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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
日が沈んだハクシラ市。 窓の外には、灯りのついたビルが立ち並び、かすかな喧騒が夜風に溶けていた。
……だけど、なんだろう。
この街の空気には、どこか「濁り」があった。
言葉にできない違和感。
誰もが気づかぬふりをして、過ごしているような、そんなざわめきが――静かに耳の奥を揺らしていた。
俺は、布団の中で目を閉じながら、うまく眠れないでいた。
イロハと出会ってから、まだそんなに経って
いない。
それでも、確かに日常は変わった。
不思議な剣を持つ少女と旅をして、虚霊というものと対峙して――自分の中にも、何かが入り込んできた気がしてならない。
毎日毎日、歩いて、叫んで、恐怖という感情に落とし込まれて。
イロハ、桜月イロハ。
あの子は、どんな人生を送ってきたんだろう。
あの子の言動が、俺には理解できない。どんなきっかけがあって、今のイロハがあるんだろう。
カーテンが揺れる、そよ風が部屋の中に入ってくる。
「イロハは……どうしてあんな人なんだろ……」
瞼がようやく、重たくなってきた。目が上手く開けられなくなる。
「……まず、俺が見てるイロハって、本当のイロハなのかな……。」
そう呟いたあと ようやく、俺は眠りにつく。
──次の瞬間、目を開けると、そこは“森”だった。
「……ん……ここ、は……?」
立ち込める霧。
淡く舞う桜。
夜の中に溶けるような静けさ。
幻想のような景色。
懐かしくて、安心させる歌声が、どこからか聞こえてくる。
胸の奥が、やけに強くざわついた。
足元には、小川の流れる音。そして――焚き火のような、焦げた草の匂い。
ふと、口が勝手に動いた。
「……イロハ……?」
その名前が自然に出てきた。どうしてだろう、イロハだって言う確証はないのに。
同時に──泣き声が聞こえた。
誰かが、必死に泣いていた。絶望のような、そんな感じの。
「やだ、やだぁ……どうして……わたし……!こんな……’’月見の森’’は……こんなじゃないのに!」
白くて長い髪、小さな肩、しゃくりあげる影。剣を握りしめて、 顔は見えない。でも、確かに胸が痛んだ。見ていられないほどに。
「おい……!」
足を踏み出した瞬間、世界が――崩れた。
空が反転し、桜が黒に染まる。風が止まり、音が消える。冷たい何かが首筋を撫でる。
『殺してやる……殺してやる……今!!』
少女の瞳の奥から、黒い影が俺を――
──はっとして、俺は飛び起きた。
「っ……!」
息が荒い。汗が額を伝う。何もしてないのに、身体が震えていた。
心臓が、誰かの拳で殴られたように痛かった。
寒い、暑い、怖い、怖い。
なんだ今のは、なんだ、あの絶望の空気と、匂いと、殺意は。
「……夢、か……」
太陽の光が眩しい。さっきまでの暗闇が嘘みたいに、部屋の中は暖かかった。あまりにも普通な朝が、逆に怖かった。
鳥の鳴き声も聞こえる。うぐいすの鳴き声。
うぐいすの綺麗な旋律が、俺を安心させる。今は現実、さっきの景色は夢、と教えてくれる。
でも――
頭の中で、少女の声が、メリーゴーランドのようにクルクル駆け巡る。
ーー『殺してやる……殺してやる……今!!』
「……あれ、イロハの……過去なのか……?」
俺はぽつりと呟いた。
あの森。あの匂い。あの泣き声。あの殺意。
どこかで、イロハと関係があると、そう確信していた。
……だったら、聞いてみるしかない。
そう決心したあと、ふと、自分の学習机を見ると、そこにはシャーペンやら、プリントやらが散乱していた。
俺は昨日の自分を思い返す。
そうだ、昨日は大量のレポート課題をしてたんだ。
俺は重い身体を動かす。正直に言うと、今すぐにでも二度寝したいけど、そんなこと、最近はできない。なんてったって、イロハと旅してるし。
「ねっむ……。」
あくびをしながら立ち上がって、俺は机の上に散乱したプリント類を片付ける。
寝起きだからか、手が震えて、目もよく見えない。
机の上に置かれている筆箱を俺は掴んだ。
そして通学カバンに入れようとした時、机の足に思いっきり足の小指が激突。
「くっ……いっだぁ……!!」
痛い痛い痛い。マジで痛い。
そして不幸なことに、手に持ってた筆箱も落下。もっと不幸なことに、筆箱のチャックを閉めてなかったせいで、ガチャガチャガチャ!と絶望の音を立てながら中身が散乱。
「……チッ、も〜……」
と、俺は思わず舌を鳴らす。全く……朝からこんな不幸なことってあるか?
