注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
日が沈んだハクシラ市。
窓の外には、灯りのついたビル群が立ち並び、かすかな喧騒が夜風に溶けていた。
……だけど、なんだろう。
この街の空気には、どこか「濁り」があった。
言葉にできない違和感。
誰もが気づかぬふりをして過ごしているような、そんなざわめきが――静かに耳の奥を揺らしていた。
俺は、布団の中で目を閉じながら、うまく眠れないでいた。
イロハと出会ってから、まだ二週間程度。
それでも、確かに日常は変わった。
不思議な剣を持つ少女と旅をして、虚霊というものと対峙して――自分の中にも、何かが入り込んできた気がしてならない。
……このまま、寝られるのか?
そんなことを考えたけど、普通に眠りに着けた。
意識がふっと沈んだ。
──次の瞬間、目を開けると、そこは“森”だった。
「……ここ、は……?」
立ち込める霧。
淡く舞う桜。
夜の中に溶けるような静けさ。
幻想のような景色。
胸の奥が、やけに強くざわついた。
足元には、小川の流れる音。そして――焚き火のような、焦げた草の匂い。
……これ……まさか……
ふと、口が勝手に動いた。
「……イロハ……?」
その名前が自然に出てきた。
同時に──泣き声が聞こえた。
誰かが、必死に泣いていた。絶望のような、そんな感じの。
「やだ、やだぁ……どうして……わたし……!こんな……’’月見の森’’は……こんなじゃないのに!」
小さな肩、しゃくりあげる影。
顔は見えない。でも、確かに胸が痛んだ。見ていられないほどに。
「おい……!」
足を踏み出した瞬間、世界が――崩れた。
空が反転し、桜が黒に染まる。風が止まり、音が消える。冷たい何かが首筋を撫でる。
少女の瞳の奥から、黒い影がこちらを――
──はっとして、俺は飛び起きた。
「っ……!」
息が荒い。汗が額を伝う。何もしてないのに、身体が震えていた。
「……夢、か……」
窓の外は、まだ夜だった。
カーテンが風に揺れているだけで、他には何もない。
でも――
「……あれ、イロハの……過去なのか……?」
俺はぽつりと呟いた。
あの森。あの匂い。あの泣き声。
どこかで、イロハと関係があると、そう確信していた。
……だったら、聞いてみるしかない。
翌朝。
俺は、イロハに昨日の夢のことを話した。
「……ねぇ、イロハさん。昨日、ちょっと変な夢を見たんだ。」
「どのような夢ですか?」
そう聞かれて、俺はしばらく黙ってしまった。
……どう説明すればいいんだろう。
頭の中でははっきりしてるのに、口に出そうとすると言葉が詰まる。
「……森が出てきた。夜の森で、桜が舞ってて――そこで、君が泣いてた。」
その言葉に、イロハはほんのわずかに、顔を顰めた。
「……森?」
「うん、なんていうか……桜があって、小川が流れてて。焚き火みたいな匂いもした。あれ……もしかして、君の記憶なんじゃないかって思って」
俺がそう言うと、イロハは目を伏せ、小さく頷いた。
「その夢に出てきた森が、どんなものかは分かりません。けれど――私がかつて住んでいた場所も、大きな桜木のある森でした」
イロハの目が、少しだけ揺れていた。
それはいつもの無表情な彼女からは考えられないほど、かすかな、でも確かな“ゆらぎ”だった。
「……君が昔住んでた森って……月見の森、って名前だったりする?」
俺がそう尋ねると、イロハはふと視線を上げた。
「……なぜ、その名を?」
「いや……イロハさんが、夢の中で“月見の森”って……そう呟いてた気がする」
それは本当に曖昧な記憶だった。
夢の中で確かに誰かが囁いたような、もしかしたら風の音だったかもしれないような。
でも、たしかにその言葉が耳に残っていた。
イロハは少しの間、黙っていた。
「月見の森……私が生まれた場所です。静寂の聖域。、そこには……妖精と人が、共に暮らしていました。私のお母様は、森の女王と呼ばれる人でした。」
「……妖精?……お母さん?」
「ええ。お母様は、私に“静寂”を託した人。」
“静寂を託す”。
言葉の意味はよくわからなかった。静寂を託すって、意味がわからない。
「……静寂を託すって?」
俺はまた、イロハに尋ねた。なんだか、イロハと話していると、疑問だらけになりそうだ。
「……簡単に言ってしまえば、世界の運命を私に任せて、お母様は消えました。」
俺は言葉を失う。イロハと出会って、二週間程度しか経ってないってのに、なんだかこの子の闇をどんどん聞かされてく感じ。
この子が、普通の人とは少し違うのが、何故か、わかってきた気がする。
うん、いやでも。
妖精と人が暮らしてた森って言ったよな?
……イロハ、君何歳なんだ。てかこの世に妖精なんているのか?
イロハのお母さんが女王ってことは、イロハは、姫?
え、ちょっと待って。俺今までそんなの知らずに普通に話してきちゃったんだけど……?
ダメだ、情報量多いし、聞きたいことが多すぎる。
「……もしかして、その森で何かがあったのか?」
「……分かりません。私は、“その後”の記憶を持っていないのです」
イロハの声が、かすかに震えていた。
それは風の音にも似た、かすかな震えだった。
「覚えていないのに、時折……夢に見るんです。誰かの泣き声、焚き火の匂い、黒い桜。あなたの見たものと……とても似ている」
……どうしよう。この子、闇が深い。
「……でも、どうして俺にその夢が見えたんだろうな」
そう呟いた俺に、イロハはしばらく考え込むような間を置いてから、ぽつりと答えた。
「もしかすると……“共鳴”かもしれません」
「共鳴?」
「私の心に強く残る想いが、あなたの心と……何かを通じて、重なったのだと思います」
そう言われても、やっぱりよく分からない。でも、俺が見たあの夢は――確かに、誰かの“悲しみ”だった。
「……辛かったんだな」
その言葉に、イロハは驚いたように目を見開いた。
「え?」
「夢で、君……いや、あの子が泣いてた。どうしてって、何度も。俺、それ見て……なんかすごく、胸が痛かったんだ」
静かに、風がカーテンを揺らす。
イロハは、少しだけ俯いて、でもどこか安らぐように息をついた。
「……ありがとう。そう言ってもらえるのは……嬉しいです」
まるで、少し肩の力が抜けたみたいだった。
俺はまだ分からないことだらけで、頭の中はぐちゃぐちゃで、それでも。
――きっと、イロハの悲しみを知ったことに、意味がある。
「……あのさ。いつか、君が全部思い出したとき。そんときは、ちゃんと聞かせてくれよ。君のこと。月見の森のこと。お母さんのことも。」
「……ええ。必ず」
イロハはそう答えたあと、ふと少しだけ微笑んだ気がした。
それが、この日初めて見た――“本物の表情”だった。
製作途中