伯父さん一家が帰宅し、嵐のような顔合わせの食事会が終わった。彼らが帰ったあと、大智君がお父さんと血の繋がりがないことの説明がもう一度あった。
「びっくりしたけど、僕のお父さんはあなたです」
大智君にそう言われて、お父さんは泣いていた。お母さんは泣くでもなく何かを話すでもなく、ずっとうつむいていた。私はお父さんよりお母さんの方に共感していた。
私が過去の普通とはいえない男性遍歴のために大智君に負い目を感じてるように、お母さんもお父さんに負い目を感じてるのだろう。
お母さんは大智君を産んでいるのだから当然血の繋がりもある。お父さんにはそれがない。お父さんは自分の血を引いてない、はっきりいえばお母さんと伯父さんの血を引いた子どものために一生懸命働いてお金を稼ぎ、子育てにも積極的に関わったわけだ。お母さんとしてはありがたかったと思うのと同時に、申し訳ないという気持ちもいくらかは持たざるを得なかったに違いない。
負い目はそれだけじゃない。美琴さんと大智君は伯父さんとお母さんがセックスして生まれた子ども。二回のセックスで都合よく二人生まれるわけないから、おそらく二回の妊娠が分かるまで何十回と性器と性器の結合があったに違いない。お父さんにとって夜になるたびに愛する妻を伯父さんに差し出して、何度も何度も妻の膣に伯父さんの精液を注がせるのは屈辱以外の何者でもなかっただろう。
特に二人目の大智君の妊娠前には、伯父さんとお母さんが子作りセックスに励むあいだ、乳飲み子の美琴さんの面倒は伯母さんとお父さんがやっていたという。私が当事者だったら、どちらの立場もつらすぎて耐えられない。
お母さんと同様に伯父さんもずっとうなだれていた。そうするしかなかったのだろう。堂々と当時の話などすれば遺伝子を引き継げなかった二人の古傷をえぐることになるし、泣いたりしたら自分の血を引く子どもを作れたくせになぜ泣くのかとかえって怒らせるかもしれない。
振り返って、私が今もっとも大智君に負い目を感じてることは美琴さんから差し出された三枚の写真。さっき大智君が見たいと言い張ったとき美琴さんが体を張って止めてくれたから、そのときは見せないで済んだけど、このあと二人の部屋に戻ったあとでまた見たいと言われたら、やっぱり渡すしかないのだろうか?
私はびくびくしながら部屋に戻った。大智君はいつも通りにしか見えない。ちゃぶ台の前に並んで座る。なんだかじっとしていられない。
「お茶入れようか」
「今はいいよ。座って。ちょっとお話しましょう」
来た、と思った。
「僕は女の人とおつきあいしたのが詩音さんが初めてだから、知らないうちにいろいろ間違ってあなたを傷つけてしまったことが、今まで何回もあったみたいですね。全然気づいてあげられなくて、申し訳なかったです」
美琴さんに言われたことを気にしてるようだ。
〈大智、あんたのやってることはあんたをいじめてた小山田圭吾と同じだよ。男たちにおもちゃにされてた過去があるという詩音さんの弱みにつけ込んで、どんな恥ずかしい命令にも逆らえないようにしてさ〉
もちろん大智君と小山田圭吾が同じ種類の男だとは思わないけど、大智君のどんな恥ずかしい命令にも私が逆らえないようになってるのは確かだ。それは美琴さんの言う通り、私に弱みがあるから。もちろん、大智君がその弱みにつけ込んでくるわけじゃない。私が弱みを気にして勝手に卑屈になってるだけだ。
「大智君、美琴さんに言われたことなら気にしなくていいよ。私は弱み、というか負い目を君と、いつか生まれてくる私たちの子どものために持ち続けるよ。逆に、そういう気持ちを忘れたらダメだと思う。さっき美琴さんが見せちゃダメだと言ったあの三枚の写真を、大智君が見ればきっと傷つくと思う。将来の私たちの子どもがあれを見れば、私の子どもでいることが嫌になるんじゃないかと思う。それだけのことを自分がしたんだという謙虚な気持ちを忘れないで、私は君の隣を歩いていきたいと願ってるんだ」
私は大智君の前に裏返した三枚の写真を差し出した。
「嘘をつかない。隠し事をしない。というのは最低限の謙虚さだと思う。これさえ守れないようなら、私はきっとまた大きな間違いをしてしまうような気がする。その写真を君に見られたいか見られたくないかといえば、絶対に見られたくない。美琴さんが見せちゃダメって言ってくれてうれしかったけど、結局これは私たち二人の問題だよね? 私はこのことに限らず、自分の気持ちと君の気持ちがぶつかったときは、必ず君の気持ちの方を優先するって決めたんだ。それが負い目のある私から負い目のない君への精一杯の誠意だから」
「詩音さん、ありがとう……」
大智君が感極まった様子で、泣いてしまいそうにも見える。
絶対に君のことだから、
〈僕だってあなたが嫌がることをしたいわけじゃないんです。見られたくない写真を自分から僕に差し出した、その気持ちだけありがたく受け取ります。この写真は見ないで処分しますね〉
って言ってくれると信じて――
「じゃあ、さっそく見せてもらいますね」
さっさと三枚とも表に返し、大智君が写真に見入った。
〈絶対に見られたくないって言ったのに、こんなにあっさり見ちゃうんだ……〉
私は呆然となった。大智君の顔つきが険しい。衝動的に暴力を振るわれても、今日だけは大智君の気が済むまで殴らせてあげよう。そんなことまで心ひそかに決意していたけど、大智君が自分を見失うことはなかった。
「想像以上にひどい写真でした」
「ごめんなさい」
「全部聞いていた通りの内容だったから謝らなくていいです」
「でも……」
「僕は許せないですよ!」
「本当にごめんなさい……」
「いや、詩音さんに怒ってるんじゃないです。本当に彼らが詩音さんを愛していたなら、おしっこをかけたり、同時に複数の男を相手にセックスさせたりしたと思いますか?」
大智君の言う通りだ。私はヤリ部屋でヤラれるだけの女として、いいように遊ばれていただけだった。しかも相手はみんな高校生。馬鹿だった私は井原元気が真相をぶちまけるまでの数ヶ月間、なんかおかしいと思っても、都合の悪いことはすべて見て見ぬふりをしていただけだった。
「七年前の写真の中の詩音さんは、顔も肌もさすがに今よりずっと若々しく見えますね」
「二十歳の頃だからね」
「僕の知らない二十歳の詩音さんの瑞々しい肉体を寄ってたかって食い物にしていたんですね、この男たちは!」
大智君が本気で怒っている。私だって彼らにさんざん汚される前に大智君と出会いたかったよ。
「詩音さんは杉山流星という男に処女を捧げると同時にセックスの虜にされたって言ってましたよね? それから彼らは仲間みんなで、うぶで異性との接し方もよく分かってなかった詩音さんを、おもちゃのように雑に扱って心も体も踏みにじったんです。僕が詩音さんと出会うずっと前の出来事だったのは分かってますけど、僕は許せないですよ。もしどこかで彼らとばったり出会ったら、僕は冷静でいられる自信がないです」
万が一にも出会わないでほしいと願った。大智君が怒るほど、彼らは笑うだけだろうから。
おれたちが性欲解消のおもちゃとしてみんなで使い回して精液まみれにしていた残飯みたいな女を、わざわざ引き取って死ぬまで面倒見てくれる聖人君子みたいな男がいてくれるおかげで、おれたちは安心してまたうぶな女をセックス漬けにして食い散らかすことができるわけですよ。食い散らかして飽きた女は放流して、またあんたみたいなパッとしないモテない男に押しつけるわけです。その繰り返し。そんなおれたちもいつかはきっと結婚しますよ。もちろん結婚相手は処女じゃないとね。遊びなら別に中古でもいいけど、ずっと使うものならやっぱり新品に限るでしょ。家も車も女もみんな同じ。そう思いませんか?
