結葉が気を失って初めて正気に戻った偉央は、グッタリとベッドに平伏してしまった妻を見下ろして、居た堪れない気持ちになった。
いつもこうだ。
結婚するまでに、結葉以外にも数名の女性と付き合ってきたことがある偉央だ。
だけどどの女性に対しても芽生えたことのない激情を、結葉に対してのみ感じてしまう。
それが原因で傷つけてしまってから、偉央はいつも言いようのない後悔の念に苛まれるのだ。
今まで付き合ってきた女性らは皆、偉央の外見に惹かれてあちらから告白される形で付き合ってきた。
結葉と彼女らが違うとすれば、結葉だけは偉央の方から声をかけたことだろう。
偉央が初めて自分から付き合ってみたい、手を伸ばしてみたいと思えた唯一の女性が結葉だった。
それまで自分に対して女性たちから紡がれる、外見に対する賞賛の言葉なんて皆同じにしか聞こえなかったし、彼女たちが一体自分の何を知っているんだろう?と思うとどうしても一歩引いたところからしか付き合ってこられなかった。
だけど偉央が初めて心引かれた小林結葉という女性は、話を進めて欲しいと打診してみれば偉央の方を見ること自体が困難な状態にあると彼女の両親から明かされてしまった。
彼女が、幼馴染みとやらを幼いころからずっと思い続けていると聞かされた時、偉央はいくら自分好みの女の子でも、そんな勝ち目のない勝負に打って出るのは馬鹿らしいか、と思ったりもしたのだ。
だけど釣書に添えられた写真を眺めるたび、偉央はどうしても一度だけ、結葉に会ってみたいという気持ちが膨らんでいくのを抑えられなくて。
会えば「なんだ、こんな女性だったのか」とあれこれ幻滅出来るアラを見つけられるかも知れない。
諦めるのはその後でも良いか、と未練がましくも思ってしまったのだ。
そういうのも踏まえた上で、「是非にでも話を進めて欲しい」と親を通じて先方に打診してもらったら、ひどく周りから驚かれたのを覚えている。
今まで偉央はそんなに結婚自体に乗り気ではなかったから。
一応一人息子という立場を考え、親の顔を立てる形で何人かの女性と会ったことはある。
あるけれど、「是非進めてください」と自ら申し出たことはなかったのだ。
そりゃあ、両親もさぞや驚いたことだと思う。
(実際は諦める理由を見つけるために会うんですけどね)
とは到底言い出せなかった偉央だ。
だけど――見合いより先にややフライング気味に――会った〝自然体の〟結葉は、写真よりもはるかに美しかったし、偉央の予想を裏切って、嫌なところをひとつも見つけられなくて困ったのだ。
結葉の、今時珍しく一ミリも染められることなく自然な色合いを残したまま腰まで伸ばされた艶々の黒髪が、特に印象に残ったのを覚えている。
あの美しい黒髪に触れられる立場になれたなら、と希う気持ちを表に出さないよう必死に押し殺して、ゴールデンハムスターを連れてきた彼女の応対をしたのだ。
診察室に入るなり室内を興味津々な様子で見つめる結葉の姿を黙って見つめながら、すぐさま声をかけられなかったのは彼女の子供のようなキラキラした眼差しに目を奪われていたからだなんて、偉央は自分でも信じられなかった。
福助の飼育環境を確認するためともっともらしい理由をつけて、往診ついでに家まで行く約束まで強引に取り付け、あまつさえ病院の電話番号ではなく自分の個人的な携帯番号まで握らせてしまった――。
きっとそれが結葉でなかったなら、飼育環境なんて次に来た時に写真か動画を見せてください、で済ませていたと思う。
実際に結葉もそうしましょうか?と提案してきたのだ。
だけどそれを素直に受けることが出来ない程度には、偉央のなかで結葉はどうにかして縁を取り付けたい相手になっていた。
写真で一目惚れをした結葉に、偉央は初見で〝二度目の一目惚れ〟をした。
そうして見合いでその想いが揺るぎないものになったと確信させられた偉央は、勝ち目のない勝負だと分かっていて、強引に結葉に言い寄った。
結葉が自分の気持ちに応えてくれた車の中での一幕を、偉央は忘れたことがない。
目の前に、偉央には絶対に勝つことが出来ないと思っていた彼女の幼馴染みがいたにも関わらず、あの日結葉は自分を選んでくれたのだから。
心の底から結葉のことを大切にしたいと、あの夜自分は心に誓ったのではなかったのか。
「結葉、ごめん……」
意識のない結葉の髪にそっと触れると、偉央は唇を噛み締めた。
あんなに慈しみたいと願った結葉の美しい黒髪を、激情に駆られた自分がどんな風に酷く扱ったのか、記憶にないわけじゃない偉央だ。
長いがゆえに偉央の酷い扱いであちこちが絡まりもつれあってしまっている結葉の髪を優しく手櫛でほぐした偉央だったけれど、そんなので元通りになるようには思えなかった。
偉央は結葉の身体に自分が脱いでベッド下に落としたままにしていた上着をそっと着せ掛けると、静かに寝室を後にする。
熱めのお湯に浸して硬く絞ったタオルでそろそろと結葉の汚れた身体を清めていきながら、自分が愛する妻にしてしまった酷い仕打ちをひとつひとつ確認していった。
それは気が滅入る作業だったけれど、偉央からこの傷を負わされた結葉の心を慮れば何て事のない痛みだと思えたし、受けて当然の報いだと甘受することが出来た。
ひと通り結葉の身体を拭い切った偉央は、目立った傷に薬を塗って手当をしてから、タオルと一緒に洗面所から取ってきていた結葉のヘアブラシで、ゆっくりと彼女の髪のほつれをほどいていく。
こんなに色々しても結葉が目を覚まさないことに時折不安を覚えて脈を取ったり呼吸の有無を確認したり。
偉央は自分でも滑稽だと思いながらも、そうせずにはいられなかった。
こんなになるまで結葉に無理を強いてしまった自分に心底嫌気がさしたけれど、意識のない結葉の顔を見ていると、不安がどんどん膨らんできてしまう。
愛されたいのに恐れられたい。
優しくしたいのに傷付けずにはいられない。
いっそ、穏やかに眠っているように見える結葉の首をぐっと締めてしまったら、永遠に彼女を自分だけのものに出来るんじゃないかと……ふとそんなことまで思ってしまった。
「んっ、……」
気が付けば結葉の細い首に手を掛けてしまっていて、偉央は慌てて結葉から手を退かせて視線を逸らす。
(僕は結葉とずっと生きていきたいの? それとも一緒に死んでしまいたいの? どっちなんだよ!)
