食事を終えての帰り道、通り抜けようと歩いていた公園の中、太田の足が不意に止まった。彼は私に向き直り、緊張のせいかと思われるような固い声で言う。
「笹本、改めて言う。俺とつき合ってほしい」
私は彼を見上げて、ゆっくりと口を開く。
「太田さんのことを異性として好きかどうかと聞かれると、分からないんです。そんな状態で、頷くわけにはいかないと思ってます」
「俺のことは、嫌いなわけじゃないって、さっき言ったよね」
「それは、そうなんですけど……」
「それなら」
太田はこんなことを言い出す。
「しばらくの間、試しにつき合ってみるっていうのはどう?期間はそうだな、一か月くらいか」
「試しに?」
私は目を見開き、太田を見上げる。
「そんなの、ありなんですか?」
「ありだろ。その間、笹本には改めて俺を意識して見てもらうとしてさ。とは言え、付き合うってこと自体が、お互いをよく知るためのものだと思うから、本当はお試しも何もないとは思うんだけどね。だけど、笹本に迷いがあるなら、いったん期限をつけて付き合ってみるのもいいんじゃないかなって思うんだ。どうだろう?」
太田はじっと答えを待っている。それも恐らく、諾という答えを。
迷ったものの、今の私にはそんな始め方が合っているのかもしれないとも思う。
「分かりました。太田さんがそれでもいいと言ってくれるのなら」
「ありがとう」
太田は嬉しそうに笑う。
「それならまずは早速、次の日曜日にデートしようぜ」
デートなどというものをするのは、いったいいつぶりか。
「次の日曜日ですね」
「まずは連絡先を交換しよう」
こうして、私たちのお試し交際が始まった。
太田は公認にしたかったようだが、会社には内緒にしたいという私の希望を、不服顔ながら受け入れてくれた。社内恋愛禁止の会社ではないけれど、お試し期間ということだし、周りに知られるのは恥ずかしいという思いがあったのだ。
太田は優しかった。道を歩く時は他の人にぶつからないようにリードしてくれたし、友達に会うという時には、休日はもちろん平日の夜であっても、彼の都合がつけば必ずと言っていいほど迎えを買って出てくれた。メッセージのやりとりは毎日だった。早い返信に、初めの頃は驚いたものだ。
太田と一緒に過ごす時間が増えるにつれて、過去の恋に対する私の想いは次第に変化していった。そしてそれは今や単なる懐かしい思い出となりつつある。同時に、太田とまだ同質あるいは同等ではないにせよ、私も彼を愛するようになっていた。
だから、その期限を待たずに答えを出したのは、私にとっては自然な流れだった。その結果、私たちの本当の恋人同士としての交際が始まる。
週末は、たいてい太田と一緒に過ごした。外で食事をしたり、飲みに行ったりしていたが、そのうちに互いの部屋を行き来するようになった。
次第に、太田がキスより先を欲しがっていることに気がついた。しかし、何かと理由をつけてはぐらかしていた。体を許す勇気がまだなかったのだ。
理由は、長年引きずった学生時代の恋愛にあった。
今にして思えば、その頃の私はあまりにも初心すぎた。初心すぎて、当時の彼とは最後まで至ることなく別れた。つまり私には、その前までの経験しかない。そんな私にとって、未経験であるその先の何かは、この年になった今でも、恥ずかしく、恐ろしいものでしかない。
誰かに相談したいと思った。知人、友人の顔を思い浮かべ、その中にこれはと思う人物を見つける。こんな悩みを話せるのはあの人しかいない。私にとっては姉のような存在、梨都子だ。
私は早速彼女に連絡を入れた。
『来週木曜の夜なら空いているよ』
その日のうちに返信があった。
私は早速カレンダーを確かめる。その日は太田が出張で泊まりの予定になっているからちょうどいい。そう言えば、彼と付き合い出してから友人と会うのは久しぶりだ。私はうきうきしながらメッセージを返した。
『リッコで会いましょう』