俺は床にしゃがみこんで、落ちたシャーペンと消しゴムを、 一つ一つ拾い上げ、筆箱の中に入れる。
「……あれ?ボールペン何処行った?」
俺は突然、行方不明になったボールペンを探す。机の下、ベッドの下、床に這い蹲るように見渡す。でもどこにもない。
「えぇ……ボールペンーー。」
そこまで言いかけた時、ふと自分の手を見ると、ボールペンは、 普通に握りしめられていた。思考が停止する。これぞ’’灯台もと暗し’’ってやつ。
「俺……疲れてんのか?」
と、俺は俺を少し心配した。ほんと大丈夫か、
俺。
その時、タイミングを見計らったかのように、『ピーンポーン』と、音が響き渡る。
「なんだ?朝から……」
俺はパジャマのまま、玄関に向かう。そして目を擦りながら扉を開けた。
するとそこには……
「おはようございます。」
「……へ?イロハ……さん?」
そう、イロハが目の前に当然のように立っている。
俺の思考が二秒停止する。なんで、なんでこいつがここに?そもそも俺の家知らねぇだろ。
「……え、なんで俺ん家、知ってんの。」
「……?、 忘れてしまったのですか?私とあなたが出会ったのは、このマンションのベランダですよ。」
俺の記憶が蘇る。そうだ、身体を操られてベラン
ダから落ちそうになったところを、イロハが首根っこ掴んで助けてくれたんだっけ?
「……ああ、忘れてたわ。そうだったな……で、何しに来た?」
「……あなたにこれを。」
そう言ってイロハが差し出してきたのは、俺が先日イロハに貸した上着だった。
その日は雨が降っていて、傘も持ってなかったから、イロハに上着被せたんだっけ。
「……あ、ありがと。わざわざ綺麗に畳んでくれたんだな。」
「畳むのは当然のことでは?それに……上着を渡しに来ただけではありません。」
「え?」
「……街を巡回する予定では?」
あ、忘れてた。昨日のレポート課題が大量で焦っていたせいで、完全に忘れてた。
「あ〜……ごめん!!忘れてた!!今すぐ準備してくる!!」
「あ、上着……。」
そんなことを言うイロハをよそに、俺はドタバタと自分の部屋に駆け込んだ。
部屋のクローゼットを勢いよく開けて、てきとうな服を取り出す。いつも白いTシャツに、 黒のズボンを履く。本当なら黒い上着も着るけど、今はイロハが持っている。俺にはファッションセンスというものが皆無なのだ。
「もう服はこんなでいいよな!他に服ねぇし……あとはーー。 」
俺は机の上に置かれた、大きなヒビの入ったスマホを手に取る。ヒビが入ってるけど、まだ動く。
「あとは歯磨きと髪の毛と……朝は食べなくていいか」
独り言をブツブツ呟いていると、部屋の外から人影を感じた。
「……おい。」
俺は部屋のドアを恐る恐る、ゆっくり開けた。そこには案の定。俺の上着を抱きしめたイロハが。
イロハは俺の部屋を背伸びをしながら覗く。
「……なるほど。あなたの部屋、想像よりかは綺麗でした。」
「俺の部屋ゴミ屋敷だと思ってたのか?……てか勝手に家に上がってくんな。不法侵入だ。」
「不法侵入では無いと思います。それより、上着です。」
そう言って上着を差し出してくる。俺はゆっくり、受け取った。
「……あ、ありがと。」
俺は気恥しくて、目を逸らしながら礼を言った。そして羽織ると、微かに、雨と優しい花のような匂いがした。
「……それより、まだですか?」
「あ!もう五分だけ待ってくれ!」
「三分は待てます。」
「無理。」
ーー靴を履いて、立ち上がる。
けど、なんとなく玄関の脇――棚に目がいった。
そこには、いつもと同じ写真立て。
ちょっと色あせてきたけど、それでもまだ、夏の日の笑顔はちゃんと写ってる。
父さん、母さん、九歳の頃の俺、そして……ミヨ。
