静けさが、耳を刺すように痛い。
それが“彼女”が最初に感じた感覚だった。
畳の上に横たわっていた身体をゆっくりと起こす。
乾いた布団の匂い。障子の向こうに射す、色のない光。
けれど、その光は温もりを持っていなかった。
まるで、何もかもが色褪せた世界。
「……ここは……」
誰にともなく呟いた声は、わずかに震えていた。
自分の声にすら違和感を覚える。
鏡台の前に立つと、見慣れない顔がこちらを見返してきた。
いや、“どこかで見たことのあるような”顔。
だが、それが自分自身だという確信は、どこにもなかった。
記憶が──ない。名前も、生い立ちも、なぜここにいるのかも。
唯一、引き寄せられるように視線が向かったのは
床の間にぽつりと置かれた小さな冊子。
――黒い手帳だった。
その手帳には鈍く光る金の文字で、何かの題名が刻まれていた。
タイトルは掠れていて、読めない。
だが、ただならぬ気配が漂っている。
まるで、それ自体が何かを“記録している”ような。
ページをめくる。
そこにはびっしりと書かれた人名と日付、そして数枚の写真。
いずれの写真も、顔の部分だけが
鋭利な刃物で削られたように切り取られていた。
「これ……」
ある名前に、指が止まる。
――“古橋 澪(ふるはし みお)”
胸の奥に、小さな鐘の音が鳴ったような気がした。
知らないはずの名前。
なのに、懐かしさにも似た痛みが、じわりと胸に広がる。
その瞬間、背後から風もないのに、畳が軋んだ。
振り返っても誰もいない。
ただ、空気だけが異様に冷たい。
ペンも持っていないのに、手帳のページに“文字”が浮かび上がった。
―“朝日奈 柚葉(あさひな ゆずは)”
それは、自分の――名前?
「私の……名前……?」
思わず手帳を落とす。
ページが風もないのにパラパラとめくれ、最後のページから
一枚の写真がひらりと舞い落ちた。
拾い上げる。
それは――自分の写真。
けれど、やはり“顔”だけが、切り取られていた。
喉の奥がきゅっと縮こまり、吐き気がこみ上げる。
そのとき。
―「返して、“名前”を」
女の声だった。
すぐ耳元で囁かれたように、生々しく。
障子を開けた先は、もう“現実”ではなかった。
真っ黒な空間の中から、ぬらりと何かが這い出してくる。
――それは、“顔のない少女”。
(→次話へつづく)
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