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朝、枕元で規則正しく鳴り響くはずの、スマートフォンのバイブレーションが聞こえない。
カーテンの隙間から、暴力的なほど鮮やかな春の光が差し込み、私の閉じた瞼を刺すように照らしている。私は重い頭を振りながら、寝ぼけ眼でいつもの定位置にあるはずの端末(デバイス)へと手を伸ばした。
(……あれ? つかない……)
漆黒の画面。何度電源ボタンを長押ししても、愛用していた待ち受け画面が浮かび上がることはない。それどころか、充電器を差し込んでも、通電を知らせる小さなランプさえ点灯しなかった。まるで、この機械そのものが一夜にして「魂」を抜かれ、ただの無機質な鉄の塊に変貌してしまったかのようだった。
それだけではない。
リビングへ降りて、いつも通り朝の挨拶を交わそうとしたけれど、そこには異様な光景が広がっていた。母は血走った目で受話器を握りしめ、父は食卓でノートパソコンのキーボードを、壊さんばかりの勢いで叩き続けている。
「お母さん、お父さん、おはよう。……あの、私のスマホが急に……」
「ごめん愛姫! 今、会社全体のサーバーに未曾有のシステムエラーが起きてて、お母さんもお父さんも対応に追われてるの! ……悪いけど、今日は朝ごはん適当に食べて勝手に行って!」
冷たい拒絶ではない。けれど、そこには明らかな「断絶」があった。
普段なら私の顔を見て笑ってくれる両親の視線が、今はモニターの青白い光に吸い込まれ、私の存在を「非表示」にしている。まるで、家全体が巨大なハッキングの波に飲み込まれ、私はその渦中で一人、誰にも触れられない「バグ」として放置されているような感覚。
学校へ向かうバスの中でも、その薄気味悪い静寂は続いた。
いつもなら五月雨式に届くはずの、友人たちからの「おはよー」のスタンプも、放課後の遊びの誘いも、SNSのタイムラインの更新も、私の手元には一切届かない。
私の周りだけが、この世界のネットワークから物理的に「ログアウト」させられてしまったかのような、耳が痛くなるほどの静寂。
「……おはよう、愛姫。……顔色悪いね。寝不足? それとも……不安?」
昇降口の影、昨日の放課後と同じ場所に、音もなく立っていたのは、ポータブルゲーム機の画面を眺める孤爪研磨先輩だった。
彼は顔を上げると、獲物が罠の深部まで足を踏み入れたことを確認したかのように、満足げに目を細めた。その濁った三白眼には、冷徹な悦びが静かに沈殿している。
「研磨、先輩……っ。私のスマホ、壊れちゃったみたいで。……それに、お母さんたちも仕事が大変みたいで……っ。なんだか今日、世界中がおかしいんです」
「……ふーん。世界がおかしいんじゃなくて、僕が**『デバッグ』**したんだよ。……愛姫に不要なノイズが届かないように、君を取り巻くサーバーごと、一時的に遮断しといた。……快適でしょ?」
研磨先輩は、自分のスマホの画面を滑らかにフリックしながら、あまりにも淡々と、日常会話のように告げる。
その指先一つで、私の家族の生活も、私の人間関係も、すべて「不要なエラー」として処理され、消去されたのだという事実に、全身の血の気が一気に引き、指先が凍りついたように震え出した。
「な、何を……っ。お母さんたちの仕事まで、先輩がやったんですか……!? そんなの、犯罪じゃ……っ」
「……だって、そうしないと愛姫は僕のこと見てくれないでしょ。……他の雑音に惑わされて、また昨日の桜みたいに、フラフラと僕の手の届かない場所へログアウトしようとする。……それは困るんだよね。僕のセーブデータが、消えちゃうみたいでさ」
研磨先輩が、私の震える腕を、骨の感触を確かめるように強く掴んで引き寄せた。
周囲には登校中の生徒たちが大勢行き交っている。誰かと肩が触れそうなほどの距離。
なのに、不思議なことに、誰も私たちに目を向けない。挨拶すら交わされない。
まるで、この半径数メートルだけが研磨先輩の張った強力なセキュリティソフトによって「不可視化」され、世界から切り離されているかのように。
「……ねぇ、愛姫。……一人ぼっちは不安? 誰とも繋がれないのは、怖い?」
彼は私の耳元に、逃げ場を塞ぐように顔を寄せ、熱を持たない、けれど鉛のように重たい吐息を吹きかける。
「……大丈夫だよ。……誰とも繋がらなくても、僕だけは愛姫と一分一秒、同期(シンクロ)してるから。……君のログイン先は、この広い世界の中で、僕の腕の中だけでいいんだよ。……それ以外は、全部ゴミだからさ」
研磨先輩の冷たい手が、私の指先にじりじりと絡められる。
恋人繋ぎ。けれどそれは、温かい愛情の交換ではなく、逃走を断じて許さない「物理的アクセス権」の掌握だった。
「……今日から、お昼休みも、放課後も、君の自由時間は全部僕が買い取ったから。……君のスケジュール帳、僕のサーバー経由で全部書き換えといたよ。……ほら」
彼のスマホの画面に表示された、私の今日の予定表。
そこには、一限目から放課後、そして深夜に至るまで、「研磨と同期する」という文字が、逃げ場のない文字の羅列となって埋め尽くされていた。
「自由」という名の管理者権限を完全に剥奪され、私は一歩ずつ、彼の作り上げた完璧な**「箱庭」**の、最奥部へと引きずり込まれていく。
ログイン不可の日常。
そこは、孤爪研磨という唯一の神以外、誰も存在することを許されない、美しくも残酷な仮想現実(リアル)の幕開けだった。