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年の暮れも迫るある静かな夜のこと、夕べの最後の気配が地平の彼方に消え去る頃、珍しくレモニカが一番最初に眠りに就いたことにユカリは気づいた。
ユカリとベルニージュと赤々と燃える焚火のもとに夜の夢はまだ訪れていない。明瞭に輝く星々の下、人跡なき荒野の真ん中にて、ユカリにおだてられてはりきっている焚火のそばで、連続で何夜目かの野宿を行うことになった。
いつもならユカリは誰よりも早く寝て、誰よりも遅く起きる。要するによく眠っているため、ひとの寝顔を見ることはあまりない。
寝顔といっても、レモニカのその顔は焚書官の鉄仮面の向こうに隠れている。不思議なことに、レモニカが人間に変身している時に身につけている衣服などは手放すことができない。それはあくまで虚像に過ぎないからなのかもしれない、とベルニージュは推測した。
レモニカは禁忌文字の教本を胸に抱えたまま、小さな寝息を立てていた。
ユカリは隣で眠るレモニカの横顔をしげしげと見つめる。わずかに見える口元だけでも整った顔立ちだと分かる。せいぜい娘であるユカリ自身の顔くらいしか、母の顔を想像する手掛かりがないのだが、それを差し引いても、やはり想像の中では美化してしまうものなのだろう。鉄仮面は母の素顔を知ることへの恐れを意味しているのかもしれない、とユカリは考えたことがあったが、それをベルニージュに聞かせたことはなかった。
「レモニカともっと仲良くなりたいな」とユカリは競い合うように輝く星々に願うように、神秘の織り成す紗の向こうで宴に興じる神々に祈るように呟いた。
レモニカという名を教わり、多少の信頼は得られたようだが、やはりまだ心を開いてくれているとは思えなかった。
「そうだね」とベルニージュは心ここにあらずといった虚ろな返事をする。
ユカリは本を覗き込むベルニージュをじっと見つめる。どうやら半分、本の世界に入っているらしい。ここのところのベルニージュは『工房構築論』に夢中だった。クオルが所有しているという工房馬車に刺激を受けたらしい。本を読みながら、自分のまだ持たぬ想像上の工房へと出かけているのかもしれない。本を読んでいない時でさえ、想像上の工房の周りを散策していることがある。
ユカリは同意を求めるように言う。「何というか、放っておけない感じがあるよね。レモニカって。別に甘えられてるわけでもないのに。いや、だからこそなのかも」
「うん。そうかな? そうかもね? 甘えては来ないよ、まだ会ったばかりなんだから。ワタシと出会った時もそんな風に思ってたの? 仲良くなりたいって」
「ううん。思ってないよ」
「はっきり言ってくれるね」
ユカリは知っている冬の星座を追いかける。赤い瞳の夕暮れに先立つ娘。彼女を盗み見る牡鹿。牡鹿につかみかからんとする一番槍。バニクミアの愛する小鳥、鶸座が見える時季は少し先だ。
「だってベルの方からぐいぐい来たから。私は受け入れるのに精一杯だったよ。今になって思えば、あの時のベルは今とはまるで違う雰囲気だったような気がする。しかもその後、ただでさえぴりぴりしていた時に、ひとの部屋に勝手に入って来るんだから」
「そうだったっけ? いつも通りだったと思うけど」
無遠慮な風がユカリの周囲を渦巻くが、ユカリは震えることさえしない。
「ねえ、じゃあグリュエーの時はどう思ってたの?」と風がユカリに尋ねる。
「グリュエーのこと? どうだったかな?」ユカリは喋る風との出会いを思い返す。「旅の始まりはそれどころじゃなかったからなあ。仲良くなりたいと思う前に仲良くなってたんだよ、きっと」
「風が喋ることを脇に置くできごとって何?」とベルニージュは呆れた風に笑う。
ユカリは過去を探すように夜の星を見上げて言う。「狼が喋ったり、馬が喋ったり」
「風よりは喋りそうなもんだよ」とベルニージュは本を覗き込んだまま言った。
薪が音を立てて崩れ、火花が秘密でも囁くように爆ぜ、ベルニージュが本を閉じて背嚢に片づけた。新たな薪に小さくも活き活きとした呪文を吹き込み、炎の中に添える。そうして寝転がって、大きな欠伸をして、伸びをして、薄い毛布をかぶる。
「そういうのって自然に任せるものじゃないかな?」ベルニージュは目を閉じて言う。
「ん?」
「仲良くなる話。無理して仲良くなることないよ」
ユカリもまた寝転がり、目を閉じて、夜の底へと静かに降りてくる眠りを受け入れようと、厄介ごとを心の端っこに追いやって備える。
「そう? うーん。そうかな。自然? 自然に仲良くなれないなら、仲良くなろうとすべきじゃないってこと? そう思う?」
「うん。そう思う」ベルニージュの言葉は半ば夢の揺蕩いに浸かっている。「仮にレモニカがユカリと同じ思いだったとしてもだよ。同じ方向を向いていたとしても、同じ歩調、同じ歩幅とは限らないからね。遅い方が早い方に足並みを揃えることはできないんだから。それに……」
しばらく待って、ユカリは再び目を開けて、夢と現の境にいるベルニージュに続きを急かす。
「それに?」
「ワタシが先にレモニカと仲良くなる」
「足並み揃えるどころじゃないね」
かつて二又川の村は家鴨と魚釣り、日向ぼっこを愛する素朴な村だった。戦とは縁がなく、火や金属、戦士と戦と勲を尊ぶ信仰者の寄り付くことのない安楽の村だった。
とはいえ老いから逃れられる者のいないことと同じように、バミノムの村も時の流れに押し流されて様変わりする。サンヴィア会議による諸国の同盟はサンヴィアの大地に多くの新たな街道を敷き、バミノムの村はその交差点に存在していた。かくして急ぎ足の都市住人の視界の外にあった穏やかなる田舎の村は目敏い商人たちの前に引きずり出され、否応なく世に逢う。
今では町と称されている、夜を日に継いで働く人々の住むバミノムにユカリたちが立ち寄ったのは主に三つの理由からだった。
一つは、もう野宿は限界だということだ。冬はますますその勢力を強め、寒風や霜といった忠良なる眷属を方々に遣わして、グリシアン大陸の半分の半分の支配者として更なる権益を求めている。日に日に夜に夜に気温は下がり、太陽の恵みは衰えていた。肉体的な寒さに関して、ユカリはまだ平気だったが、粗食の日々に心は寒々しい気持ちだった。
もう一つは、この旅におけるレモニカの変身の力の扱い方に関して知見を得ることが必要だという判断だった。もしもレモニカを人々の中に放り込めば、その体は目まぐるしく姿を変えることになる。ただでさえ、最も近くにいる人物の最も嫌いな生き物になるという厄介な力であり、それに加えて次々に変身する姿は、それを知らぬ者の目にとても奇怪な存在と映るだろう。
そして最後の一つはユカリが魔導書の気配を感じたからだ。
そういうわけでユカリたちは、何の問題も騒動も起こすことなくレモニカをともなって町の食堂で食事をする、という易しくて難しい目標を定め、バミノムの町へとやってきたのだった。
基本的にはレモニカのそばにはユカリがずっとくっついていることになった。焚書官が一人と少女が二人、というのはいかにも奇妙な組み合わせではあるが、ベルニージュはまだ男の姿をした何かに寄り添う勇気がないのだ、とユカリは考えている。
魔導書に関しては例によって例の如く距離も方向も分からない。ただ、バミノムにたどりついた時、毛穴の一つ一つに滑り込んでくるような魔導書の気配を変わらず感じていた。