きっと彼らならそれくらいのことは平気で言って、大智君の怒りに火を注ぐに違いない。
それにしても、〈僕の知らない二十歳の詩音さんの瑞々しい肉体〉か。叶うなら、私もそれを君に抱かせてあげたかったよ。
婚約者のあんな無様な姿を見せられて、さすがに今日は抱いてもらえないだろうなと切ない気持ちになって、君と同じ布団に入った。
もし私が第三者だったとしたら、つまり婚約者の恥ずかしい過去が発覚したけどどうしよう? と大智君に相談される立場だったとしたら――
高校時代の制服を着てセックスした経験があるくらいなら許してあげなよと答えるだろう。でも、裸になって男とおしっこのかけあいをしてたとか、同時に複数の男を相手にセックスしてたとか、そんな話を聞かされたら、私はきっと怒鳴ってしまうだろう。
〈そんな汚らしい女と結婚したい? 君にはプライドってものがないの!〉って。
そんな悲しい妄想をしていると、隣から大智君の手が伸びてきて、私のショーツの中に滑り込んでいった。すぐに愛液が溢れ出し、ぴちゃぴちゃといやらしい音を立て始める。
「詩音さん、すごく濡れてます」
「濡れてるんじゃない。君が濡らしたんだよ」
「僕のせいなら責任取らないといけないですね」
「今すぐ責任取って!」
大智君はその夜も何度となく、二十七歳の、写真の頃と比べれば格段に瑞々しさの感じられなくなった体を抱いてくれた。さっきまでの怒りを忘れ、夢中で私の名を呼び、私を絶頂に導き、君の精子を私の卵子へと送り込んだ。
三枚の写真は大智君が保管することになった。私の画像が拡散したり、画像をネタに脅されたりした場合はすぐに警察に持ち込むそうだ。
「あの写真を見たときは正直ショックだったけど、詩音さんを嫌いになったりしてないですから安心して下さい」
「本当?」
「決意してから写真を見ましたから」
「決意って?」
「写真に何が写っていても絶対に詩音さんを嫌いにならない、という決意です」
君はそう言って、私を安心させ、そして泣かせた。私は君にすがりつき、小さな子どものように声を上げて泣いているうちに、いつしか心地よい眠りに落ちていった。
それからは何事もなく平和な日々が続いた。心配事はある。一番の心配事は、中学の頃に大智君をいじめていた小山田圭吾が私の過去の恥ずかしい映像を持っていること。小山田はきっと大智君の婚約者がどんな人物か、その道のプロの人たちに調べさせる中で、井原元気と接触し、隠し撮りされた動画データの存在を知り、元気から買い取ったのだろう。
小山田から大智君のいとこの美琴さんに渡った三枚の写真は結局大智君に見られてしまった。その三枚の写真はきっと数時間に及ぶ隠し撮りされた動画データの一場面をプリントアウトしたものに違いない。小山田圭吾の手元にあるその動画データをどうやって回収すればいいか、私には見当もつかなかった。
いや、そもそも隠し撮りしたのは井原元気だ。三枚の写真に共通して元気が写っていたから間違いない。ということは元気もまだ元データを持っている、ということだろうか?
小山田圭吾と井原元気以外の第三者にデータが渡った可能性は?
そんなことを考えていたら頭が痛くなってきた。七年前の私の軽率すぎる行動がこんな結果を生んだのだ。そのことを大智君に話したら、彼は私の過去の過ちには触れず、
「元データは絶対に取り戻します。遅かれ早かれ、小山田とはすべての決着をつけなければいけないと思ってました」
と強い決意を口にした。〈すべての決着〉って何を意味してるのか分からないけど、穏やかではない言葉だ。
「君に危険が及ぶくらいなら、無理にデータを回収してほしいとは思わないよ」
「七年前、僕は小山田のいじめに最初から無抵抗で、最後には生きることからも逃げようとしました。また戦わないで逃げる道を選んだら、今度こそ僕の心は死んでしまい、逃げ続けるだけの人生を生きるしかなくなってしまうと思うんです。詩音さん、お願いです、僕が小山田と戦うことを許して下さい。これはあなたのためでもあるし、僕のためでもあるんです。僕ら二人の将来のために避けては通れない道なんです」
いつもおとなしい大智君が雄弁に語るのを、こんな一面もあったんだなと思いながら聞いた。性行為中におそらく無意識に私を呼び捨てにして、詩音詩音と連呼してるときに感じる男らしさとはまた違う頼もしさで、聞いていてとても心地よかった。
「分かった。私は君の決定を尊重するよ。ただ、二つ約束して」
「言ってみて下さい」
「一つは戦うにしても一人では戦わないこと。今の君は七年前の君と違う。私以外にも君の味方になってくれる人は何人もいるよ」
「分かりました。もう一つは?」
「何かするときは必ず私に教えること。心配かけないように黙って勝手に何かするというのはやめて。私は君の妻になるんだから、心配する権利くらいあるよね」
まさかその権利をその翌日にもう行使することになるとは思わなかった。
小山田の方から一人で来いと呼び出され、大智君は指定された場所に向かった。その際、私に言われたとおり誰かに応援を頼むことにして、美琴さんに事情を話し快諾を得た。なるほど美琴さんも小山田にひどい目に遭わされた過去を持つし、ともに小山田と戦うパートナーとして最適なように思われた。
でも一つ、大智君は私に嘘をついていた。小山田は彼に一人で来いと言ったのではなかった。本当は私と二人で来いと言っていたのだった。
沼津と言えば狩野川と駿河湾だけど、標高千メートルを越える愛鷹山を始めとして、登山コースの整備された山も多い。
今回、小山田が大智君を呼び出したのは街なかからほど近い場所にある香貫山の山中にある香陵台。地元で育った人たちは小学校の遠足で必ず行ったことのある場所らしい。もちろんよそ者の私はまだ行ったことがなかった。
桜の名所として春は賑わうが、こんな真夏の真昼にわざわざ山登りに来る者はほとんどいないはず。だから、大智君を呼び出して痛めつける場所として選ばれたのだろう。
