テラーノベル
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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
日が沈むハクシラ市。
その街角に、風の音とは違う「ざわめき」が満ちていた。
それは誰にも気づかれぬほど微細で、しかし確かに鼓膜を揺らす。
人々の心の奥底にひそむ、名もなき記憶たち。
忘れられた痛み、口にされなかった叫び。
それらが虚霊の苗床となり、街全体に“静かな歪み”を広げていた。
ーーー夜。
布団の中で目を閉じたレンの意識が、ゆっくりと沈んでいく。
気がつくと、彼は――森の中に立っていた。
桜が舞っている。風がやわらかく吹き抜けて、花びらが頬をかすめた。
足元には水音。小川が流れていた。
その音さえ、どこか懐かしい。
匂いがした。焚き火のような、焦げた草の匂い。
不自然に混じるその香りが、胸を締めつけた。
「……イロハ……?」
声が、喉を震わせて出てきた。
それは無意識だった。ただ、口が勝手に動いた。
そのときだった。
──泣き声。
耳元で響いた。誰かが、しゃくりあげていた。
「やだ、やだぁ…!どうして…!わたし…!」
小さな肩。影。涙に濡れた瞳。
顔はよく見えないのに、レンの胸は激しく痛んだ。
「おい…!」
足を踏み出そうとしたそのとき。
ぐわり、と景色が崩れた。
空が反転し、桜が黒く染まる。風がやむ。音が止む。
冷たい何かが、首筋を這う。振り返ると、真っ暗な森の奥から――“黒い何か”がこちらを見ていた。
目を覚ましたのは、その直後だった。
「っ!?」
――息が乱れている。
額に汗。胸が痛い。何もしていないのに、腕が震えていた。
「……イロハ……?」
また、その名前が出た。
しんとした部屋。時計の針の音だけが響く。
「……これ、過去なのか…イロハの?」
レンはぼそりと呟き、窓の外を見つめた。
そこには何もいない。ただ、風がひとすじ、カーテンを揺らしていた。
イロハなら何か知っていると思い、レンはイロハに問いかけた。
「……イロハ。君は、あの森を知っているのか?」
「……あの森?」
イロハは少し首を傾げた。
「桜が舞っていて、…誰か、イロハが、泣いてた。」
その言葉に、イロハの表情が変わった。
「…私が泣くはずありません。涙は…魂が揺れる時にしか流れないもの。静寂を継ぐ者が泣くなんてこと、あってはならない。」
静かに目を伏せ、彼女はそっと懐から一つの小石を取り出した。
淡く青く光るそれは、まるで月の欠片のようだった。
「これは……?」
「魂の核のかけら。母が私に遺したものです。最近になって、時折……記憶が、戻るようになりました。」
イロハの声が揺れていた。普段は決して見せない、感情の揺らぎ。
「月見の森……そこが私の生まれた場所。…お母様が何を思って静寂を私に託したのか、その理由は未だ分からない。私はただ……この剣に選ばれて、時の外側に取り残されたような気がしている。」
レンは、彼女の言葉を静かに受け止めていた。
過去の重み。罪のように背負わされた選ばれし存在の苦しみを感じた。
その日から、ふたりは記憶の断片を探し始めた。
歪んだ因果に関わる者の中に、なぜか月見の森に関係した者が現れ始めたからだ。
彼らが向かったのは、旧市街に佇む古い神社。
そこには、神職・綿貫(わたぬき)という老いた男がひとりで暮らしていた。
境内は人の気配が希薄で、だが空気は濃密だった。
年月が封じ込めた想念が、木々の隙間から滲み出しているようだった。
「……桜月。その名を、どこで聞いた?」
そう、彼はイロハを見た瞬間に呟いた。
「お母様を……ご存知なのですか?」
イロハが尋ねると、綿貫はゆっくりと頷いた。
「知っていた、というべきか。あるいは、“記憶している”と言うほうが近いかもしれない。君の母は、時を調律する者。我々のような神職や精霊たちは、その手助けをしていた時代があった」
「時を調律…」
「時間は直線ではない。魂や想いが歪むことで、時間そのものも軋む。 君の母はそれを感じ取り、静寂の中に均衡をもたらす刃を作った。それが今、君の手にある剣だ」
綿貫の声には、どこか諦念が滲んでいた。
「だがな……静寂とは、時に残酷なものだ。人々は変わらないものに憧れ、そして恐れる。君の母は、変わらぬ静寂を守ろうとして、自らをその剣に閉じ込めたのだよ」
イロハは息を呑んだ。
「お母様は生きて……?」
「もうこの世にはいない。ただし……君がなにかに迷う時、何か助言をしてくるであろう、君がそれに触れるとき、選ばねばならぬ。静寂を継ぐのか、拒むのか」
言葉を終えた綿貫の背に、黒い影が浮かび上がる。
それは虚霊だった。しかし――
「……人の形……?」
レンが呟く。
虚霊は、過去の記憶をそのままなぞるような人の残響だった。
イロハは迷いなく剣を抜いた。
斬った瞬間、剣の中で何かが鳴いた。
悲しげに、名残惜しそうに、まるで誰かの最後の囁きのように。
その夜、イロハは再び夢を見る。
女王の声。幼い自分を抱きしめる暖かい腕。そして
「因果の中心には、ひとつの罪がある。イロハ、それを知ったとき……あなたは選ばなければならない」
「…ひとつの…罪…?」
イロハは母に問うたが、母は何も答えず、そのまま目覚めてしまった。
一方、レンも奇妙な既視感に悩まされていた。
街を歩いていると、見知らぬ場所で懐かしさを感じる。
誰かの悲しみが、まるで自分のもののように胸を締めつける。
レンは一人、二階の自室で悩む。
「……まさか、俺も因果に囚われてんのか?」
そう呟いたそのとき、部屋の窓が開き、風が吹き、 目の前に影が現れた。それは虚霊ではなかった。
一人の少女。黒いローブに身を包み、空中をクラゲのようにふよふよと浮いている。白い肌に感情の色はなく、長い黒髪の三つ編みが宙に浮かび、目はまるで、血が溢れ出ているかのような紅い色をしていた。
「静寂を継ぐ者、そして観測者……ふたりが揃えば、因果の門が開く」
「…誰だ…お前…」
「時が来れば…分かる」
少女はそれだけを告げ、夜の中に溶けるように消えた。
「…なんだったんだ…今の」
運命は、静かに、確かに加速していく。
因果の底に眠る罪と選択。
そして、イロハの過去とレンの魂が交差するとき──
世界の静けさが、揺らぎ始める。
四章「月見の森と壊れかけた想い」へ続く。
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