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バミノムの町の食堂『真鴨亭』はそこそこの賑わいを見せていた。料理と酒の匂いを染み込ませた古い色づきの樫材の机と椅子でおおよそ三十席ほどあり、十数人の客が座を占めている。この町の住民と逗留している行商人が半分ずつ、辛く苦しい日々の営みを忘れさせる馬鹿げた話と強い酒に夢中になっている。しかし焚書官に変身しているレモニカが店に入った途端、一様に不躾な視線を向けてきた。それは一瞬のことで、賑わいが失われるほどのものではなかったが、三人の心が少しだけ張り詰める。
焚書官は誰もが知っているし、魔導書を駆逐するという理念を否む者は多くないが、その強引なやり方に反感を抱く者は多い。まるで死神が不吉な兆しを携えてきたかのように、彼らは警戒の表情と不信の眼差しをあからさまに見せた。
三人は動揺を抑えつつ壁沿いの机へと向かい、不愛想な給仕の娘に料理を注文する。鯉に魳、鯰などの魚の他に家鴨を使った料理がこの町のいわゆる郷土料理であるようだった。それらの蒸し焼きや揚げ物、炒め物が机に並ぶと馨しい香草も相まって、三人の冬の夜は久々に豊かで幸に満ちたものになった。
一つ一つの料理の味と香りを噛み締めるユカリの向かいで、ベルニージュは一部の香草を選り分けている。ユカリの隣で食事をするレモニカは、ただ淡々と口に運ぶばかりで何の感慨も感じていないように見える。
些細な問題を脇に追いやるようにユカリは言う。「それで次の文字はどうしようか?」
「簡単そうなのは後回しにするとして」ベルニージュは記憶を振り返って言う。「【上昇】か【穿孔】あたりかな」
確かにその通りだ。残っている文字に対応する詩のほとんどは訳の分からない抽象的な内容だ。
隣に座るレモニカの鉄仮面の向こうから届く視線を感じてユカリは向き直る。「レモニカ、どうかした?」
「いえ、大したことではないんですけど」と気後れ気味にレモニカは言う。
「大した時にいう台詞だね」とベルニージュ。
「思いついたことがあったら何でも言ってみて」ユカリは次々と家鴨の柔らかな肉を口の中に放り込む。レモニカに不要に気負わせないように気遣う。「どのみち正解かどうかは試さなきゃ分からないしね。ベルだって何回も失敗してるから」
ベルニージュは抗議する。「成功の価値は失敗の数に比例するんだよ!」
ユカリは思わず吹き出す。「それって今までで一番ベルニージュらしからぬ発言じゃない?」
ベルニージュ自身もそのことに気づいたようで少し気恥しそうに食事に戻る。
レモニカは待雪草のような微笑みを浮かべ、つっかえつっかえ言葉を紡ぐ。「その、詩にいくつか生き物が出てくると思うんですけど、もしかしたら、わたくしの変身がその一助になりはしないかと思いまして」
「それね。ワタシも気づいてた。気遣って言わなかったけど」とベルニージュは気遣わずに言う。
「生き物かあ」ユカリは天井を仰ぐ。「えーっと、何があったっけ?」
ユカリはもうほとんど詩の内容を忘れていた。
ベルニージュが指折り数える「乙女はともかく。獣。妖精。嬰児。母。嘴、だから鳥かな。そして蛇。この中だと蛇が一番現実的かもね。対応する文字は【睡眠】。蛇が嫌いな人も多いだろうし、見つけるのは簡単かもしれない。文字自体も単純な形だし、一筆書きできる。蛇一匹の長い体で作れそう」
「なるほど」とユカリは感心して頷く。「今の季節だと冬眠してるから普通に蛇を探して見つけるのは大変そうだもんね。冬眠している蛇の方が扱いやすい気もするけど、レモニカが変身してくれるなら、それが一番確実かな」
ユカリがそう言うと、レモニカは卑屈な笑みを浮かべる。「はい。わたくしにはこれくらいしかありませんので、お役に立てるなら光栄です」
「そんなことないと思うけど」と言ってユカリは眉根を寄せる。そして小さく、「うわ」と呟く。
レモニカの体を引っ張って机の下に隠し、合切袋から護女の僧衣を取り出してレモニカに乗せる。ユカリ自身も不自然に見えないように頬杖をついて顔を隠した。
そうしてユカリの膝の上で困惑するレモニカに囁く。「じっとしてて」
察したベルニージュが秘密を語る時のように声を潜める。「何? 後ろ? 誰がいた?」
「焚書官が来た」ユカリの指の間から送られる視線の先、食堂のとば口から黒い衣の焚書官たちがどかどかと入って来る。そしてずっと感じていた魔導書の気配の持ち主が判明する。「あ! サイスだ! ほら、アルダニのデノク市に来た少年首席焚書官だよ。ってことは魔導書の気配はあの子のものか。寺院で食べればいいのに、なんでわざわざ俗界で食事するかな」
焚書官たちの間に角の燃え上がる山羊の鉄仮面をかぶった少年がいた。