俺と手を繋いで笑ってる、六歳の妹。
……気づいたら、見入ってた。
写真に触れる指先が、少し震えてるのが自分でも分かる。
「……あの。」
イロハが俺に声をかける。そうだ、今は出かけなきゃ行けないんだ。
イロハは何も言わない。ただ、俺を眺めて、待ってくれている。
「……行ってきます。」
声に出したとたん、胸の奥が少しだけ楽になる。
聞こえてないのは分かってる。でも、言わなきゃ落ち着かない。
もう誰も返事をくれないのに、毎朝みたいに繰り返してる。
ずっと、このまま繰り返してる気がする。
立ち上がってドアを開けると、外の空気が思ったよりも明るかった。
なのに、胸の中だけ、夏の夕立みたいに静かで重い。
でも、それでも――今日も、出かける。
街のざわめきが、風に溶けていた。
私の耳に届くのは、隣を歩く篠塚レンの足音と、かすかな鳥の鳴き声。
見慣れない町並み。背の高いビル。ガラスに映る、私と彼の影。
静かに私たちは地面を踏みしめる。コツ、コツ、という足音が、とても心地よい。
ずっと、このままがいい。何も起きないまま。
「ねぇ、イロハさん。」
「はい、なんでしょう。」
篠塚レンは、私に話しかけてくる。なにか気になることでもあるのか。
「……実は、変な夢見てさ、ちょっと悲しくて、めっちゃ怖い。そんな夢だった。なんだか、君に関係ありそうな気がして。」
変な夢。
それがどんな夢なのか分からない。でも、私に関係するかもしれないと言われれば、だいたいどんなものか想像がつく。
「……それは、森が出てきましたか?桜が舞っている、そんな森でしたか?」
「え?うん、そんな夢。」
やはり、そうだった。その夢なら、私も見ることがよくある。
桜の舞う森、優しい歌声、小川が流れる音、鳥のさえずり。
そして、少女の泣き声が聞こえる。しゃくりあげるような、細くて小さな声。焦げた匂いと、名もなき痛みが空気に混じっていた。絶望か、恐怖か……いいや、きっと両方。でも、私は知らない。
そして最後に。
『殺してやる……殺してやる!……今!!』
そう叫んでいる声が耳に届いた時、目覚める。
そんな不思議な夢。
「……それで、女の子が出てきたけど……その女の子、君じゃない?」
そう篠塚レンは私に言い放つ。
息が詰まる。胸の奥に、触れてほしくない何かが泡立った。
……違う。私は泣き叫んだりしない。あんなやつじゃない。だって、約束があるもの。
それに、そんな記憶、ない。あの日の’’あの時’’以降の記憶が、私は曖昧。
「あなた、本気ですか。」
「うん、イロハさんに似てたし。」
「私が泣き叫ぶはずがありません。私は――託された者ですから。」
「……はぁ……??どういうこと……?」
彼の声が、遠くに聞こえた。
私の中に広がるのは、言いようのない焦燥。
……この人は理解できない。
だって――
この人は、ただの少年だもの。
「じゃあさ、月見の森……ってのは?」
「え?」
月見の森、その名をこの人から聞くだなんて、予想もしてなかった。
月見の森、それは私の生まれた場所。幸せで、静かな、争いもない場所。
お母様と、妖精達と一緒に、暮らしていた。でも、どうしてなのか。今はもう、妖精という存在は、いないと言っていいかもしれない。
あの日のあの後、何があったのか。
「イロハさん?」
その声を聞いて、私の意識は現実に帰る。
何をぼーっとしているの。しっかりしないと。
「……ええ、月見の森は、私の故郷です。どうしてその名を?」
「……いや、女の子が呟いてたんだ。’’月見の森はこんなじゃないのに……!’’って。」
「……そう。」
あの夢は、一体どんな意味があるのか。
そもそも、どうして彼も私と同じ夢を見たの?
