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この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
太陽が、容赦なく照りつけていた。
人影のない路地を、俺とイロハは無言で歩く。足音だけがアスファルトの上で溶けるように遠ざかっていく。
「……少女?」
イロハが、ほんの少しだけ首を傾ける。
その仕草が、拍子抜けするほど穏やかで――思わず、笑ってしまいそうになる。
……この人は、こういう“異常”に、本当に慣れてるんだな。俺なんかより、ずっと。
「……うん。昨日、ベランダの窓が勝手に開いててさ。
その窓の外に……女の子が立ってた。黒いローブに、長い三つ編み。顔は影に隠れてて見えなかった。
『静寂を継ぐ者。そして観測者。ふたりが揃えば、因果の門が開く』……って」
イロハはその言葉を口の中で繰り返すように呟いた。
そして、まるで遠い記憶の断片を探るように、目を細める。
「その子……あなたを、呼んでいる。偶然じゃなく、きっと――」
「……導かれてる、ってやつか」
俺は短く息を吐いて、空を見上げた。
雲の切れ間から覗いた太陽が、まるで破けた紙片のように、ちぎれて浮かんでいる。
「イロハさん。“門”って……どこにあると思う? それが、どんなものか、想像つく?」
少しの沈黙。
イロハはぽつりと答える。
「“門”という存在は、聞いたこともありません。」
「……そっか。なら」
俺は数歩、足を止めた。
この言葉を口にすれば、たぶん本当に――もう、戻れなくなる気がした。
それでも、気づけば口元には笑みが浮かんでいた。
「……俺、一人で四月一日さんに会ってくる。あの人の持ってる記録の中に、“門”のことが何かあるかもしれないし」
イロハは驚いたように、こちらを見る。
「一人……? 危険すぎます。私も――」
「だ〜め」
その言葉は、軽口みたいに、ちょっとだけ挑発的に言った。
イロハは、ほんの少しだけ不満げに眉をひそめた。
「……どうして?」
「一人で、行きたいから。ダメ?」
「……行くということは、もう、元の暮らしには戻れないかもしれません。それがどんなに――」
「それでも、いい」
俺はそっと、イロハの手を取った。
彼女の手は、やっぱり少し冷たかった。でも、きちんと“人の温度”を持っていた。
「普通じゃなくたって、いいから」
イロハの瞳が、わずかに揺れた。
けれどそれ以上は何も言わず、静かにうなずいた。
翌日。
俺は、神社へと続く道を一人で歩いていた。
するとその先には、見覚えのある白い格好の老人がいた。
「……やっぱり来ると思ってたよ、君は」
そう言って、四月一日は俺を静かに迎えてくれた。
「悪い、急に」
座布団の上に腰を下ろすと、湯気の立つお茶が目の前に置かれる。
「いいさ。“予感”ってのは、外れるより当たった方が気持ちいい」
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。
俺の頭には、あの“黒衣の少女”の言葉が、まだ残っていた。
――『因果の門が開く』
「あのさ、四月一日さん。『門』って聞いたことあるか? 因果とか、観測者とか……その辺の言葉と一緒に使われるような、特別な何か」
四月一日は、小さく眉をひそめた。
そして短く息を吐く。
「……観測者、って言葉。どこで聞いた?」
「昨日、誰かに……いや、夢だったかもしれない。でも、こう言ってたんだ。
“静寂を継ぐ者、観測者が門を開く”って」
四月一日は立ち上がり、本棚の奥から一冊の古びたファイルを取り出した。
中には、黄ばんだ紙と、図のような手描きのメモが挟まっている。
「これは僕が昔……いや、“とある場所”で関わっていた記録の写しだ。
観測機関って言ってね。僕は、耐えられなくて逃げ出したけど……。
簡単に言えば、“可能性を記録し、因果の歪みを監視する組織”だった」
「……監視?」
「うん。たとえば、誰かが“選ばなかった未来”ってあるだろ?