私は沙羅さんに会いに行って相談した。そのときはまだ小山田が私まで呼び出していたことは知らなかった。
「小山田はなんと言って大智君を呼び出したの?」
「私を隠し撮りした映像のデータを返すと言って」
「それ絶対返す気ないやつじゃん!」
私もそう思う。言われたとおりのこのこ会いに行けば、返してほしいなら言うこと聞けって無理難題を吹っかけられるだけだろう。もちろん大智君はそれが分かった上で、何か考えがあってのこのこ会いに行ったのである。
「心配だよね?」
「うん」
「行こう! あたしも行くよ」
「ありがとう」
沙羅さんなら絶対そう言ってくれると思っていた。かつて大智君を自殺するまでに追い込んだ小山田という男に、一人で会いに行くのが危険なのは大智君だって私だって同じこと。沙羅さんがついていてくれれば、千人の味方を得たように心強い。
「ところで、黒瀬悠樹という人とはその後どうなったんですか」
「死んだとは聞いてないから、いつか突然目の前に現れるもんだって心の準備はしてる。心以外の準備もいろいろしてあるけどね」
沙羅さんが懐から何かごついものを取り出したけど、それが何か分からなかった。
「これはスタンガン。聞いたことはあるでしょ?」
沙羅さんなら致死量の電流をなんの躊躇もなく流せるんだろうな、と心の中で思ったことは内緒だ。
沙羅さんの車で向かうことになったけど、沙羅さんの車にぴったり別の車が駐められていて、そばに誰かいる。
「このタイミングかよ」
と沙羅さんがつぶやくように言った。
車のそばにいた男も私たちに気づいた。黒シャツにサングラスに金のネックレス。人を見た目で判断するなと言うけど、堅気の人には見えない。
「沙羅、久しぶりだな。お友達とドライブか」
「悠樹さん、分かってるなら、そこをどいて!」
「沙羅は車が好きだったもんな。違うか。車の中でおれとセックスするのが好きだったんだよな」
たったこれだけの会話なのに、悠樹という男が小山田圭吾や杉山流星並みのクズであることはよく分かった。
「タクシーで行こう」
「うん……」
「また逃げるのか? どうぞ好きなだけ逃げてくれ。隣にいる沙羅のお友達の顔は完璧に覚えた。必ず居所を見つけて沙羅の代わりに犯しまくってやるからな!」
「詩音さんは関係ねえだろ!」
「その女、詩音っていうのか。関係あるさ。おれはおまえと奈津のせいで五年もブタ箱で無駄な時間を過ごした。でも沙羅も奈津も殺そうなんて思ってねえよ。おまえらの大切な人間を傷つけて、自分が死ぬよりもつらい目に合わせてやるって決めたんだ」
奈津という人は沙羅さんの高校時代の友達。当時、沙羅さんは悠樹に薬漬けにされて売春までやらされていた。おれから離れたければ代わりの女を紹介しろと悠樹に言われて、沙羅さんが悠樹に紹介したのが当時まだ十七歳の奈津だった。奈津は悠樹によって処女を散らされ、性行為中の姿を撮影され、さらにその画像を拡散されて、それが後の悠樹の逮捕につながることになった。
悠樹の狂った話を聞いて、前から思ってたけど私は男運が悪いんだろうなと心の中でため息をついた。七年前に私を寄ってたかっておもちゃにした十二人の高校生、私の恥ずかしい写真を手に入れた小山田圭吾、そして目のまえの黒瀬悠樹。ひどい男ばかりと縁がある。この七年間、縁のあった人の中でいい人だなって思えたのは、大学の小野蓮先輩と婚約者の大智君の二人だけだ。
大智君とは交際を始めたその日に、つまり彼の人となりをまだよく知らないうちに体を許してしまったわけだけど、もし大智君が実は悠樹や小山田のような悪い男だったとしたら、私は簡単に薬漬けにされたり、奴隷にされたりしていたに違いない。出会ったのが大智君で本当によかった!
沙羅さんと悠樹の対決は続く――
「隣にいるお友達だけじゃねえんだろ」
「何が?」
「沙羅にとって自分の命より大切な存在だよ」
「な、なんのことだか……」
「高校のとき、おまえのダチだった隆子から全部聞いてんだよ。そいつとおまえがどうやって知り合ったか知らねえけど、本当にそいつがおまえの男なら切り刻んで殺してやるからな!」
沙羅さんにとって〈自分の命より大切な存在〉ってご主人の雅博さんのこと? でも悠樹のいう〈おまえの男〉が雅博さんのことを言ってるようには聞こえないんですけど……。沙羅さんには不倫してる別の男がいる、ということ? 沙羅さん夫婦の問題だから、部外者の私がとやかく言うべき話でもないのだろうけど……。
「沙羅、おれの車に乗れよ。おまえがまたおれの女になるなら、そのお友達もおまえの男も奈津も、手出ししないでやるからさ」
悠樹が急に優しい声でそんなこと言い出した。そんな下手な演技に騙される女がどこにいるって思ったけど、
「本当に?」
と沙羅が言い出してあっけに取られた。
「本当さ。今までのことは全部水に流してもいい。おれは今でも沙羅を愛してるんだ」
いやいや、あんたは沙羅さんを薬漬けにして売春までさせてたくせに。水に流すって被害者側のセリフなんですけど!
「沙羅さん、あの男と戦うんじゃなかったの? 言いなりになったら、またひどい目に遭わされるだけだよ」
「詩音さんだって高校生たちの言いなりになったことあるから分かるだろ? 女が男と争ったってどうせ勝てないんだよ。あたしが無駄な抵抗してそのあいだに詩音さんや奈津にまで被害が及ぶくらいなら、今あたしが悠樹の女に戻れば最悪傷つくのはあたし一人だけで済むじゃん」
私はどうしようもなく悲しかった。単に、沙羅さんが悠樹という男に屈した、という話ではない。はびこる悪に私たち弱者は虐げられ、辱められ、支配されるしかないと言うの?
小山田圭吾に戦いを挑んだ大智君も返り討ちに遭って、私と別れさせられて、小山田の望み通りに勝呂唯と結婚して小山田の子を自分の子として育てていくしかなくて、しかも妻の唯と小山田の不倫も黙認しなければならない、そんな絶望的な人生を生きていくしかないの?