私の胸の奥に残っていたのは、夢の話よりも――
「月見の森はこんなじゃないのに」
という、その少女の声だった。
何が違うのか。何が変わってしまったのか。
私の記憶が正しいなら、月見の森は、世界でいちばん静かで優しい場所だったはず。
けれど、彼の言う少女の声は、悲鳴に近い。
ふと、通りを抜けた先で、何かが視界に入った。
――白。
その人物は、古びた神職の装束をまとい、背筋をぴんと伸ばして立っていた。
まるで、ずっとこちらを待っていたように。
「……おや、これは……」
男が近づく。柔らかな笑みをたたえていたが、その瞳は綺麗で、どこかこちらの奥を見通しているような鋭さを帯びていた。
「君に、見覚えがある。……少し、話をしないか?」
「……え?」
「その剣のことも、少し気になってね。昔の記録と、よく似ているんだ。もしかしたら――君のことも」
名前も知らないその老人。
けれど私は、なぜだか逆らえなかった。
その声に込められた静けさが、私の奥に眠る何かを、そっと揺らしたから。
「おい……誰だよ?」
篠塚レンは私の前に立って、手で私が動こうとするのを制する。何をしているの?この人は。
そして彼は鋭く、燃えたぎるような視線を、老人に向ける。
でも老人は、そんな眼差しを見ても、何も動じないどころか、むしろ笑っている、優しく、冷淡に。
「ああ、名乗ってなかったね。私は四月一日(わたぬき)と言うんだ。ただの神職の爺さ。」
「四月一日(わたぬき)……さんですね。」
私は慎重に言葉を選ぶ。この方は、何か知っている。私のことも。きっと。
「この剣について、何か知っているのですか?」
「いや……剣についてはまだよく分かってないが、君たちが見た夢の記憶、月見の森で何があったのか……くらいなら、少し知っているよ。」
「!……あなた何者?まだ私が月見の森から来た者とは言っていないのに?」
老人は、いまいち感情が掴めない笑顔をうかべる。何が目的?一体……なにが。
「まぁまぁ、落ち着きなさい。君は静寂を継ぐ者だろう?」
「っ……!あなた……」
老人は背を向けて、歩き出す。奇妙なほど静かで、足音もない。
ああ、こんな簡単に着いていくだなんて、ダメだろう…… けれど、このままだなんて。
私は震える唇を噛み締めて、無理やり笑顔を作り出す。
ぎこちなく口角を少し引き上げるだけの、それは多分、笑顔の形をした仮面だった。
「教えて貰えますか?’’あの日’’のことを。」
「え?いや待ちなよ、イロハさん。この人見るからに怪しいよ。なんか……変な感じがする。空気が冷たいっていうか……嫌な予感がしてさ。」
そう篠塚レンは止めようと、手首を掴むけれど、私はもう決めた。私は知りたい、ただそれだけ。もし何かが起きたら、その時はその時よ。
「……知らないままは、ダメな気がするので。」
そう言って私は彼の手を振りほどいた。その時の彼の表情は、怒っているのか、悲しいのか、よく分からない。ただ、「離さないで」とでも言いたげな顔。
その瞳は、夜の底に沈んだように、静かに揺れていた。
ダメだったかな、こんな風に振り払うのは。でも、止められては困るもの。
神社までの道は、不思議なほど人通りがなかった。
蝉の声だけが耳に残って、街の音がどこか遠くへ引いていくようだった。
老人――四月一日(わたぬき)は、何も言わずに歩き続ける。
その背中はやけにまっすぐで、けれどどこか、影を引きずっているような気もした。
「……こっちです。」
細い石段を登った先、鬱蒼とした木々に囲まれた古びた神社が姿を現した。
境内に入った瞬間、空気が変わる。湿った木の香りと、見えない何かの気配。
「……ようこそ、忘れられた場所へ。」
四月一日はそう言うと、社務所の奥にある部屋へと案内してくる。
そこには、古びた棚があり、埃をかぶった書物や文献が無造作に積まれていた。
「このあたりだ……たしか、先祖が残した記録が……」
古い木箱を開き、彼は一冊の黒い帳面を取り出す。
「この記録には、“月見の森”に関する記録がある。君の持っている剣に似た絵も、書いてあるよ。 ただ、女王の名前は最後まで記されていなかった。代わりに――こんな言葉がある。」