君が右に行かず、左を選んだとき。右へ行った君の“可能性”も、どこかに存在してる。
彼らはそれを“観測”し、記録していた」
「まるで……世界を、上から見てるみたいな」
「そう。世界を、鳥の目で。過去も未来も、同時に見ることができる力を持ち、また複数の可能性から、未来を選び取る力を持つ。表の歴史には、一切姿を表さない。……他にも、いろいろ、ね」
「……その機関が、“門”を?」
四月一日は少し言い淀みながら、ページの一部を指差す。
そこには手書きで、こう記されていた。
《因果ノ門、選バレシ者ニ開カレル》
《観測ノ先、我等ノ未来、崩壊ノ可能性》
「門ってのは、簡単に言ってしまえば死後の世界への入口だ。死後の世界は、死んだ人々の魂が眠る場所だ。観測機関は、その世界の主でもある。 」
「死後の世界?そんなもの……。」
「信じられないのも無理は無い。でもその入口は、 月見の森にある。気になるなら、行ってみるといい。」
四月一日は俺を見た。
その目は、まるで俺がすでに門の前に立っているかのように、静かで、深かった。
「君がその“門”の前に立つ存在なら……今のうちに知っておいた方がいい。自分が、何に関わろうとしているのかをね」
「……観測機関は……いい組織なのか?」
四月一日の手が、ピタリと止まった。
「……さぁ。それは君たちが確かめるべきだ。僕の口からは、何も言えない。……思い出したくないからね」
その声には、深い痛みがにじんでいた。
静かにページを閉じる音が、妙に重たく、胸に響いた。
そして、翌日。
静かな午後だった。
雨上がりの空はまだ曇っていて、地面からはほのかに湿った土の匂いが漂っている。
「……四月一日さん、やっぱ何か隠してたな」
さっき、四月一日に見せられた記録。そこには、確かに“門”という文字があった。
門、観測機関、選ばれし者、月見の森。
やっぱり……この世界には何かがあるんだ。特に、四月一日が言っていた、観測機関。その組織は四月一日の反応を見る限り、あまりいい組織ではなかったのがわかる。
イロハは、この組織の存在。知ってるのかな。
イロハは隣で黙って歩いている。
彼女の横顔は、いつもより静かで、何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「……もしかして。イロハさんの記憶と、この“門”っての、繋がってるのかもな」
「……私にも、分かりません。ですが」
イロハは小さく息を吐き、言葉を続ける。
「森が呼んでる気がする。あそこに、何かがあるって……そう、感じる。」
「……そっか」
レンは空を見上げた。雲の隙間から、うっすら陽が差し込んでいる。
「なあ、イロハさん。怖くないのか? 何が待ってるかも分かんないのに」
イロハはふと立ち止まって、俺の方を向いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「怖くない。怖いだなんて、考えてはダメなのです。」
「どうして?」
「静寂を継ぐ者、それだけ。」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
自分の中の、何かが揺らいだ気がした。
「……行こうか、君の場所へ」
「ええ」
俺達は再び歩き出す。
湿った草を踏む足音が、静かな空気に溶けていく。
やがて、月見の森の輪郭が、遠くにぼんやりと現れはじめる――。
森の入り口をくぐった瞬間、空気が変わった。
そこは、森とは呼べそうなものじゃなかった。
木々が倒れ、地面も黒く焦げ、時間が経っているはずなのに、煙の匂いが鼻を突く。
昼間のはずなのに、月明かりが差しているような、ほの青い光が地面に降りていた。風はなく、葉一枚さえ揺れていない。
すべてが静かで――まるで、時間だけが、そこだけ取り残されているみたいだった。
「……変わってない。あの日から。」
イロハが、ぽつりと呟いた。
その声はどこか懐かしげで、けれど少しだけ、遠い響きを含んでいた。
「ここが……君の故郷か」
「ええ。私が生まれ、修行をしていた場所。…… そして、あの子と出会った場所でもある」
「……あの子……って?」
そう問うたその時、森の奥――風もないはずのその場所で、草葉がふわりと揺れた。
