私相手のその行動なんて、お互いの誕生日を暗証番号に設定していて、ロックが無意味なことも承知の上での所業だったのだから、浮気慣れして本当に肚が据わっていたんだろうな。
だってなおちゃん、私にはなっちゃんの存在、隠したかったはずなのに、そんなだったんだもん。
確かに堂々とされていたら、逆に携帯を見ようだなんて思わないんだと、私は今頃になって身をもって思い知らされている。
私の名前も――おそらくはなっちゃんの名前も――変にあだ名とかではなく普通にフルネームで登録してあって。色んな仕事関係の人たちの連絡先と相まって……きっとなおちゃんの携帯の電話帳の中、逆に目立たなくなっていたはずだ。
「菜乃香さんのお名前もお話も……なおさんから本当にしょっちゅう聞かされていたから、彼の電話帳のなかからあなたの連絡先を探し出すの、結構簡単でした」
そう言って涙目で微笑んだなっちゃんに、私は何と答えたらいいか分からなくて。
結局何も言えないままにうつむくことしか出来なかった。
***
「なおさん……古い家の方で首を吊って亡くなったんだそうです。第一発見者は彼の上の息子さんで……死亡推定時刻は午前七時頃だとか」
なおちゃんとなっちゃんの職場は同じごみ処理場第一工場。
その朝礼で、皆が集められて工場長からそんな話を聞かされたらしい。
(古いお家で……)
なおちゃんが、わざわざ自分が生まれ育った生家での最期を選んだ理由は何だったんだろう。
私も、なおちゃんが数年前に生まれ育った家を出て、新しく別の土地に家を新築したのは知っていた。
私は彼が家の建て替えに備えて色々住宅展示場などを巡るのに付き合わされていたから。
自分が住むわけでもない家を『奥様』と呼ばれながら見るのは何だか切なくて悲しくて。
なおちゃんはそういう残酷なところが時折垣間見える人だった。
きっと彼自身には悪気なんてなくて……必要だから一緒に行く。
行けば菜乃香も楽しめるよね?ぐらいの感覚だったんだと思う。
私は愚かにも、もしかしたら彼が私との結婚を視野に入れて家の建て替えを検討してくれているのかも?とか馬鹿な期待をして。
そうじゃないと思い知らされて、死ぬほど辛くなったのだ。
なおちゃんの古い家は昔ながらの日本家屋で……天井には大きな梁があって、子供の頃なんか囲炉裏の火をかき回したら、煙に当てられたのか上から大きなアオダイショウが降ってきて驚かされたんだという逸話などを聞かされたことがある。
さすがに今は囲炉裏などは失くして普通に生活が出来る家に改装はして住んでいたらしいのだけれど。
密閉度が低いから冬は結構寒いんだよ、とよく話してくれていた。
家も土地もそのままだったから、時折行っては手入れだけはしているとも聞かされていて。
休日なんかは旧家の手入れだけでつぶれることもしょっちゅうだとぼやいていたのも記憶している。
***
なおちゃんは亡くなった日、仕事に行くと言っていつも通りの時間に家を出たみたい。
だけど実際に向かったのは職場ではなく、以前住んでいた家で。
職場からなおちゃんの無断欠勤の連絡を受けたご家族が彼の消息を探して……やっと見つけたのが旧家で。
第一発見者が最悪なことにお子さんだったということみたい。
彼の携帯電話は電源が切られているのか圏外になっていて、結局見つけられなかったんだとか。
きっとそれがなおちゃんの、私たち不倫相手や奥様に対する最後の優しさだったのかな。
電話が残っていて……変に着信やメッセージが届いても……自分が旅立った後では証拠を隠滅することが出来ないから。
バレなければ浮気はしていないのと一緒。
奥さんは薄々勘づいていらしただろうけれど、なおちゃんは奥様に最後の最後まで決定的な証拠を掴ませなかったんだと思う。
***
「なおさんは……ここ数年異動の時期にはいつもあんな感じになってらしたんですよね?」