そう言って彼はページをめくり、私の前に広げる。
『森の奥に住まう姫、名は’’桜月イロハ’’。 』
読み進めたところで、胸の奥がざわりと揺れた。
風もないのに、部屋の中の空気が震えている。
「……私の……名前……です。」
「フフッ、やはりか……。君は女王の名を知っているか?」
「……いいえ。」
「……姫?……どういうこと?」
私と四月一日(わたぬき)が真剣に話している時に、彼、篠塚レンだけは、ぽかん、とあんぐり口を開けていた。
多分、理解出来ていない。
「君は知らぬか……ならば教えてやろう。」
そう言って四月一日は、書物をパタン、と閉じた。その時、紙の匂いが微かに空間に広がる。
「’’月見の森’’という森は、はるか昔妖精と人が生きていた森で、静寂の聖域。……そしてその森には女王がいたのだ。その女王は時を調律する力を持っていたそうだ。そして、娘もいた。それがーー。」
「イロハさん……か?いやいや……」
彼の声は震えている。でしょうね、今を生きる者たちには、妖精なんて存在は幻想よね。
「妖精とか……ほんとにいたのか?もしほんとに居たとしても、イロハさんは妖精には見えないんだけど……?」
「それは……私が混血だからでは無いですか?私はお母様が妖精で、お父様が人間だったので。羽も生えていないのです。」
「……えぇ?じゃあ君、何年生きてるんだよ……。」
その言葉にはまだ答えない、そんな問いに答えるよりも、私は四月一日に聞きたいことがある。
「あなたは言いましたよね、森で何があったのか。知っていると。教えて貰えませんか。」
四月一日は呆れたようにため息をこぼす。どうして?話したくはないとでも言いたそうな顔。
「……それより、まだ問いが残っているのだが。」
「それに答える代わりに、教えてくださいね。あの日のこと。」
私は四月一日を睨みつける。早く知りたい、忘れたままは、逃げていることになるから。
「……君の持っているその剣には、君の母の魂が宿っているのかい?」
「……ええ。」
そう答えると、四月一日は私の傍に近づき、剣をまじまじと見つめる。
「なぜわかったのですか?」
「君の剣には、想いが宿っている。君の感情にに、この剣の力は比例する。君が怒れば、暴走し、君が泣けば力を一時的に失う。……きっと……森も。」
「?」
そう呟いたあと、四月一日は私の顔を見つめる。覚悟でも決めたような、恐れるような。
「次は問に答える番だね、月見の森のあの日について。」
四月一日はゆっくり息を吐いたあと、続けた。
「記録によると、月見の森は、君がその剣を手に持った時、どうやら謎の火災が起きたそうだ。なぜ起きたのかは知らないが……その火災で妖精や人は、消えてしまったようだ。」
その時、私の心が揺れた。
声が出ない、礼を言いたいのに、喉が上手く使えない。
頭の中に、途切れ途切れな記憶が流れ始める。
バチバチと燃える音。妖精達の悲鳴、そして、
一人立ち止まったままの、少女。後悔、後悔が、私を襲ってくる。こんな景色、記憶には無い。こんな感情は。
何……これ。怖い。怖い怖い怖い。知りたくない。知らない記憶が流れ込んでくる。嫌、嫌、嫌。
「イロハさん!!」
その声に、はっとする。篠塚レンの声。大きくて、幼い子供の声。
気づけば私の身体中は、汗にまみれていた。息も荒い、さっきの怖いという感覚を味わったのは、いつぶりだろう。
「あ……ごめんなさい。……大丈夫、です。」
四月一日はそんな様子の私を、憐れむように見つめる。
「どうやら、君は拒絶してしているようだ。記憶というのは、自ら閉ざすこともある。思い出すことは、時に痛みを伴う。 無理に引き出してはいけないよ、’’月ノ姫’’。」
老人は優しく言う。けれどその言葉は、私の中にもう一人の“私”がいることを、はっきり示していた。
その時だった。
「……でも、知りたいです。全部、覚えていなくちゃいけない気がするんです。」
自分でも驚くほどの声の強さだった。
篠塚レンが小さく息をのむのが分かった。
四月一日は、ふっと微笑む。
「なら、いずれ“鍵”が現れるでしょう。 そして――彼が、その扉の前に立つときが来る。」
彼?
