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「わ、私も……本当は同期のみんなと仲良くなれたらって思ってた時期があって……」
宗親さんとのドタバタのせいですっかり忘れていたけれど、入社してすぐの頃は飲み会なんかに参加して、少しでも――それこそ同期に限らず――周りと打ち解けられたら、とか思っていたのを思い出す。
「何かちょっと微妙な言い回しだけど……今でも気持ちに変わりない?」
不安そうに聞かれて、確かに変な言い方したよねと反省した私は、「もちろん」とうなずいた。
「だったら――」
作業服の胸ポケットから携帯を取り出す足利くんを見て、私はキョトンとする。
「連絡先教えて? 他の奴らとは俺、繋がってるからいくらでも招集かけれるし。せっかくだし、近々飲みに行こうよ」
わー、この人、結構強引だな?と思いながらも、特に断る理由もなさそうだったから、私、乞われるままに連絡先を交換した。
***
ちょっと長居しすぎちゃった。
ほんのちょっと気分転換、のつもりで上がったリフレッシュルームだったけど、足利くんとのアレコレのせいで、予定よりタイムロスをしてしまった。
結局ブラックコーヒーも上では飲みきれなくて、私、飲みかけのコーヒー入りマグを片手に、エレベーターに乗ってしまいました。
誰にも出会わなかったから良かったけれど、ちょっと恥ずかしい構図だったかも?
などと思いつつ。
デスクで、苦いコーヒーをちびりちびりと啜りながら、一生懸命頼まれていた見積書は完成させました。
宗親さ……もとい織田課長!
貴方が箱入り部下に仕立て上げてしまった(と専らの噂らしい)柴田春凪は、どうやら出来る配下だったようですっ!
大好きなあの人に、あの子は役に立つと、少しでもいいから思って頂けますように。
***
その日の夜。
「――ただいま、春凪」
宗親さんの帰宅の声に、本当はすぐさま玄関先まで駆けて行って「お帰りなさいっ」って忠犬みたいに尻尾を振りたい気持ちをグッと抑えつつ。
「お帰りなさぁ〜い」
と玄関に向けて、キッチンから声だけ返した。
だって私は偽装妻(になる予定)の身。そんなラブラブの恋人みたいなことをしてしまったら、きっと引かれちゃうもの。
「見積書、有難うございました。完璧な出来でしたよ」
宗親さん、私が彼のデスクの書類入れに「チェックお願いします」という付箋をつけて放り込んでおいた見積書のチェックまで済ませて帰宅なさったんだって思って。
頑張り屋さんな宗親さんのお役に立てたことが嬉しくて、またもや心が浮き足立ってしまう。
振り返って「足手まといにならずに済んで良かったですっ」ってギュッと抱きついたり出来るような甘々な関係だったら良かったのに。
身の程を弁えるのって案外難しい。
「良かったです……」
そんなアレコレの感情をグッと抑え込んで、振り返りもせずそう言って。
まな板の上、皮を剥いて丸裸にしていた玉ねぎをザシュッと半分に切って薄切りにし始めたと同時、何でもないことみたいに宗親さんがおっしゃった。
「今日は出先で役所に行く便があったので、婚姻届も提出しておきましたよ」
って。
今夜は親子丼でいいかな?なんて思いながら夕飯の支度をしていた私は、世間話のついでみたいにサラリと告げられたセリフに、思わず手が止まってしまう。
(えっと、今のって親子丼の作り方のレクチャーじゃないよね?)
などと頓珍漢なことを思う程度には混乱中で。
玉ねぎをスライスしていた手を止めて、私は思わず宗親さんを振り返った。
そうして数秒遅れて「え!?」と声を出して、切ったばかりの玉ねぎをまな板から払い落としてしまって、慌てて拾う。
いくら偽装とはいえ、婚姻届くらいは一緒に出しに行くものだと思っていたんだけどな?
「形式的なものですし、春凪の希望通り大安に提出したのですから構わないでしょう?」
呆気らかんと告げられて、カレンダーを見るよう促された私は、思考回路がショート寸前です。
宗親さんに指差された壁のカレンダーを見ると、今日の日付のところには、確かに「大安」と書かれていた。
いや、でもだからって。
私、今日出しに行くなんてこれっぽっちも思っていなかったですっ。
それに――。
宗親さんの仰った「形式的なもの」と言う言葉から、「偽装結婚だから」というニュアンスを強く意識させられた私は、自分でもそうだと認識して色々自粛していたくせに――いや、自粛していたからこそ?――にわかに悲しくなる。
視界がじんわり涙で霞んだのを、「たっ、玉ねぎが目にしみてきちゃいましたっ」とヘラリと笑って誤魔化して。
前に婚姻届を出すお日柄のことは聞かれたけれど、今日出しに行くだなんて宗親さん、会社を出る時にだって一言も言わなかったですよね?
私、何の心の準備も出来てやしないんですよ?
なのにもう籍だけは入ってしまったの?
私の預かり知らないところで?
何で?
結婚って……2人の問題じゃないの?
1人だけで決めちゃっていいの?
そんな面倒臭いことを思ってるって知ったら、宗親さん、私のこと偽装妻として失格だって……嫌になりますか?
とかアレコレ思ったら、どうしようもなく切なくなって、鼻の奥がツンと痛んで涙が次々に溢れ落ちるのを止められなくなった。
ダメだよ、春凪。
こんなところでこんな風に泣いたら、さすがに宗親さんに変に思われちゃう!
あぁ、でもっ。私いま、玉ねぎを切ってるところで本当に良かった。
宗親さん、この涙はね、玉ねぎが目にしみただけです。
それ以上の意味なんてないのです。
そう、貴方に言い訳できるから――。