ベルニージュが囁く。「シグニカ地方の隣だけど、サンヴィア南部はあまり救済の教えは流行ってないからね。この町には寺院がないのかも。さあ、気づかれる前に隙を見て店を出るよ」
前にデノク市で出会った時とは違い、せいぜい十数人しかいないようだ。この店に来たのがそれだけなのかもしれないが。
ユカリは残りの料理を口に運びながら言う。「そうだね。とにかく、早く食べて早く出よう。レモニカも静かに急いで残さず食べて」
いくつかの机に分かれた焚書官の内、厄介なことに首席焚書官は向かいの机に座を占めた。
見えない蛇使いの焚書官ルキーナの姿もある。最後に見たのはやはりサイスと初めて出会ったアルダニ地方はデノク市でのことだ。その時は一言も言葉を交わさなかったが。
「全く、いつになったらこの街を発てるんだろうね」とサイスは苛立たしげに机を指で叩いて言う。
「全くです。もう三日になりますよ」と焚書官の誰かが同調する。
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」とルキーナが不思議そうに言う。「透け透けが動けるようになるまでですけど」
「そんなことは分かってるんだよ」とサイスは返す。「何だって僕が蛇なんぞのご機嫌に付き合わなければいけないんだって言ってるんだ」
「首席を何だと思ってるんだ」と焚書官の誰かが付け足す。
「別に付き合ってくれなくたって構いませんよ。私、カーサが動けるようになったら、ちょっと観光した後に追いかけますから」とルキーナは呑気に返す。
「君の探索術が一番役に立つんだから置いていけるわけがないだろ!?」サイスは机をどんどんと叩き、声変わりの途上にある少年の声で喚く。「というか観光なんてさせないからな! 君がメヴュラツィエを探すんだ!」
「それがお前の役割というものだ」と焚書官の誰かが援護した。
「いくら何でも次席に対して言いすぎじゃないか?」とサイスがたしなめると、焚書官の一人が別の焚書官たちに連れ出された。
焚書官たちの元にやってきた給仕の娘は呪いをもたらす偶像と対面したかのように怯えて話しかけられないでいる。
「そんなに怒らないでください。元気に楽しくが一番ですよ」ルキーナは給仕の娘を慰めるように楽し気に注文する。「全ての料理を一品ずつ。あと全員分の麦酒」
「僕を子ども扱いするな! あと僕は酒は飲まないぞ!」とサイスは矛盾したようなことを言う。
「大人だって同じですよ。それに首席の分は私が飲みます。それと全ての料理を一口ずつ貰います」とルキーナは傍若無人なことを言う。
サイスも他の焚書官も抗議しないあたり、いつもルキーナが食事を取り仕切っているらしい。チェスタと共に行動していた時はこのような様子ではなかった。力関係か、あるいは性格の違いだろうか。何にせよ、今の方が生き生きとしている。
「ん? おい!」
それだけ言ってサイスがユカリたちの方を指さすと、すぐさま他の焚書官たちは席を立ち上がり、ユカリたちの机を取り囲む。
その焚書官たちを掻き分けてサイスが顔を出す。「お前たち、いつぞやの護女騙りじゃないか!? 聞きたいことが沢山あるのは承知しているな? ん? 待て、その護女の僧衣の下に誰を隠している」
当然レモニカのこともすぐに見つかった。レモニカが護女の僧衣をユカリに返しつつ再び椅子に真っ直ぐに座る。他の何者にも変身しないように、ユカリはレモニカの身を引き寄せる。
「いったい何者だ? うちの者か? なぜこいつらと一緒にいるんだ? 所属を言え」
サイスがレモニカに命じるが、ユカリが代わりに答える。「これはただ似たような格好をしているだけです」
「機構の僧服などどうやって手に入れるというのだ!?」とサイスは噴き上がる。
ユカリは冷静に答える。「割と売ってますよ」
「嘘をつけ!」
「本当ですって」
少なくともサンヴィアに来て最初にたどりついた街、マグラガの商店は救済機構の僧服を取り扱っていた。護女の僧衣にいたっては当の護女自身から譲ってもらったものだ。サイスが思っているよりもかなり簡単に手に入るというのが実情だろう。
「だとしても似たような格好をしていることは問題だ! 特に救済機構の僧侶を騙るお前たちの連れとあってはな!」
確かにその通りだ。言い訳どころか誤魔化しにすらなっていない。
「さあ、その仮面を取れ!」
サイスは不用意にも焚書官の姿のレモニカに手を伸ばし、そして触れた。レモニカは瞬く間に巨大な蛇へと姿を変え、その姿を最も恐れるサイスだけではなく、周囲の焚書官たちをものけぞらせた。
一瞬の隙だったが、その好機をユカリとベルニージュは初めから予想して待ち構えていた。ユカリはレモニカを引っ張って、ベルニージュは駄目押しの炎で焚書官たちを牽制し、三人は食堂を飛び出した。