私を見つめていた。
突然告白されたあの日からこれまでの間、恋愛的な意味での「好き」という感情は芽生えてきていない。彼に対して、これからそういう気持ちになっていくのかどうかも、分からない。その状態のまま、彼の気持ちに応えてしまっていいのだろうか、いっそのこと断った方がすっきりするのではないかと、日々悶々と思い悩んでいた。
そんなある日のことだ。
仕事を終えてロビーに降りた私は、はっとして足を止めた。すでに帰ったと思っていた太田の後ろ姿があったのだ。
黙って通り過ぎようかと思った。しかしそんなことをすれば、今よりもっと顔を合わせずらくなってしまう。ひとまず声をかけていこうと思い直す。
その時、私の気配に気がついた太田が振り返った。私の姿を認めて、軽く手を挙げる。
「お疲れ」
電話をかけなかったこと、返事をずっと保留していることなどを、責められると思っていた。しかし彼が笑顔だったことにほっとする。
「お疲れ様です」
「今、帰り?」
言いながら、太田がゆっくりと近づいてくる。
「はい」
「嫌じゃなければ、途中まで一緒に帰ろうぜ」
彼とどうなりたいかまだ決めかねているのに、一緒に帰るなどしたら、その間に先日の答えを求められそうだ。
迷う様子を見せる私に、太田は言い訳するように言う。
「ごめん。待ち伏せなんてどうかとは思ったんだけど、このままだと、俺の告白がなかったことにされそうだと思ったから」
やはり、と思った。これ以上逃げ続けるわけにはいかないと観念して、今の正直な気持ちを口にする。
「色々考えて、どうしたらいいか悩んでしまって。それでずっと電話できないでいました……」
「それは、嫌われているわけではないと思っていいのかな」
「別に太田さんのことが嫌いなわけでは……」
「そっか」
彼はほっとした顔をし、それから口調を明るくして続ける。
「とりあえずさ、腹減ってない?晩飯、付き合ってよ。一人より二人の方がきっと美味しいからさ」
即答を迷う。しかし、ふと梨都子の言葉が思い出された。
『会って話してみたら何か発展するかもしれないでしょ』
発展するかどうかは分からないが、もう少し彼と話してみてから結論を出そうという気になった。彼の誘いを受けることにして、首を縦に振る。
太田の顔が嬉しそうに綻んだ。
「ありがとう。それじゃあ、あの店に行ってみよう」
「あの店?」
太田は店の名前は口にせず、ただ悪戯っぽい笑みを浮かべ、私を促すように先に立って歩き出す。
いったいどこに行くのかと、彼の後に着いていった。
彼の足が止まる。店の暖簾を見て気がついた。そこは初めて太田と二人で食事をした店だった。
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