「……イロハ?」
高く、鈴のような声が響いた。
音と同時に、光の粒が舞い上がる。
その中心から、ひらひらと羽を持った、小柄な少女が現れた。
──少女は、まるで冬の精霊だった。
白銀の風を纏って、静かにそこに立っている。
透き通るような薄布が肩から舞い、まるで氷の羽衣のように陽光を反射していた。
海のごとく青い髪は、耳の下でそっと結ばれ、ふたつの流れとなって背に垂れている。
ゆるく揺れる髪は、どこか夢の中の子どものようで──
けれど、その髪に添えられた小さな桜の髪飾りが、彼女が「ただの夢」ではないことを告げていた。
スカートの裾は、歩くたびに雪のように静かに揺れ、 その布には百合の花が、霜の糸で織られたように淡く浮かんでいた。
凛とした姿だった。
それなのに、彼女がこちらを向いて微笑むと、
どこか心の奥が、ふっとあたたかくなるような、不思議な感覚があった。
──ただの美しさではない。
どこか、時間の外側に存在しているような。
けれど確かに、ここにいて、自分を見ているという気配。
そして少女は、瞳を輝かせてこちらへ飛んでくる。
「イロハ……やっと……来たんだね……!」
「……うん。ただいま、フユリ」
イロハの表情がわずかに緩む。
俺はそれを見て、ふと胸の中が温かくなるのを感じた。
ああ、イロハさっき言ってた’’あの人’’は、イロハがフユリって呼んでる子か。どうやら、仲がいいみたい。
フユリと呼ばれた少女は、真っ先にイロハに抱き着く。そして、イロハの胸元で顔をこする。
「……イロハ、’’最期の言葉’’、忘れちゃったのかなぁって。心配だったけど……覚えてたの?’’あの人たち’’からはもう忘れてるって聞いたけど。」
「……最期の言葉?」
イロハが不思議そうに呟くと、少女は顔を見上げ、イロハを見つめる。
「……なぁんだ。忘れてるんだ。」
少女はにっこり笑みを浮かべる。
でもその声は、どんなに強く降り注ぐ雨よりも、儚く消えてく雪よりも、冷たかった。その言葉を聞いた時、ほんの少し冷たい空気が、俺の目の前を通り過ぎて行った気がした。
イロハの目の色が変わる。
「……何を隠してるの。」
「んふふっ、なんでもないよ!」
少女は羽を少し広げて、口を押えながら笑った。
その様子を見たイロハは、少女の手首を思い切り掴んだ。その時の瞳は、ゾッとする程鋭くて、全てが見抜かれているようだった。
「嘘つかないで。ねぇ、あの日。何があったの?……私が気がついた時には、誰もいなかったの。あなたもいなかった。ねぇ、みんなどこ行ったの?……あの日、火災が起きたって、本当なの?……私、そんなの知らないのに。」
震えた声だった。俺も聞いたことがないくらい、大きくて、それでいて悲しくて、悔しさと怒りと不安が混じった声。
イロハは少女の手を離さない。それどころか、どんどん握る力が強くなっていく。
これほどまで感情に揺れるイロハは、見たことがない。
少女はひとつ、ふたつ。瞬きをする。きっとこんなに必死なイロハを、この子も見た事ないんだろう。
やがて、少女は口を開く。
「……みんながいなかったのは、みんな消えちゃったからだよ。みんなみーんな。消えたの。生きたいって……叫びながら。私も一度消えたよ。」
「……え?」
イロハが、少女を掴む力が緩んでいく。
「でもね!私、ある人に助けて貰ったの……’’観測者様’’に!」
「……観測者に?」
「……イロハは知らないよ。だってイロハはその時居なかったもん。」
「……っ」
イロハはゆっくり、少女の手首を離す。
その動作は、あまりに無力だった。
「……そんなの、知らない……そんなの知らないのよ……」
「知らないんじゃなくて、覚えてないんだよ。」
そう優しく少女は微笑んだ後、イロハの頬を撫でた。同情するように、憐れむように。
「……どうして覚えてないのよ。フユリの話を聞いても、何も思い出せやしない……。」
「それは、……なんでだろーね。」
イロハは、今まで俺が見てきた中で、いちばん弱々しく見えた。俺はようやく理解した。 この子が凄い子のようで、本当はただの子供だってことに変わりないことに。
俺はただ、二人を傍観することしか出来なかった。
なにか言葉を発したら、それはそれで何かを壊してしまいそうで。