相当弱っていたのかな。
リストカットを繰り返すようになってからのなおちゃんは、そんなこともポロリとなっちゃんにこぼしたらしい。
その度に、私に支えられて何とか持ち堪えていたことも。
「ねぇ、菜乃香さん、どうして……」
そこでなっちゃんが一瞬だけ私を責めるみたいな口調になって……ハッとしたように唇を噛み締めて言葉を飲み込んだ。
きっとなっちゃんは『どうしてそのことを知りながら、この時期になおさんのそばにいてくれなかったのですか? どうして彼の手を放せたんですか?』とでも言いたかったのかな。
私には、なおちゃんが亡くなる前日、なおちゃん自身から掛かってきた電話で、彼からのSOSを蹴ったという引け目がある。
だから、もし仮になっちゃんからそう責められていたとしても、きっと言い返したりは出来なかったと思う。
「ごめんなさい……」
私を責めることが出来ず、黙り込んでハラハラと涙をこぼすなっちゃんに、私は謝ることしか出来なかった。
その謝罪がなおちゃんのそばにいられなかったことに対してなのか、なおちゃんの自殺を止められなかったことに対してなのか、はたまたなっちゃんに辛いことを全て背負わせて、自分だけ蚊帳の外で幸せを噛み締めてしまっていたことに対してなのか、自分でも分からなくて。
「……それは……何に対する謝罪ですか?」
なっちゃんにポツンと問い掛けられたけれど私はうまく答えることが出来なくて、聞こえなかったふりをした。
***
なっちゃんとともにお通夜に参列して……変わり果てたなおちゃんの顔を見た。
縊死、というともっと顔が浮腫んだり苦しそうに歪んでいたりするのかなと覚悟して彼の顔を見たのだけれど。
なおちゃんは思いのほか穏やかな顔をして棺に横たわっていた。
きっと鬱血痕の残っているであろう首の辺りも、棺の小窓から覗いたのでは見えないように工夫が施されていて。
その顔が、顔色が悪いということ以外あまりにもいつも通りに見えたから。
私はまたしても彼の死を明確に受け入れることが出来なくて、そこでもやっぱり涙が出てこなかった。
ポロポロと涙をこぼして棺の中の彼を見つめるなっちゃんを支えるようにして……私はぼんやりと(どうして私、こんなに悲しいのにちっとも泣けないんだろう)とそればかりを考えていた。
別れ際、なっちゃんに「菜乃香さんはもうなおさんのこと、何とも思ってらっしゃらないんですね。一粒も涙を流さないなんて……何だかなおさんが可哀想です」と強い目で責められたけれど……。
私はそれを否定することも肯定することもせず、無言のままなっちゃんに深く深くお辞儀をして、彼女とさよならをした。
きっとなっちゃんは、いつもなおちゃんから存在をアピールされまくっていた〝戸倉菜乃香という存在〟を確認して、なおちゃんには私だけじゃなく〝古田夏美という恋人〟もいたんだと一矢報いたかったんだろうな。
なっちゃんは懸命にひた隠しにしていたけれど、端々に漏れ出る私に対する敵意をひしひしと感じて、私はそんな風に思った。
なっちゃん。
貴女の作戦はきっと大成功だよ。
今はたっくんという大切な伴侶がいるくせに、私は少なからずなおちゃんに裏切られていたという事実にショックを受けているのだから。
***
なっちゃんと別れた後、私は一人、あてもなく車を走らせて。
なおちゃんと行った場所をあちらこちら何の目的も脈絡もなく彷徨いた。
途中で車を停めてなおちゃんに電話してみたけれど当然のように圏外のアナウンスが流れるばかりで応答なんてなくて。
私は、この期に及んでやっと。
本当に彼はこの世からいなくなってしまったのかな?とぼんやり考えた。
たっくんに連絡も入れないままあちこち動き回って……ぼんやりとした頭で帰宅したら、二十三時を過ぎていた。