ふらふらと悠樹に近づいていく沙羅さんを止めることができなかった。勝ち誇るような悠樹の顔を見るのがつらい。
「とりあえずどこか人目のつかない場所に車駐めてセックスしようぜ。おまえが好きだったおもちゃもまだ車に積んである。一度だけ奈津にも使っちまったけどな。悪くおも――」
突然、悠樹の体が弾かれたように地面に倒れた。沙羅さんの右手にはさっき見たスタンガン。
「こんな下手な演技に騙されるような馬鹿の言いなりになってた昔のあたしって、どんだけ馬鹿だったんだろうね」
沙羅さんは気絶した悠樹のスマホを操作して何かを打ち込んでいる。
さすがだなと思ったのと同時に、私たちは勝てるかもしれないという希望がよみがえった。大智君だって小山田圭吾に――
勝てるだろうか? 今まで頭の中で何度もシミュレーションしてみたけど、大智君が小山田を倒すイメージを持つことができなかった。
大智君がお姉さんの美琴さんと二人で小山田に挑むといっても、二人ともかつて小山田に奴隷のように虐げられていた過去を持つ。小山田は毎日のように校内の同じ場所で、弟の大智君には多くの人の前でオナニーをさせ見世物にして、姉の美琴さんには自分とのセックスを強制し体を玩び心を辱めた――
「詩音さん、ぼうっとしてる場合じゃないよ。あたしの車に乗って!」
「この男は警察に引き渡さなくていいの?」
「悠樹には目を覚ましたあとにやってもらいたいことがあるの。悠樹のスマホに、あたしたちがこれから香貫山に向かうことも書き置きしておいた」
なんだかよく分からないけど、沙羅さんの勝ち誇った顔を見て、とにもかくにも安心できた。
小山田圭吾が大智君を呼び出した時間は正午。沙羅さんと私はそれより一時間早く香貫山付近に差し掛かった。
「車で香陵台まで行けるけど、香陵台の入口で待ち伏せされてたら、道幅が狭くてUターンして逃げることもできない。車は下に置いて、車が通れないハイキングルートを登って香陵台に向かうのが一番安全だと思う」
沙羅さんの提案に従って、私たちは険しい登山道を登り始めた。こんなこともあろうかと今日は動きやすい格好で来たのはいいけど、運動不足で体力が落ちているせいですぐに息が切れた。標高二百メートルにも満たない香貫山の中腹にある香陵台が果てしなく遠い。
この程度で息も絶え絶えになっている私が小山田圭吾に戦いを挑むのは身の程知らずだ。大智君と美琴さんに期待するしかない――
そのとき人の気配を感じて、顔を上げた瞬間、私は呆然と立ちすくんだ。
登山道の先で待ち構えていたのは井原元気だった。
「どうした? 詩音さんの知り合い?」
「私を隠し撮りしたのは彼だと思う」
「敵に見つかったのか? じゃあ逃げねえと……」
振り返ると、誰かが先回りして私たちの逃げ道を塞いでいる。その男は知らない男だったが、誰かに似てるような気がしてならない。
女二人が男二人に挟み撃ちされた格好。勝ち目ないじゃんと泣きたくなった。沙羅とその誰かと似てる男の取っ組み合いが始まった。相手が油断してくれないからか、なかなかスタンガンを使うチャンスはないようだ。
一方、私が逃げる気力も体力も失ってるのは一目瞭然だから、私を急いで取り押さえようとする者はいない。
「絶対、このルートで来ると思いましたよ」
そう言いながら、後ろに勝呂唯を従えて元気の背後から下りてきた男こそ小山田圭吾だった。
私はもともと小山田圭吾の楽曲に関心なかった。大智君をいじめていた首謀者だと聞いて、慌ててウェブで検索して顔の画像を見たくらい。その画像通りの人物が確かに余裕綽々な表情でこっちに向かってくる。
「西木詩音さん、はじめまして。小山田圭吾です。そこにいる井原元気さんから提供していただいたあなたの動画、十時間分くらいありましたけど、全部見せていただきましたよ。仕草も表情も、そして肉体もとてもクオリティ高いと思いました。僕はAV業界にもツテがあるので、あなたが希望するなら紹介できますよ」
こうやって言葉で相手を辱めて、逆らう気力を奪おうとしてるのだ。そうだと分かっていても心が折れそうになる。婚約者の大智君も知らない私の痴態のすべてを、よりによってかつて大智君を自殺に追い込んだ、私が一番許せない男にすべて見られてしまった。大智君に申し訳なくて涙が出てきた。
「泣かないでください。本当は今日、用があったのはあなた一人だったんですよ。でもあなた一人で来いと言っても絶対に来ないでしょうからね、大智とあなたの二人で来るように指示したわけです。先にあなたに会えてちょうどよかったです」
「何がよかったっていうの?」
「これからあなたには井原元気さんといっしょに新潟に帰ってもらいます。聞いてますよ。元気さんを童貞でなくしてあげたのは詩音さん、あなたなんですよね。それからはノーマルなセックスでは飽き足らず、笑いながらおしっこをかけ合うような特別な関係になったと聞いてます。大智には、詩音さんはここでかつての恋人と再会して二人で仲良く新潟に帰っていきました、と僕の口から伝えておきますよ」
私はここで腕を元気につかまれた。振りほどこうとしたら顔を殴られた。
「詩音さんよお、あんたはもう姫でもなんでもない。これからはただおれ一人の女として生きていくんだ。立場をわきまえるんだな」
大智君の婚約者としての幸せな日々の結末がこれか? 私は死ぬまで井原元気に暴力とセックスで支配されるしかないのか? これが私の過去の罪の重さに見合った罰ということなのか?
「大智君だって戦ってるんだろ? 詩音さんもあきらめんな! あんたがいなくなったら、大智君がどれだけ悲しむと思ってるんだ?」
沙羅さんが別の男ともみあいながら大声を上げると、勝呂唯も割り込んできた。
「大智君なら心配ないですよ。大智君は私のお腹の子の父親になってくれるって言ってくれましたから。お腹の子の父親になってもいいけど、詩音さんという婚約者がいるからできないって。詩音さん、早く婚約を解消して下さい。あなたのわがままのせいで、みんなが迷惑してるんですよ」
「そんなのはおまえの隣にいるお腹の子の父親に言え! 小山田さんさあ、誰がどう考えたってあんたがその女と結婚すれば全部丸く収まると思うんだけど、そこんところはどうなの?」
小山田はくくっと笑った。あまりくだらないことは言うなと言わんばかりに。
「人間は二種類しかいない。支配する側と支配される側。僕は前者で唯や大智はもちろん後者。僕にとって二人は支配し奪い尽くしそのことを楽しむ存在でしかない。唯は今まで僕に処女を捧げ、僕のセックスと暴力を無条件に受け入れ、僕の排泄物も喜んで食べてきた。大智も同じ。これから唯と結婚したあとも僕に唯を自由に抱かせ、死ぬまで一生懸命働いて僕の性奴隷と僕の子どもたちを養うことになる。支配する側とされる側の境界は絶対に越えられない。今までも、そしてこれからも。お分かりかな?」
大智君が戦うと宣言したのは正解だったと知った。戦わなければ命以外のすべてを小山田圭吾に奪われる人生を生きるしかなくなるのだから。
大智君が戦い続ける限り、私もあきらめてはいけないんだ。あきらめるとは、彼を信じることをやめることだ。たとえこれから井原元気に何度か体を犯されたとしても、あきらめてはいけないんだ。暴力を受けることが負けなんじゃない! あきらめることが負けなんだ!