気まずい雰囲気が漂う。誰も何も言わず、ただ、立ち尽くしたままの。まるで時が止まったとでも錯覚するほどに。
その時。
手と手が重なる、大きな音がした。
少女が笑顔で立っていた。
「……はい!ちょっと悲しい話しちゃったけど、せっかく再会できたんだし!こんな気まずい空気はダメダメ!」
「……?」
少女はくるくると宙を舞い、イロハの肩にとまると、じっと俺を見た。
「ねぇ、その人は?……はっ、まさか!恋人!?」
「は!?どこをどう見たらそうなるんだよ!!」
俺はつい大声を出して、突っ込んでしまった。
本当に、どこをどう見て、そういう考えになるのやら……。
イロハは少し黙り込んで、こう答えた。
「……ちょっと変な人。けど、悪い人じゃないわ。」
「なんだそれ……」
苦笑する俺を見て、少女は「ふふっ」と笑った。
その声に続くように、イロハもまた、微笑んだ。
珍しい、イロハ。笑うことなんてあんまりないのに。
するとその時、少女が俺にずいずいと近づいてくる。
気づいた時には、俺の顔くらいまで、少女の顔が近づいていた。その姿は、俺に興味を抱く赤ん坊みたいだ。
「……な、なんだよ。てか近ぇ……。」
「ふーん、君人間か……お名前は?」
「……篠塚レン……です。」
「レンくん!へぇ〜、いいお名前!……私!凪津(なぎつ)フユリ!よろしくね、レンくん!」
フユリはそう言いながら、俺の手を掴んだ。その手は暖かかったけど、同時に何か、なんとも言えない違和感に、俺は襲われた。
なんだ……確かに手の感触はあるはずなのに、生き物とは何か違う。実体を持たない何かが、襲ってくるような……。
「レンくん?」
「あ!いや!えっと……。」
「……へぇ、分かるんだ……。」
フユリは、俺の手を離す。
その時の彼女の目は、俺を睨むような、そんな冷たい瞳をしていた。
「ふふっ、ちょっと散歩でもしようか。昔話もしながら。」
そうフユリは呟いて、イロハの腕を引っ張った。
「ちょ……フユリ……。」
「あははっ!行こー!レンくんも!着いてきてね!」
その瞬間、フユリは目を疑う速度で走り出した。
あまりの勢いに、俺の髪が揺れる。
「……え?いやいや待てよ!!」
俺も後に続くように走り出した。
走る音。
私を引っ張る冷たい手。木々の中を静かに舞う蝶。枯れた花。私の記憶とは違う光景が、私の瞳を突き刺した。
記憶にない。知らない、いや、覚えていないだけ?
でも、どうしてこんなに変わってしまったの?
「……フユリ、どこに連れてくつもり?」
「んー?さぁね!それよりさ……懐かしいね、この空気。景色は変わっても、空気は変わらない。」
「……うん。」
フユリの後ろ姿は、どこか儚い気がした。表情、感情がよく分からない。顔が見たい。
私は少し、フユリの顔を覗き込む。すると、それに気づいたのか、フユリは私の方を見て、そっと、微笑む。
「……ねぇイロハ。覚えてる?私とイロハが仲良くなるまでのこと。」
「……うん、覚えてる。」
「最初は冷たかったけどね〜、でも、あの時は嬉しかったな。」
フユリは髪に添えた髪飾りを撫でながら、ふっと足を止めた。
「……そういえば、この辺りかな……」
フユリが立ち止まったその場所は、木々の合間に日が差し、苔の香りが微かに漂っていた。
その瞬間、私の鼻先をくすぐったのは、どこか懐かしい匂い。
幼い頃――まだあの森に“日常”があった頃の、記憶の断片。
森の奥。木々の間を光がこぼれ、苔むす石が柔らかく呼吸しているように見えた。
そこで幼い頃の私は、修行をしていた。そう、月見の森の姫として。私は常に、感情を抑え込む。そうでなければ、私は、森を、世界を守れない。
だからいつも一人でいた。何も発さず、ただ静かにそこにいるだけで。何事にも揺れない。そんな心を持つために。
「揺れてはダメ……常に静かじゃないと。何かあっても、驚いたり、泣いたりしちゃダメよ。」
毎日毎日、自分にそう言い聞かせていた。
でも、その影響か。森にいる子供たちは、幼い私を気味悪がって、私と関わろうとはしなかった。
私はそれでよかった。人と関わり、その人に対する感情ができてしまえば、それはきっと、邪魔な事だから。そう、思っていたから。
でも一人、変な子がいた。
その日も、一人で精神を研ぎ澄ましていた。
そんな時に、背後から風が舞った。