そんなだったのに、たっくんは寝ないで私の帰りを待っていてくれて。
それが何だかたまらなく申し訳なくて……消えてしまいたくなった。
「菜乃香、お帰り」
何故こんなに遅くなったの?とかそういうことは一切聞かないたっくんにギュッーと抱き締められて初めて。
私は声を上げてわんわん泣いた。
私はこんな優しい人を差し置いて……あのとき私がなおちゃんの求めに応じていたら或いは彼は死なないでいられたの?とか。
あてもなくなおちゃんとの思い出が詰まった場所を転々と彷徨うように車を走らせながら、このままどこかへ突っ込んで、なおちゃんの後を追ってしまおうか、とか。
ご飯を食べずにいたら何日くらいで死ねるんだろう?とか。
そんな不毛な想いに捕らわれ続けている自分のことも、許せなかった。
***
なおちゃんの葬儀には結局たっくんも列席してくれた。
一人で出向いてなっちゃんとまた鉢合わせになったら怖いと思っていた私は、たっくんが「僕も行くよ」と言ってくれた時、心底ホッとして。
それと同時。
妻の不倫相手のお葬式に出るだなんて、たっくんはどんな気持ちだろう、とも思った。
そんな私にたっくんが言ったのは、「今の菜乃香を一人には出来ないから」というもので。
私はたっくんが何故そんなことを言うのかその時には分からなかったのだけれど――。
なおちゃんの葬儀から数日。
日ごとになおちゃんはもうこの世にはいないんだという実感が強くなっていった私は、彼を自殺へ追いやってしまったのは自分だと信じ込むようになっていって。
なおちゃんのために何もしなかった私なんて、生きている価値がないとすら思うようになっていた。
心の片隅で、こんなことをしてはいけないと思いながらも、死んでなおちゃんにお詫びを言いに行かなくては、という相反する気持ちが日増しに強くなって。
たっくんはきっと、私よりもずっと私の中にあるそういうダメージを見抜いていたんだと、その時になってようやく気付かされた。
だからと言ってどうにもならないのが心なんだと思い知らされるみたいに、表面に出ている私はご飯を食べるのを拒否して、自傷行為に走って。
なおちゃんと同じように首をくくればきっとすぐに……。
そう思うのに、意気地なしの私はそこまでする勇気すら持てなかった。
死にたい自分と、死んではいけないと言う自分が心の中、ごくごく短い周期で攻防を繰り広げる。
なおちゃんを失ってもそんな中途半端な覚悟しか持てない自分が酷く汚らわしいものに思えて。
私はそれを払拭したいみたいに「死にたい」という言葉をつぶやいた。
余りに死にたい死にたいと繰り返す私に、たっくんは呆れたりせずいつも本気で向き合ってくれていた。
そんな折。
包丁を手首に当てているところを見つかった私は、たっくんを本気で怒らせた。
たっくんは自分が傷つくのも恐れず、暴れる私から無理矢理包丁を取り上げて……「バカ!」という言葉とともに頬を思い切り張ってきたのだ。
叩かれて痛いのは私のはずなのに、包丁を遠くへ放り投げて私の両腕をグッと掴んだたっくんが、ポロリと涙を落としたのを見て、私はハッとさせられた。
「菜乃香。お願いだから僕を置いて逝かないで? 僕が菜乃香と一緒に生きていきたいって願うだけじゃ、キミが死なないでいてくれる理由にはなれない? 菜乃香は緒川さんが自殺してそんなに苦しんでるくせに、僕にキミと同じ苦しみを味わえって言うの?」
震える声でそう問いかけられて初めて。
私はこの人のために生きないといけないんだということに気付かされた。
結婚はお互いの人生をお互いに預け合って、寿命が尽きるその時まで共に生きて行こうという契約だったのに。
私はそれを勝手に反故にして、私が抱えているのと同じ苦痛をたっくんに与えようとしていたんだ。
「たっくん、ごめん……」
私はその日を境に、死のうとすることを辞めた。