元気に両腕の自由を奪われているが、私は全身でもがき始めた。元気は面倒だとばかりに私を地面に押し倒して、お腹の上にまたがった。
「みんな見てる前でセックスする? そういえば、そういうプレイはまだしたことなかったよな?」
元気の手が伸びてきて、シャツをたくし上げ、私のブラを人目にさらした。辱めたいならそうすればいい。でも私は二度とあなたたちの言いなりにはならない! それでいいんだよね、大智君?
沙羅さんも私と同じ姿勢で取り押さえられている。両手両足をバタバタさせるくらいの抵抗しかできなくなってるのをいいことに、男の手が胸元から服の中に入っていく。
「おい、どさくさにどこ触ってるんだ!」
さすが小山田の仲間だけあってゲスな男だった。誰かに似てると思ったけど、どうせその誰かもロクなやつではないだろう。
絶対に助ける! と思ったけど手足の自由を奪われてるから何もできない。それならと頭突きをしようとしたけど、全然元気まで届かない。
「おいおい、そういうのを無駄な抵抗って言うんだぜ。どうせセックスしたら骨抜きにされておれの言いなりになっちまうくせに――うぎゃ!」
元気が私の体から手を離し、自分の顔の目の辺りを押さえている。野球かソフトボールの白いボールが元気の足元に転がっている。どこかから飛んできたらしい。
この隙に元気の体の下から這い出して駆け出した。沙羅さんを取り押さえてる男の顔を何度も蹴ったけど、すぐに蹴った足をつかまれて動きが取れなくなった。
「いってえな!」
男の顔が本気で怒っている。今度は私が痛い目に遭わされるのかと覚悟した瞬間、男の脳天に金属バットが振り下ろされ、男はドサッと崩れ落ちた。
「無駄な抵抗はやめろ!」
怒鳴り声が聞こえたから振り返ると、元気が四人の男たちに挟み撃ちにされてるのも見えた。
地獄に仏とはこのことだ。誰が私たちを助けてくれたのだろう? 金属バットを持っている男の顔を見て、私は凍りついた。
「西木詩音さんですよね。おれたちずっと謝りたいって思ってて……。詩音さんが大学を辞めて行方不明になったって知って、おれたちそのとき初めて自分たちのやった罪の重さに気がついたんです」
目の前で頭を下げて謝る男は、何年経っても忘れるわけがない男――杉山流星だった。七年経って二十四歳になった流星は大人としての魅力まで加味して、外見的にさらに洗練されたクールな印象を与えている。
「詩音さんの人生をめちゃくちゃにしてしまって、本当にすいませんでした。おれたち、怒られるのを承知で言いますけど、軽い気持ちで、本当に軽い気持ちで、国立大学の地味で真面目な女におれたちみんなでセックスの気持ちよさを教えてやろうぜってノリであんなことをしてしまいました」
流星のそばに仲間たちが集まってきた。藤原礼央や斉藤大輔の顔も見える。礼央は日によく焼けてサーファーのよう。流星とは違う種類の男であるが、これはこれで女がほっとかないだろう。
「男の方が黒幕? ずいぶんおとなしいな」
「いや、さっきまで、〈下級国民の分際でおれに触るな〉って騒いでたから、二十発くらい殴って静かにさせた」
「〈おれ〉? さっきまで〈僕〉って言ってなかったか?」
「ああ。あれはカッコつけてただけらしい」
元気が縛られてるそばに小山田と唯も連れてこられたのが見える。連れてきたのは後藤陽平、南場達彦、緑川芳樹といった面々。
「高校生とセックスしたことをネタに脅してやろうとか、警察にたれ込んでやろうとか、大事にするつもりはまったくなかったです。楽しければそれでいいって思ってました。詩音さんもきっとおれたちとのセックスを楽しんでるって調子に乗ってました」
向こうにいた数人も小山田と元気と唯を伴ってこっちに合流して、当時私を都合のいい女扱いしていた十二人が勢揃いした。顔が変わった者、変わらない者、それぞれいるが、集まった十二人がそれぞれ誰かは容易に見当がついた。
原雅人がラモスに話しかけた。
「おれ、こいつ知ってる」
「有名人?」
「ああ、ミュージシャンの小山田圭吾だ」
「なんでそんなすごいやつが姫をいじめてたの?」
「さあ?」
小山田と元気はロープで両手を固く縛られて、繋がれて地面に座らされている。唯は妊婦と聞いたからだろう。縛られていない。
沙羅さんはさっきまで取っ組み合っていた、今は縛られて一人で地面に座らされてる男と話している。相手が何かしゃべるたびに顔を殴ってるから、会話したいというより、さっき胸を触られた仕返しをしたいのだろう。
「さっきあたしに痴漢したよな? 慰謝料はきっちり出してもらうよ。名前は?」
「勘弁して下さい」
顔にパンチ。
「か、川島健司」
顔にパンチ。
「川島? 莉子と同じ名字だな。おまえら二人のせいで日本全国の川島さんまで大嫌いになりそうなんだけど」
「莉子っていう妹ならいますけど……」
顔にパンチ。
「高校生でスーパーでバイトやってる?」
「やってます」
腹にパンチ。川島健司がうっと声を出す。
「誰かに似てると思ったら莉子のアニキかよ。女の胸を触りたいなら、あの頭空っぽの妹に触らしてもらえ!」
「すいません」
立ち上がって顔に蹴り。連続で。でもスタンガンを使われるよりはマシだろう。
ひたすら頭を下げる流星の耳に、そんな雑音は一切入ってこないようだ。
「許してもらおう、とは思ってません。ただ、おれたちなりのけじめとして、詩音さんに直接会って謝るまでは元気を除いたおれたち十一人は絶対に恋人を作らない、死ぬまで会えなければ死ぬまで恋人を作らないと誓いを立てて、それは今まで守ってきました。とはいうものの、おれたちの仲間ではなくなった元気がいつか詩音さんを脅したりするんじゃないかと、それは気をつけて見ていて、最近急に羽振りがよくなったりと様子がおかしかったからずっと監視してました。元気はいったい今さら何をネタにして詩音さんを脅したんですか?」
「彼は大輔君の部屋に隠しカメラを設置して私を隠し撮りしていて、隣で縛られてる男がおそらく大金で隠し撮りされた動画を買い取って私を脅した」
「死ねや!」
と叫んで、礼央が、さっきまで流星が持っていた金属バットを小山田の脳天に振り下ろす。元気も多くの者にこづき回されている。