答えが出せないままに、気が付けば取り返しのつかない過ちを犯してしまいそうで、偉央は自分自身が怖くてたまらない。
小さく吐息を落とすと、偉央はなるべく結葉の方を見ないよう気を付けながら、彼女の華奢な身体を温かな毛布と布団で覆い隠した。
結葉に視線を向けないまますごすごと寝室を出ると、風呂の湯張りスイッチを押して、玄関先に散乱した荷物を片付けに向かう。
結葉は本当に持ち物が少ない。
それは、自分からアレコレ詮索されるのを恐れてのことなのだと、実は気付いていた偉央だ。
昔はもっと大きくて、中身も充実していた化粧ポーチも、今はとても小さくなっていて、口紅とファンデーションとコンパクトな鏡がひとつきりしか入っていない。
いくら僕だって、結葉が綺麗になるための道具にケチをつけたりはしないよ?と言ってあげたい気持ちはずっとあるのに、それを言ったら結葉をますます萎縮させてしまう気がして言えないままで今日まできてしまった。
自分達は、もっともっと会話をするべきなのだと思ってから、偉央は吐息と共にその考えを打ち消した。
(いや、違うな。僕たちに必要なのは結葉の言葉を遮らずに聞いてあげられる、僕の寛容さだ)
分かっていても、自分に自信がないからだろうか。
結葉が口を開くたび、「もう偉央さんとは一緒に暮らせません」と言われてしまう気がして怖くなってしまう。
結葉が自分以外の人間の意見に耳を傾けて、今のふたりの関係がおかしいと気付かされてしまったらと考えると、外界から遮断したくなってしまう。
(お義父さんやお義母さんがいなくなることが決まった今、結葉に必要なのはきっと僕以外の話し相手だ)
それは痛いくらい分かっているのに、結葉に他者との関わりを許可することが、偉央は物凄く怖いのだ。
結葉から取り上げた名刺を手にしばらく考えて、偉央はそれを自分の財布に仕舞った。
きっと山波想ならば、結葉を笑顔にしてやることが出来るんだろう。
でも、当然のことながら彼に大事な妻を託すことなんて、出来るはずはなくて――。
偉央は何度目になるか分からない吐息を落とすと、結葉が美鳥と一緒に作ったというハンバーグの入った容器を手にキッチンへ行った。
手にしたハンバーグを仕舞おうと開けた冷蔵庫の中には、恐らく結葉が自分のためだけに用意してくれたと思しき煮物や下処理のされた鶏肉が入っていて。
偉央は無言でそれらを冷蔵庫から出すと、今入れようとしていた豆腐入りハンバーグと共に食卓の上に並べていく。
火を通した方がいいものには火を通して。
温めたほうが美味いものは電子レンジで加熱して。
電源が入ったままの炊飯器を見れば、保温時間の表示に「7H」と記されたご飯が入っていた。
ふたを開けてみると、表面は押しのべたみたいになだらかで、炊いたまま手付かずなのが分かって。
きっとこれも、結葉が出がけに偉央と戻って来られる時間を予測して仕掛けておいたものだろう。
「結葉、ごめん」
結葉はこんなにも自分のことを考えてくれているのに。
明日結葉が目を覚ましたら、今度こそ優しく優しく接しよう。
偉央はそう思いながら、ひとり食卓に就いた。
時刻は夜中の三時を回っていたけれど、結葉が自分のために用意してくれた〝夕飯〟を食べずにいるなんて、偉央には到底出来そうになかったから。
「……いただきます」
誰も居ない室内に、偉央の低い声が静かに響いた――。
コメント
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う〜ん、どこかでボタンのかけ違いをしてしまったような気がする。 自分だけのものにしたいのはわかるけれど、束縛はいけないと思うなぁ。