四月一日は、静かにレンへと視線を向ける。
「君だよ。篠塚くん。……君は世界の境界に、少しずつ近づきすぎている。 選ばれたくないなら、今のうちに引き返しなさい。」
「…… なんだよそれ……選ばれるって……何に?」
彼の声が震えていた。
だけど、それは恐怖じゃない。きっと、怒りだった。
「……剣、または世界。いや、両方かもしれないね。 」
「……選ばれるとか、引き返せとか、勝手に決めつけるなよ。」
四月一日は笑う。
「そうだ、そのまっすぐさが、今はまだ――救いになる。」
「……また、困った時は頼るといい。」
「……はい。」
神社を出た頃には、空はすっかり茜に染まり、坂の上から見下ろす街が橙と影のグラデーションに包まれていた。
風は穏やかで、どこか懐かしい夏のにおいを運んでくる。夕焼けに照らされた二つの影が、静かに並んで揺れていた。
「……さっきの話、ほんとのことなの?」
沈黙を破ったのは、彼、篠塚レンだった。声は低く、まだ戸惑いを引きずっている。
私はしばらく応えず、空を見上げた。私の記憶も曖昧すぎて、私自身がよく分かっていない。
「……たぶん、わかりません。でも……あなたがいてくれて、よかったです」
その言葉は、まるで風に乗って届いたかのように、どこか現実味が薄かった。
けれど彼は、はにかむように微笑んだ。
私はその微笑みを見たくはなかった。だって、申し訳ないから。私と関わったせいで、まさか選ばれし者になりかけているだなんて。選ばれてしまったらその時、もう。
元には戻れない。
「……ごめんなさい。」
たとえ何も知らないふりをしても、私の中にある罪悪感だけは消せなかった。
「……え?」
謝ったって、許されはしないだろうけど。
私はこの人を、裏側の世界に誘い込んでしまった。
きっともう、引き返す時間もないから。
そんな私の迷いとは裏腹に、空は黄昏ていた。
ーー 夜。
俺の部屋は、文字を書く音だけがあった。
ベッドの上には散らばるレポート用紙。机の上の蛍光灯だけが、ぽつりと狭い世界を照らしている。
『選ばれたくないなら、今のうちに引き返しなさい。』
シャーペンを握っていても、意味は無い。さっきの会話が、神社での出来事が、まだ頭から離れなかった。
――イロハは、何者なんだろう。
優しさと寂しさ。強さと脆さ。
彼女が見せる表情のどれもが、本当のようで、本当じゃない気がしていた。
あの剣。月ノ姫。夢に出てきた少女。月見の森――すべてが一本の線で繋がっていく感覚に、得体の知れない、不気味な感覚。
女王、お母様、魂、想い、妖精、記憶、拒絶。
今日一日で、まさかこんなに情報を手に入れるなんて。情報量が多すぎる。
イロハの過去や、世界には、俺は関わらない方がいいのかもしれない。でも、それでも俺は。
そのときだった。
――ガタン、と、ベランダから物音がした。
それは他の人じゃ聞き取れないほど小さな音。今自分が聞き取れただけでも奇跡のような。
風……? いや、窓は閉めたはずだ。
俺はベランダの方へと向かう。何故か、向かっては行けないような気もして。
ベランダを見ると、窓が空いていて、 そこには。
誰かが立っていた。
黒いローブに身を包み、黒く、長い三つ編みがが風に揺れている。
顔はフードの影で見えないが、そこに「意志」があることだけはわかった。
動けない。喉が凍りついたように、声も出ない。
やがて、謎の存在が口を開いた。
「静寂を継ぐ者、そして観測者。ふたりが揃ば、因果の門が開く」
感情のこもらない、平坦な声。それなのに、その言葉は耳ではなく、頭に直接響くようだった。
「……だれ……だよ……お前……」
絞り出すような声で問うと、その人物はわずかに首をかしげた。
そして、俺の目をまっすぐに見つめるようにして、次の言葉を投げかける。
「篠塚レン。あなたに選択の資格はある。でもね、それはまだ“可能性”にすぎない」
そのとき、不意に風が吹き込んだ。
髪が大きく乱れ、視界が一瞬、遮られる。
「待っ――!」
慌てて立ち上がり、ベランダへ飛び出す。
でも、そこに人の気配はなかった。
静まり返る夜の街。見下ろす道路に、黒いローブを纏った者の姿はない。
俺は呆然と、立ち尽くす。
なんだ、何だ何だ何だ。
観測者、因果の門、可能性、今の分からない単語が、俺の中に入ってくる。でも、何より。
静寂を継ぐ者。それは聞き覚えがある。初めて会った時、確かイロハは……
ーー「私は、『静寂を継ぐ者』魂を乱す因果を断ち、全てを安らぎへと還すこと。それが、私の在り方ですから。」ーー。
……もし、静寂を継ぐ者がイロハの事なら、観測者って、誰のことを指してるんだ。
ーー『君は世界の境界に、少しずつ近づきすぎている。』ーー。
『静寂を継ぐ者』
『観測者』
それが俺と、イロハのことだというなら。
……もう、戻れないところまで来てるのかもしれない。
胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
それは恐れか、それとも――覚悟か。
俺はそっと拳を握った。
不確かな未来。何かに導かれるように歩き続ける日々。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
隣に、イロハがいるということ。
それだけは、俺の意志で選びたい。
「……もう、戻らないよ。たとえ選ばれるってことが……普通の毎日を手放すことでも。」
そう呟いた声は、夜の闇に溶けていった。
ただ、風だけが――静かに、返事をするように吹いていた。
第五の月夜「桜と雪は、やがて散る。」へ続く。
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