当時、元気は斉藤大輔の部屋に隠しカメラを何台も設置した。大輔の部屋で私とセックスしていたのは二年後輩組の五人。元気を除く四人は隠し撮りされていたことを知らなかったようだ。でも彼らは男だから私とは違う。画像が流出して傷つくのはいつも女だ。
「動画は全部、おれたちが責任持って回収します。それで、詩音さんを脅した四人ですが、おれたちのやり方で処分していいですか。二度とあなたに迷惑かけられないようにできると思います」
〈おれたちのやり方〉というのはきっと聞いてはいけないやり方なんだろうなって思った。
少なくとも私を隠し撮りした動画がなくなって、小山田たちが私と大智君の生活を乱すことがなくなるなら、それはとても魅力ある提案だと思われた――
「詩音さん、その男たちの言うことを聞かないでください!」
そう言って山の上から現れたのは、大智君と美琴さんだった。流星が聞いてきた。
「あれも元気の仲間ですか?」
「違う、私の婚約者とそのお姉さん。君たちがさんざん食い散らかしたあとの残飯みたいな私を、彼はそうと知った上で生涯の伴侶に選んでくれた」
流星は私の言葉の激しさに絶句した。かつて私は一方的に流星に振り回されていた。私が流星の心に少しでも衝撃を与えたのは、私が失踪したときを除けば、これが初めてだろう。
「自分が支配される側に回った感想はどう?」
美琴さんが小山田の頬をぺしぺし叩きながら言葉でもいたぶっている。
一方、大智君の顔は今まで見たことないくらい怒っていた。
「彼らが七年前にあなたを傷つけた人たちですか」
「うん……」
「あなたは小山田に襲われて危ないところを彼らに助けられたんですか」
「うん……」
「僕はあなたは許したけど、僕の知らない二十歳の頃のあなたの肉体をみんなで寄ってたかって食い物にしていた彼らのことは絶対に許せない、と言いましたよね? 僕の恋人が、絶対に許せないと憎んでいる男たちに助けられた、という僕の屈辱が分かりませんか?」
「ごめんなさい。私はここに来るべきじゃなかった。ただ君の妻になる身として、かつて君を自殺に追い込んだ小山田圭吾に、今の君がどんなふうに戦いを挑むのかをこの目に焼きつけたかった」
「見せてあげますよ」
「えっ」
大智君は感情を押し殺したような声で機械的に流星に指示を出した。
「小山田のロープをほどいて下さい。僕は小山田とここで戦います」
「大智君、勝てるの?」
「これも言ったでしょう? 勝つために戦うんじゃないです。僕にもあなたにも誰かの奴隷のように扱われていた惨めな時代があったじゃないですか。もう二度とそうならないために戦うんです」
「分かった。君が勝っても負けても、私は戦った君を誇りに思うよ」
「は? おれはやんないよ。支配者が奴隷と対等に争ったって何のメリットもないからね」
もちろんそう言ったのは当の小山田。いかにも彼の言いそうなことだと思った。
「逃げようとしても、中学のときの僕のように、今の君には逃げ場はないよ。とりあえず君がどうしても僕と戦わないというなら、ここに勝呂さんの両親を呼んで、この場で婚姻届か認知届を書いてもらうよ。書類なら僕が用意しておいた」
「認知ってまだ生まれてないよな?」
「胎児認知という制度があるんだよ。偉そうにしてるくせに、何も知らないんだね、君は」
胎児認知か。さすが大智君。それはいいアイデアだ。だって、小山田圭吾と勝呂唯が認知ではなく結婚の方を選んだとして、支配者と奴隷という現在までの関係性が継続されるだけなら、幸せな家庭を築けるというイメージをまるで持てないもの。でも、唯本人が奴隷のままでいいというなら、そういう結婚もアリかもしれない。私は絶対に嫌だけど。
「大智、奴隷のくせにおれに意見するとは身の程知らずだな。いいだろう。おれとおまえの間には絶対に越えられない壁があることを改めて教えてやるよ」
「勝負を受けてくれたことに感謝するよ」
幸い、登山道を登った先にある香陵台という広場には、真夏の真昼時ということもあり私たちのほか誰もいなかったから、ここが決闘の舞台に選ばれた。
寒い日よりも暑い日の方が、雨の日よりも晴れの日の方が、決闘するのに向いている気がする。ということは今日のような真夏のかんかん照りの日は、決闘日和ということになるのだろうか?
大智君と縄をほどかれた小山田が向かい合って立つその周りを、私と沙羅さんと小山田の仲間の三人、そして新潟から来た流星たち十一人がぐるりと取り囲む。
「圭吾さん、頑張ってえ!」
沙羅さんが唯の声援に噛みついた。
「あんた、大智君と結婚したいんじゃなかったっけ? なんで小山田を応援するんだよ?」
「大智君は結婚したい相手というだけで、私が愛してるのは圭吾さんですよ」
不倫にはまった主婦みたいな発言で苦笑した。中三の頃からずっと小山田の奴隷だった唯も、これから始まる決闘で小山田がぶざまに敗れるのを目撃すれば目が覚めるのだろうか?
「行くね」
「大智はその言葉、本当に好きだな。いじめでオナニーさせてたとき、いつもそう言ってから射精しておれたちを楽しませてくれたよな」
小山田の挑発に駆け出す大智君。映画なんかだとこういう場合、冷静さを失って挑発に乗る方がたいてい負けるような気がするんですけど……
ケンカが始まって早々、小山田のパンチが大智君の顔面を捉える。ちょっと一方的すぎるんじゃ……
私の不安がマックスになったけど、大智君はただ殴られたわけじゃなかった。彼は殴られる代わりに、手の中の何かを小山田の顔にぶつけた。砂ぼこりが立ったから砂?
「卑怯だぞ!」
「君が卑怯じゃなかったことなんてあったっけ?」
目の辺りを手で押さえる小山田。大智君が腕を突き出して、小山田の腕に何かを押し当てる。小山田の体が吹き飛んで、地面に横たわったまま動かない。なんかついさっきもこんな場面を見た気がするんですけど……
大智君の手に握られていたのはスタンガン。さっき沙羅さんが持ってたのとは違うもののようだけど……
目つぶしにスタンガン? 卑怯すぎる! さっき勝つために戦うんじゃないって言ってたくせに、勝つために手段を選ばないってのはどうなの!