羽音とともに、小さな妖精が現れる。
「姫様ー!遊ぼー!」
白銀の羽をパタパタとさせながら、木の間をくるくる飛び回るその子は、いつも突然現れる。
「……。」
私はその子が話しかけてきても、当時は無視をしていた。邪魔だったし、何よりどう反応すればいいか分からなかった。
「えぇ〜!?また無視ぃ!?冷たぁ〜い!なんでフユリの事無視するの!?」
フユリと名乗るその妖精は、まるで気にした様子もなく、ただ笑って、一人でブツブツと何かとよく話を振ってきた。
時には木の実を拾って持ってきたり。
時には森のどこかで歌を歌っていたり。
まぁ、私はそれすら無視していたけど。
無視する私にフユリはめげず、毎日毎日話しかけてくるようになった。
それは一ヶ月経っても、変わらず。ずっと話しかけてきた。
「姫様ー!遊びましょー!」
「……」
さすがに毎日修行中に話しかけてくるその態度に、私の心がほんの少しざわついた。うるさい、うるさい、うるさい。と。毎日心の中で呟いていた。
なのに――ほんの少しだけ、寂しさがほどけていく気がして、怖かった。
ある日も、フユリは私に声をかけてきた。
その日は、雪が降っていて、気温もとても低かった。子供たちは雪だるまを作って、遊んでいた記憶がある。
私は寒い、と思いながらも、木刀を奮っていた。
「……寒い。」
そう呟いたその時、背後からドサッ、と大きな音がした。
「痛ああぁ……!」
木から誰かが落ちてきた。顔を覗くと、それはフユリだった。
私が気づかないうちに、彼女は木の上でこっそり見ていたのだろう。
フユリは私の顔を見て、目を輝かせる。
「わぁ、姫様!やっほ〜!今日は寒いね〜」
「……。」
フユリは、起き上がりながら続けた。
彼女の髪には、雪が着いていた。
「みんな雪だるま作ってるよ?姫様も一緒にどう?」
「……。」
私はまた無視して、立ち上がり、木刀を振るい始めた。
フユリはその様子を不思議そうに見つめた。
「ねぇ、木の棒なんて降るって、何してるの?」
「……修行。」
そう無愛想に答えると、フユリは大きく目を見開き、震えながら言った。
「え……ええぇぇ!?姫様が喋ったあぁ!!」
「……っ」
その声で空気が震えているのが感じられた。
あまりにも大きな声に、私は耳を塞ぐ。
そんな様子の私にお構いなく、フユリは私の手を掴む。
「姫様!遊ぼ!」
……ああ、うるさい、面倒くさい、関わりたくない。どうしてこの子はこんなにキラキラしているの。どうして私に話しかけてくるの。
「……ねぇ、あなた、どうしてわたしなんかに話しかけてくるの。」
私がそう問うと、フユリはすぐ、キラキラな笑顔で、羽を広げながら答えた。
「だって仲良くなりたいもん!いつも一人で頑張ってるよね!そんな頑張り屋さんな姫様と仲良くなりたいなーって。」
「……うっとうしい。」
「……え。」
私は無意識にそう答えた。言葉にした時私も驚いた。でもその言葉は、私の本心なんだろう。
フユリの声が揺れた。
その一瞬の間が、痛かった。自分で吐いた言葉が、心のどこかに鋭く突き刺さる。
わたし、なにを……
「……うるさいから、やめて。わたし、何かおかしい。」
でもフユリは、ふっと笑って言った。
「やだ!」
「……え」
「だって、わたし、姫様と仲良くなりたいもん! うるさくたって、へんてこでも、おかしくても、そんな姫様が、フユリは好きだよ!」
そう言って、フユリは羽を震わせて飛び去ってしまった。
残されたのは、冷たい風と、私の小さな後悔だけだった。
「……わたし、ひどいことを言った。」
それでも謝る勇気は出なかった。どうすればいいか、わからなかった。
その日から、私の中で後悔という感情が、渦巻くように胸に残った。
一人で考える。なにを、どうすれば良かったのか。そもそもどうして、心を揺らしてはならないのか。どうして私だけ、他とは違うのか。
そんな問いが、私の頭の中を埋めつくした。
数日後、お母様がふと私に言った。
「イロハ。もうすぐ、あの妖精の子の誕生日でしょう?」
「……誕生日?」
「あら、知らなかった?あの子は嬉しそうに準備していたわよ。あなた、たまには反応してあげたら?遊んではいけない、なんて言っていないのだから。」
お母様の穏やかな声が、胸の奥を少しだけ揺らした。
