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#恋愛
n217(エヌ・ニイナ)
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『雨降る窓辺の共犯者』
第2話:偽りの滋養
翌朝、志乃が目を覚ますと、世界は静かなオレンジ色の光に包まれていた。
築四十年の木造アパート。隙間風の鳴るような古い部屋のはずなのに、そこには驚くほど穏やかで、清潔な空気が流れていた。
ふわり、と鼻腔をくすぐったのは、香ばしいパンの焼ける匂いと、食欲をそそるハーブの香りだ。
「……あ、おはようございます」
「おはよう。……勝手に台所使ったけど、朝飯、できてるよ」
キッチンでは、蓮がエプロン姿でフライパンを握っていた。昨夜の冷徹な「表現者の目」は鳴りを潜め、今はどこにでもいる、手際の良い青年に見える。
蓮がローテーブルに並べたのは、志乃がこれまでの人生で食べてきたどの食事よりも「温度」を感じさせるものだった。
厚切りにされたトーストの黄金色。ふんわりと湯気を立てるオムレツ。地元の市場で仕入れたという白身魚には、数種類のドライハーブが散らされている。そして、昨夜の薬膳スープをベースにした、野菜たっぷりのミネストローネ。
「すごい……まるで、映画のワンシーンみたい」
「旅を仕事にしてるとさ、外食に飽きて自分で作るようになるんだよ。……ほら、温かいうちに」
志乃が震える手でスプーンを持ち、スープを一口口に運ぶ。
野菜の甘みと、控えめなスパイスの刺激。それは、裏切られ、冷え切り、行き止まりにいた彼女の胃の腑を、ゆっくりと、けれど確実に解きほぐしていった。
「美味しい……。本当に、温かい」
志乃の目から、ぽろりと涙がこぼれ、スープの中に溶けた。
蓮は、その様子を黙って見つめていた。まるで、美しい風景画の完成を待つ画家のような、静謐な眼差しで。
(——よし。この『救済に浸る女の横顔』。第2話の決定的なビジュアルだ。読者はこの瞬間に、彼女と一緒にこの偽りの安らぎに溺れることになる)
蓮の脳内は、冷徹なまでに「創作」に支配されていた。
志乃が一口食べるたびに、彼女の頬に赤みが差し、絶望の影が薄れていく。その一挙一動、感情の揺れ、呼吸の変化のすべてを、蓮は一滴も逃さず記憶のフォルダに保存していく。
「……日高さんは、どうして一人でこんな場所に?」
志乃が、少しだけ落ち着きを取り戻した声で尋ねた。
「日本全国、巡り尽くしちゃってさ。四十七都道府県、どこに行っても見たような景色、聞いたような話ばかり。……世界に飽きてたんだ。でも」
蓮はコタツ越しに、志乃の瞳を真っ直ぐに見つめた。そこには、言葉にできないほどのもどかしさと、深い慈しみが同居している——ように見えた。
「君が現れてから、この部屋だけは、昨日までと違う気がする。……だから、志乃さん。君が良ければ、気が済むまでここにいればいい。外の世界のことは、全部忘れて」
志乃の胸が、激しく高鳴った。
信じていた夫に家を追い出され、一番の親友にその居場所を奪われた。外の世界は、彼女にとって「悪意」の塊でしかなかった。
けれど、この雨音の響く古いアパートだけは、自分を「必要」としてくれる場所のように感じられた。
「……ありがとうございます。……本当に」
志乃は、蓮の差し出した蜘蛛の糸を、自らの意志で、力強く掴み取った。
◇
それから、二人の「共犯者」としての共同生活が始まった。
蓮は徹底して、志乃に「外の情報」を遮断させた。テレビも、スマートフォンも、窓の向こうの喧騒さえも。
その代わり、蓮は彼女に最高の「滋養」を与え続けた。
朝の淹れたてコーヒー。昼の地元の珍味。夜の静かな読書の時間。
志乃にとって、この部屋は世界のすべてになり、蓮は唯一の理解者となった。
彼女は夜、蓮の淹れたハーブティーを飲みながら、ポツリポツリと過去を語り出すようになった。夫がいかに無神経だったか。親友が、いかに巧みに自分の「一番大切にしていたもの」を掠め取っていったか。
志乃が涙ながらに語る「裏切りの詳細」を、蓮は聖職者のような顔で聞き届けた。
だが、志乃が眠りについた後。
蓮の仕事部屋——志乃が決して立ち入ることを許されない「聖域」では、狂気的な筆致でペンが踊っていた。
「……なるほど。夫の万年筆に刻まれていたイニシャル、それは彼女が結婚一周年で贈ったものだったのか。それを不倫相手との密会に使わせるとは……ベタだけど、最高に胸糞悪いな」
蓮は志乃から吸い上げた「実録の絶望」を、より生々しく、より読者の神経を逆なでするような「愛憎劇」へと昇華させていく。
日本一周を終え、世界に飽き果てていた表現者の目は、今や暗闇の中で爛々と輝いている。
(最高だ。志乃さん。君が語る過去が、君が流す涙が、僕の連載に命を吹き込んでいく。……君がこの『温かい家』を信じ切ったその瞬間に、物語の完結編を書き上げよう。最高の絶望と、最高の喝采のために)
外では、止まない雨がアパートの壁を叩き続けていた。
この閉ざされた楽園の終わりが、すぐそこまで迫っていることも知らず、志乃は幸せな夢の中で、蓮の淹れたコーヒーの香りを思い出していた。
(第2話・おわり)
コメント
1件
素敵な朝食シーン、心が温かくなりました。でも、蓮の脳内の独白がゾッとしますね…「偽りの滋養」というタイトルがまさにこの二面性を表していて、設定の切れ味が光ってます。志乃が掴んだ蜘蛛の糸が、実は罠かもしれないという緊張感がたまらない。次が気になります!