ぬるり──背筋を這うような感覚で、椎名梓は目を覚ました。
時計は深夜二時を指している。
空には月がなく、東京郊外の住宅地は音ひとつ立てず
凍りついたような静けさに支配されていた。
築四十年を越える木造アパートの二階。
梓の住まいは、畳のにおいと防虫剤の残り香が混じる
どこか懐かしくも古びた空間だった。
普段なら隣室の生活音が壁越しに聞こえる。
だがその夜に限って、どこからも音がしない。
不気味なほどに。
寝汗で湿った額を拭いながら、梓はゆっくりと起き上がる。
喉が渇いていた。
冷たい水を求めてキッチンに立ち、蛇口から注いだ
水の音が異様に大きく部屋に響く。
夜の空気が、肌にじわりと冷たさを伝えてくる。
──何かがおかしい。
フリーのライターとして、梓は怪談や都市伝説を専門に取材していた。
不規則な生活には慣れていたが、今夜の悪寒は
ただの疲労や睡眠不足によるものではない。
まるで誰かに
いや、“何か”に見られているような──。
数日前から追っていた都市伝説のせいかもしれない。
「黒のダイアリー」──SNSでささやかれ始めた謎の黒い手帳の噂。
その手帳に名前を書かれた者は、数日後に“顔を失って死ぬ”という。
最初は興味本位だった。
ただ、関連する投稿が急速に削除され
発信者までもが、アカウントごと消えるという異常事態に
梓の記者魂はざわつき始めていた。
そして、その夜。
何の前触れもなく、ポストに一通の封筒が届いた。
差出人は不明。
開けると、中には震える筆跡のメモが一枚。
「あなたも、知ることになる」
それだけが書かれていた。
他には、黒く重たい手帳と古びた地図。
手帳は、異様な存在感を放っていた。
触れた指先が、微かに痺れる。
まるで、これは本当に
「触れてはならないもの」──。
中を開くと、血に似た赤黒いインクで
びっしりと人名が書かれている。
しかも、筆跡がすべて違う。
まるで、無数の人間がそれぞれの手で
呪いを継ぎ足していったかのように。
梓の心は、その瞬間から静かに決壊していた。
地図に記されたのは、東京都八王子市の山中。
不鮮明な線と、見慣れぬ記号。
そこに、ある廃神社の存在が仄めかされていた。
次の日。梓は、そこへ向かう決意を固める──。
(→次話へつづく)
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