「詩音さん、あんたの男が勝ったんだから何か声をかけてあげなよ」
「でも……」
「まさか卑怯とかそんなこと思ってるの? 大智君は別に復讐のために戦ったわけでも、自分のプライドのために戦ったわけでもないよ。愛する女を守るためなら手段なんて選ばないっていう大智君の覚悟を感じない? あたしはすごくカッコいいって思ったけどな」
そんな発想が全然浮かばなかったのは、大智君と出会うまでそんなふうに私を愛してくれる男が一人もいなかったからだろう。
「ちなみに大智君にスタンガンを勧めたのはあたし。アドバイスが役に立ってよかったよ」
沙羅さんはそう笑って、川島健司に矛先を変えた。
「卑怯かどうかで言えば、弱い者いじめほど卑怯なことはないよね? あんたさ、なんで小山田みたいな卑怯な男に今までついてたの?」
「たまに役得があって……」
「役得?」
「圭吾が奴隷にしてた女に、たまに口で気持ちよくしてもらえて……」
「おまえも死ね!」
次の瞬間、健司にも高圧電流が流されたのは言うまでもない。
それからすぐ、中年くらいの夫婦が公園に車で乗りつけてきた。
「勝呂さんの両親です。あらかじめ呼んでおきました」
いつのまにか大智君がそばに立っていた。
「眠らせるついでに中学のときのいじめの復讐もやってやろうと考えて、彼が一番やりたくないこと――つまり勝呂さんとの入籍をやらせることにしました」
復讐といってもやられたことと同じことをやらせたところで何の意味もない。今さら小山田を裸にしてオナニーさせたって、小山田本人には痛くもかゆくもない。逆に大智君の方が強制わいせつの容疑で警察に捕まってしまうかもしれない。結局、決闘に応じても応じなくても小山田は唯と結婚する運命だった、ということか。
沙羅さんが唯の肩をたたいた。
「よかったじゃねえか! 愛してる相手と結婚できるってよ」
「私、圭吾さんには生まれてくる赤ちゃんを認知して養育費だけもらえればそれでいいかなって今思いました」
「もう愛してないってこと?」
「今まで愛してたかどうかもよく分かりません。彼には絶対に逆らえないんだってあきらめてましたけど、あっけなく大智君に負けたのを見て、なんで絶対に逆らえないって決めつけてたんだろうって今となっては不思議な気持ちです」
唯の両親は唯と、やっと目覚めたけどまだグッタリしている小山田を車に乗せて、またどこかへと走り去った。
次に、新潟からやって来た十一人がぞろぞろとこちらに向かってくるのが見えた。
彼らの目的は、私というより私の隣にいる大智君のようだった。さっき私に対してそうしたように、十一人全員が大智君に頭を下げた。
「僕に何か用ですか?」
かつて自分を死の寸前まで追い込んだ小山田圭吾に勝利し復讐まで果たしたという高揚感はすでになく、大智君はいつになく苛立っていた。彼の怒りは十一人のセンターにいる流星にまっすぐに向かっていった。
「詩音さんの最初の恋人になった、杉山流星という人はあなたですか?」
「は、はい……」
「おれたちが性欲解消のおもちゃとしてみんなで使い回して精液まみれにしていた残飯みたいな女を、わざわざ引き取って死ぬまで面倒見てくれる聖人君子みたいな男がいると聞いて、顔でも見てやろうかって思ったんですか?」
「え? いや、そんなつもりは……。本当にすいませんでした……」
あの杉山流星が大智君相手にタジタジになっている。さっき勝呂唯が小山田の呪縛から解放されたのを見たけど、私も今七年間の流星の呪縛からようやく解放された気分になれた。
「謝らなくてもいいですよ。今さらあなたたちがどれだけ謝ったって、彼女が無駄にした七年間を取り戻せるわけじゃないし、あなたたちのせいであきらめなければいけなかった教師になるという彼女の夢を叶えられるわけでもないですから」
流星はもう何も言葉を発しなかった。自分たちの罪の重さを改めて噛みしめているように見えた。
「でも一つだけあなたたちに感謝してることがあります。詩音さんがあなたたちにひどい目に遭わさせてここまで流れて来たおかげで、僕たちは出会うことができたんですから。それから――」
大智君がチラッと私の顔を見た。次は私が怒られるのかと思ったけど、そうではなかった。
「あなたたちのことは絶対に許せないと僕は詩音さんに言いました。でもあなたたちを許すのも嫌だけど、誰かを恨みながら生きるのはもっと嫌なんです。少なくとも結婚したあとは楽しいことだけを考えて生きていきたいんですよ。だから僕はあなたたちを許すことにしました。もちろん僕がそうしたからって、詩音さんもそうすべきだなんて言えないですけどね。詩音さんは詩音さんの考えで許す、許さないを決めればいいと思います」
「私は――」
何も考える必要はないと思った。大智君と向き合うと、素直な思いだけが自然に口から出てきた。
「大智君以外の男の人のことは全部忘れました」
突然流星が土下座を始めると残りの十人もそれに倣った。許されたことへの感謝の気持ちを表したのだろう。なぜかファミリーを抜けたはずの井原元気まで十一人の後ろについて、同じように土下座を始めた。礼央の罵声が飛んだ。
「元気、おまえはとっくにファミリーの一員じゃねえだろ?」
「心を入れ替えたなら許してやってもいいんじゃないか」と流星。
「だけどさ――」
「詩音さんや大智さんがおれたちを許すのに比べたら、おれたちが元気を許すことなんてどうってことないだろうさ」
そう言われて、何か言い返せる者は一人もいなかった。残りの十一人が立ち上がったあとも、元気だけは私に土下座を続けていた。彼の場合は、七年前に私を隠し撮りしていた罪とさっきみんなが見てる前で私を犯そうとした罪もあるから、当然といえば当然といえる態度だった。私は元気に声をかけなかった。私は自分の罪に七年間苦しんだ。彼の改心が真実ならば、彼も私と同じように長い時間苦しんでから許されるべきだと信じた。
そのとき、殺気を感じた。それは確かに誰かが誰かを殺したいと願う危険な感情だった。
「沙羅、さっきはよくも……!」
さっき沙羅にスタンガンで気絶させられた黒瀬悠樹が刃物をギラつかせて握っている。
「さっき言ったことを実行してやるよ。おまえじゃなくて、おまえの大切な人間をぶっ殺してやる! 残念ながらここにおまえの男はいないようだから、詩音とかいうおまえのお友達を切り刻んで殺してやるぜ」
悠樹が突進してくる。大智君、沙羅さん、それにファミリーの十二人がそれを迎え撃つ。
