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世界から強制的にログアウトさせられたような、あの不気味な静寂の一日が始まった。
授業中、教壇に立つ先生が黒板にチョークを走らせる音さえ、今の私にはノイズキャンセリングを何重にもかけられた後のように遠く、現実味を欠いて聞こえる。
教室を満たすはずの同級生たちの話し声、教科書を捲る音、そのすべてが、透明なガラスの向こう側の出来事のように感じられた。
(……誰とも、目が合わない。……誰も、私を見てくれない)
休み時間。いつもなら「愛姫、おはよー!」と賑やかに駆け寄ってくるはずの友人たちは、なぜか私の席を大きな円を描くようにして避け、遠くの席で固まって、私に背を向けてヒソヒソと話し合っている。
まるで、私の座るこの机の周囲だけに、目に見えない「危険区域(デッドゾーン)」のテープが張り巡らされているかのように。私はその「隔離」の痛みに耐えかね、逃げるように視線を上げ、何気なく教室の隅に目をやった。
(……っ!?)
古びた換気扇の格子の隙間。そこから、針の先のような小さな、けれど鋭く冷たい光を放つレンズが、真っ直ぐに、寸分違わず私を捉えていた。
まさか。
心臓の鼓動が、壊れたメトロノームのように激しく、不協和音を奏で始める。
私は慌てて視線を外して、震える足で廊下へ出た。けれど、そこにあったのは、さらなる絶望の光景だった。
非常口の案内灯の脇、火災報知器の凹凸の中、そして屋上へと続く薄暗い階段の踊り場の影。
本来そこにあるはずのない、米粒ほどの小さな「機械の瞳」が、私の移動に合わせて微かに、ジジッ……という微細な電子音を立てて動いている。
私が右へ行けばレンズも右へ、左へ逃げればレンズも左へ。
逃げ場はない。この学校の壁という壁が、今や私の一挙一動を記録し、送信するための「神経」へと作り替えられてしまっていた。
「……あは。……見つけたんだ。……愛姫、やっぱり観察力が高いね。……デバッグのしがいがあるよ」
背後から、低く、湿度をたっぷりと含んだ声が、私の首筋に冷たくまとわりついた。
振り返ると、階段の踊り場の影で、タブレット端末を流れるような手つきで操作している孤爪研磨先輩がいた。
彼の持つ高解像度の画面には、四分割されたライブ映像が鮮明に映し出されている。
教室で震える私の背中、廊下を彷徨う私の怯えた横顔、そして――今まさに、絶望に染まって彼を見上げた、私の顔のアップ。
「研磨、先輩……っ。……これ、なんですか……? 学校中に、こんな……っ。盗撮、ですよ……っ。……みんなに言います……っ!」
「……盗撮? 心外だな。……僕はただ、愛姫が外部のバグ(不審者)に遭わないか、24時間リアルタイムでデバッグ(管理)してるだけ。……だって、僕の知らないところで、君がまた他の奴と勝手にログイン(接触)したら、……すっげー不快だし。……そんなエラー、許せないんだよね」
研磨先輩は、画面上の「私」の頬を、指先で愛おしそうになぞった。
その指が冷たい液晶に触れるたび、まるで実物の私の肌を直接、ねっとりと撫で回されているような、生理的な嫌悪感とおぞましい戦慄が全身を駆け抜ける。
「……っ、やめてください……っ! 警察に……、先生に言います……っ!」
「……誰に? ネットも繋がらない、家族とも連絡がつかない今の君が。……それに、君が今『死ぬほど怖い』って思って、心拍数が140を超えたことも、血圧が急上昇したことも。……この、僕が特別に同期(パッチ)したスマートウォッチが、全部教えてくれてる」
研磨先輩が、私の左手首を強引に掴み上げた。
いつの間にか嵌められていた、黒い無機質なリストバンド。
外そうとしても、彼専用の暗号キーがない限り外れない、電子の首輪。
「……愛姫。君のバイタルデータも、視界も、思考の微かな揺らぎも。……全部僕のプライベートサーバーに同期(アップロード)されてるんだよ。……逃げ場なんて、この学校のどこにも……いや、世界中のどこにも、もう存在しないんだよ」
研磨先輩は私の腰を引き寄せ、逃げ場のない冷たいコンクリートの壁際へ押しやった。
彼の三白眼は、獲物を完璧にフォルダの中に仕分けし、二度と削除できないように「読み取り専用」に固定した後の、底知れない冷徹な満足感に満ち溢れている。
「……ねぇ、愛姫。……外の世界は、こんなに君を監視して、縛り付けてくる。……しんどいでしょ? 誰かに見られ続けるの。……でも、僕の部屋の中だけは、カメラなんて一台もないよ。……僕の目だけが、愛姫という存在を独占している世界。……そっちの方が、ずっと楽だよ?」
恐怖。絶望。そして、極限まで追い詰められた末の、自分でも信じたくないほどの、暴力的なまでの安らぎへの憧憬。
学校中のレンズに追われ続けることがこれほどまでに苦しいのなら、彼の「視線」だけが許される、あの密室へ逃げてしまいたい。
そんな、彼が周到に、数ヶ月もかけて用意した**「バグ(精神の誤作動)」**が、私の心の中で、毒の花のように芽生え始めていた。
「……今日の放課後、部室の裏で待ってる。……ログインのパスワードは、愛姫が自分から、俺に縋(すが)り付いて泣くこと。……分かった?」
研磨先輩は私の首筋に、冷たい、温度を感じさせない唇を一瞬だけ、所有権を主張するように押し当てた。
視線の監獄。
そこは、見られることに怯え果てた獲物が、自ら救いを求めて飼い主の檻へと飛び込むのを静かに待つ、残酷な「観測」の場所だった。