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#恋愛
n217(エヌ・ニイナ)
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『雨の夜に駆ける居候』
第1話:日本一周の終わりと、消えた香水
「——あーあ。マジでどこ行っても同じだな」
北陸の寂れた港町。築四十年の木造借家で、日高蓮(ひだか れん)は古びた畳の上に転がり、天井のシミを眺めて溜息をついた。
蓮はプロの漫画家だ。思いつきと勢いだけで全国をぶらりと巡る、いわゆる『ざつ旅』スタイルのエッセイ漫画でヒットを出した。だが、二十歳でデビューしてから五年。四十七都道府県をすべて巡り尽くし、ついに日本一周を達成してしまった。
その結果待っていたのは、「旅への完全な飽き」と「深刻なスランプ」だった。どこに行っても見たような商店街、似たようなご当地グルメ。世界から刺激が消えた。締め切りから逃げるようにこの最果ての港町に隠れ住み、ただ降りしきる雨の音を聞く毎日だ。
「……腹減ったな」
起き上がると、蓮は手際よく台所に立った。旅先で覚えた手料理の腕だけは無駄に上達している。冷蔵庫にあった塩豚とキャベツ、生姜と少量の花椒(ホアジャオ)を炒め、薬膳スープを仕立てる。湯気とともに、胃を温める香ばしい香りが狭い部屋に広がった。
その時だった。
——ドンドン、ドン!
激しい雨の音を割って、玄関の引き戸が不自然に揺れた。
蓮が訝しみながら土間へ向かい、ドアを開けると——バシャリ、と音を立てて人影が倒れ込んできた。
「……え、なに」
ずぶ濡れの髪、冷たくなった指先。そこにいたのは、三十前後の女性だった。まるで絶望に背中を押され、夜の闇へと駆け出してきたかのように、息を荒らげて震えている。
「た、たす……けて……雨宿り……させて……」
女性はそれだけ言うと、糸が切れたように意識を失った。
◇
「……はい、飲んで。火傷しないようにね」
一時間後。蓮の部屋のコタツで、その女性——志乃(しの)は、蓮から渡されたマグカップを両手で包み込んでいた。中身は、蓮が淹れた特製のハーブと生姜のホットスープだ。一口飲むと、志乃の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「おいしい……こんなに温かいスープ、食べたことない……」
「ただの薬膳スープだよ。体が冷え切ってたから、血流を良くするスパイスを入れただけ」
蓮は『薬屋』の観察眼めいた冷めた目で、淡々と志乃を観察していた。
濡れた服の代わりに貸した自分のダサいスウェット。毛布にくるまり、スープを啜る姿は、まるで捨てられた小動物だ。
「私……志乃っていいます」
志乃は鼻をすする。「夫と……一番信頼していた親友に、裏切られたんです。二人で私の家から私を追い出して……もう、世界中の誰も信じられない。生きている意味なんて、どこにもないって……」
「なるほどね。ドロドロの愛憎劇ってわけだ」
蓮は冷めた紅茶を口に含みながら、心の中で分析する。(典型的な悲劇のヒロイン。自分の不幸に酔っているが、その瞳の奥には『自分を裏切った奴らへの執着』が見え隠れしている)
志乃は泣き疲れたのか、スープを飲み干すと、そのまま毛布にくるまってすやすやと眠りについてしまった。
「……はあ。警察に連絡するのも面倒だしな」
蓮は志乃の濡れたバッグを乾かそうと持ち上げた。その時、バッグの隙間からポロリと一品の小物が畳に落ちた。
高級ブランドの特注万年筆。そして、そこに漂う「甘いジャスミンの香水」の匂い。
蓮の動きがピタリと止まった。
その万年筆には、見覚えのあるイニシャルが刻まれていた。
『T. MIZUTANI』——蓮の連載を担当している大手出版社の担当編集者・水谷拓也(みずたに たくや)の持ち物だ。そしてこのジャスミンの香水は、水谷が「妻にプレゼントする」と言って編集部で自慢していた限定品。
「……へえ」
蓮の唇が、ゆっくりと歪んだ。
(そうか。志乃さんは、あのクソ編集者・水谷の奥さんか。そして彼を寝取った親友ってのは、水谷が最近SNSで匂わせている美容インフルエンサーの女だな)
点と点が一瞬で繋がった。
全国の旅に飽き、どんなドラマを見ても心が動かなくなっていた蓮の脳内に、爆発的なドーパミンが駆け巡る。
『言葉にできないほどのドロドロした泥沼』。
『偽りのアットホームな居候生活の裏で仕組まれる復讐』。
『完璧な愛を演じながら、裏で全てを操る黒幕』。
蓮は静かに自分のデスクに向かい、原稿用紙とペンを握りしめた。旅のマンガなんて、もうどうでもいい。今目の前にあるのは、喉から手が出るほど欲しかった「究極の実録ドラマ」だ。
「……いいよ、志乃さん」
蓮は眠る志乃の横顔を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「君のそのドロドロした絶望を、僕が最高の『ヒット作』にプロデュースしてあげる。……僕らの本当の旅は、ここからだ」
雨は依然として、激しく屋根を叩き続けていた。
コメント
1件
うわ、これめっちゃ面白い……! 冒頭の「マジでどこ行っても同じだな」からもう蓮のスランプ具合が伝わってきて、そんな時にずぶ濡れの女性が転がり込んでくる展開、胸がざわつきました。薬膳スープの描写が温かくて、そこから一転して万年筆とジャスミンの香りで伏線が繋がるカタルシス。漫画家が「実録ドラマ」をプロデュースするって、どんな泥沼が始まるのか想像するだけでワクワクします。続きが気になりすぎます!