突進してくる悠樹と最初に接したのは川島健司と井原元気だった。二人はまだそれぞれの両手をロープで縛られたまま。刃物を持って向かってくる男に丸腰で立ちはだかる。
二人とも小山田の手下として沙羅さんと私に狼藉を働いたことの贖罪の気持ちからそうしてるのだというのは分かる。でも命を捨ててまで贖罪しろとは言ってないんですけど……
悠樹の刃物は健司の肩に刺さり、そのまま抜けなくなった。そこへ元気ほか新潟の男たちが殺到する。悠樹はあっという間にねじ伏せられ、ロープで固くぐるぐる巻きにされた。
すぐに警察と救急車が呼ばれ、悠樹はパトカーに、健司は救急車に乗せられていった。
沙羅さんに謝られた。
「あたし、友達に頼んで、あたしの男が小山田だと悠樹に信じ込ませた。怒った悠樹が小山田を殺してくれれば、どっちも社会から抹殺できると思ってさ。そしたらとっくに小山田はこの場からいなくなってるし、あたしの計算違いから詩音さんの身を危険にさらして、莉子のアニキには大怪我を負わせてしまった。本当に申し訳ない」
「気にしないで」
と私は答えた。
かつて沙羅さんを薬漬けにした黒瀬悠樹は最後には自分自身が薬物中毒者(ジャンキー)になってしまったのだという。累犯ということで当分刑務所から出てこられないが、それは悠樹にとっても悪くない話だろう。次に出所できる頃には完全に体から薬が抜けているはずだから。
沙羅さんが杉山流星に声をかけた。
「あれが自分の欲望のために女の子の尊厳を踏みにじった男の末路だよ。よく覚えておくんだね」
「覚えておきます」
と流星も神妙な表情で答えた。
その夜、いろいろありすぎて大智君はさすがに疲れているように見えた。
「何か飲む?」
「いや、いいです。それよりこれを書こうと思うけど、手伝ってくれませんか」
それは婚姻届だった。勝呂唯のために用意していて、唯が認知届の方を選んだから使われずに大智君の手元に残されたものだった。
「全力で手伝うよ!」
そう答えた二十分後には二名の証人欄を除いてすべて書き終わった。証人は一人は大智君のお父さんに、もう一人は私のお母さんにお願いすることにした。私の両親ならもうすぐ両家の顔合わせでこっちに来ることになっている。そのとき書いてもらえばいいだろう。
そのあと大智君はこんなことを言い出した。
「僕は今日、杉山流星という男と冷静に話せていましたか?」
かつて私が処女を捧げ、私をセックスの虜にした男の話題になり、思わず身構えた。私にできることは、私の取り返しのつかない過去を責める君の言葉を、黙って受け止め続けることだけだ。
「少しイライラしてるのが伝わってきたけど、大智君、彼を圧倒してタジタジにさせててすごいなって思って話を聞いてたよ」
「圧倒? ずっと気が狂いそうでしたよ。彼は僕に謝ってましたけど、本当は心の中で僕を馬鹿にしてるんじゃないかって思って」
「心の中で君を馬鹿にしてるって、どんなふうに?」
「勝又大智さん、西木詩音さんとのご婚約おめでとうございます。ところでおれはあなたの知らない詩音さんをたくさん知ってますよ。詩音さんが二十年大切に守ってきた処女膜を突き破って出血させたのはおれのペニスでした。おれは詩音さんが処女を喪失したときの表情もあえぎ声も膣の感触も知ってます。初めて詩音さんの膣を精液で汚したのもおれでした。おれは性欲のままに二十歳の詩音さんと数え切れないほどセックスしました。詩音さんは絶頂に達しては恥ずかしい声を上げておれを喜ばせ、おれに焦らされては泣き、こんなに感じやすい女はいないとおれにからかわれては照れて、ときには中に出してとせがんではおれに呆れられていました。二十歳の詩音さんは愛してるとおれに叫び続け、おれはそんな詩音さんをセックスの虜にして、その瑞々しい肉体を隅から隅までしゃぶり尽くしました。――ずっとそんなふうに心の中で言われてる気がして、頭がおかしくなりそうでした。もちろん彼がそんなことは思ってなくて、かつてあなたを傷つけたことを心から反省してるのは分かってます。でも僕はあなたのことになると、どうしようもなく心が狭くなるみたいです。そんなぶざまな僕を嫌いにならないで下さい」
「嫌いになんて……」
そうだった。いつも飄々としてるくせに、大智君は私のことになると病的に嫉妬深くなる。そして、嫉妬したあとは必ず――
その夜の大智君はいつになく激しかった。
今日は婚約者の私が危うく新潟に連れ去られそうになったこと以外にも、小山田圭吾に決闘を挑み勝利したという快挙、さらには私が黒瀬悠樹というジャンキーに殺されかかったという事件まであって、もともと気分が高揚していた上に、私の処女を奪った杉山流星への、また二十歳の私の肉体をしゃぶり尽くした十二人の男たちへの嫉妬も重なって、大智君の心の中の猛獣は理性という檻をなぎ倒して私に襲いかかった。
彼のその日の性欲はアクセルとブレーキを踏み間違った暴走車のような無慈悲さで、五歳年上の私を圧倒した。
「もう許して……」
「やめていいの?」
「ううん、やめないで。君との赤ちゃんを産みたいから」
私がそんなおねだりをしたせいだろうか、
「僕は夫としてあなたの願いが叶うように全力を尽くしますよ」
私のためにセックスするんだと強調していたけど、実際はただ自分がしたかっただけだと思う。
「大智君、私また……」
大智君の動きがさらに速くなり、それに合わせて私の吐息も速くなる。
はっはっはっはっはっはっ……。ああっ!
彼が射精したのと同時に私も絶頂に達した。
「えっ、また?」
射精したばかりなのに、すぐまた挿入された。少し強引だけど私は彼との行為に愛を感じる。彼は私とセックスするとき、いつだって真剣だった。また、決してアブノーマルな行為を私に求めない。私とのセックスは彼にとって私との愛を深める、そのためだけの極めて純粋な行為だからだ。
それに対して、流星たち十二人にとって私とのセックスはただの性欲処理であり、暇つぶしであり、別にいる本命の恋人とはできないような過激で変態的なプレイを試し、楽しむ機会でしかなかった。
「ダメですか」
「ダメじゃないけど……」
「詩音、動くよ」
「大智君、少し休ませ――」
はっはっはっはっはっはっはっはっ……
私は小刻みな吐息を吐きながら、また快楽の海に溺れた。
これは絶対妊娠したかなって思ったけど、そんなことはなかった。次の日、検査したらもう陽性が出た。つまり、私はもっと以前から妊娠していたのだった。
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