「……でもわたし、酷いことを言ってしまったの。それはきっと赦されない。」
「なら、仲直りの証に、何かプレゼントするのはどう? 」
「……プレゼント?」
お母様は私の頭を撫でる。その手は、外の気温とは異なって、暖かい。
「あなたがフユリに渡したいと思うものを、作ってみるの。きっと喜ぶし、赦してくれるわ。あの子は優しいから。」
「……。」
誕生日が近いと知ってから、私はずっと考えていた。
何を渡せば、フユリは喜ぶだろうか。
冬の森は静かで、花も、緑も少ない。
けれど私はふと思い出した。
あの子が話していたこと。
『春って、素敵だよね。特に桜!好きだな〜、毎年あの大きな木に、桜がいっぱい咲いてる景色を見るの……。』
それは、何気ない一言だった。だけど――
「 ……桜の髪飾りを、作れば……。」
母の裁縫箱の中に、古い桜模様の布を見つけた。
形は少しほつれていたけれど、色は柔らかくて、どこかあたたかい。
一人で作ってみようとしたけれど、針は指に刺さるし、布はうまく折れない。
……うまくいかない。
指先が震えて、布は何度折っても歪んだ。
見よう見まねで針を通してみても、縫い目はぐちゃぐちゃで、ほどいてはやり直しの繰り返し。
私は黙って立ち上がった。
迷ったけれど、少しだけ勇気を出して――お母様の部屋の扉を、静かに叩いた。
「……お母様」
奥から「どうぞ」と、いつもの落ち着いた声が返ってくる。
部屋の中は、暖炉の火が柔らかく灯り、静かで穏やかな空気が流れていた。
お母様は帳簿のようなものに目を通していたが、私の顔を見ると手を止める。
「どうしたの?何かあったの?」
「……手伝ってほしいことが、あって」
そう言って、私は失敗した髪飾りの布をそっと差し出した。
少ししわくちゃになった布。針の跡があちこちに残る、いびつな形。
血が出ている、私の指。
「フユリに……これを、誕生日に、あげたいの」
一瞬、母の目が驚いたように見えた。けれどすぐに、ほんの少し、微笑んだ。
「ふふ……あなたが、そんなふうに思うようになるなんてね」
私は言葉に詰まって、視線を落とした。
すると、お母様はそっと手を伸ばして、私の手から布を受け取る。
「きれいに作りたいのね。だったら、一緒にやってみましょうか」
「……いいの?」
「もちろんよ。たまにはこういうのも、いいわね。ねえ、イロハ」
お母様は、私の名前をやさしく呼んだ。
「この布、私も昔、よく使ってたの。あなたが生まれた年の春に、咲いていた桜を思い出して、選んだものだったわ」
「……春、桜……」
「そう。雪が溶けて、ようやく花が咲く。その時まで、待つのも悪くないのよ」
ふたりで、静かに針を進めた。
糸を通し、折り目を整え、時間をかけて、ひとつの桜の花が形になっていく。
冬の夜は深く、冷たいはずなのに。
なぜだろう。心が、少しだけ、あたたかかった。
こんな風に思ったのは、この日が初めてだった。
ーーそして、数日後。
小さな雪がちらつく朝。
フユリは、今日も森を飛び回っていた。どこか、何か探しているように見えた。
私はその姿を、遠くから見つめていた。
……声をかけるか、迷っていた。まだ、少し怖かった。
でも、覚えている。あの時、彼女が言った言葉。
『そんな姫様が、フユリは好きだよ!』
ゆっくり、私は歩き出した。
「あのっ……!」
私は、勇気をだして、初めて自分から声を掛けた。
「……えっ!? ひ、姫様!?」
びっくりした顔のフユリは、私の姿を見て、羽をばたばたさせながら駆け寄ってきた。
「どうしたの!?今日は喋った!?え!?今日なんか変じゃない!?え!?え!?」
「……これ。あげる。」
私は、母と作った桜の髪飾りをそっと差し出した。
フユリはそれを見て、目を丸くして――次の瞬間、ぱぁっと笑顔になった。
「えええええっっ!?かわいい〜〜〜〜!!なになになに!?これ、くれるの!?」
「……誕生日、おめでとう。」
フユリは顔をくしゃくしゃにして笑って、そして言った。
「……これ、姫様がつけて!」
「え……わたしが……?」
「うん!姫様の手でつけてくれたら、ぜったい嬉しいの!!」
少し戸惑いながら、私はフユリの髪にそっと、髪飾りを差し込んだ。
桜の花が、冬の銀世界の中でやさしく咲く。
フユリはそれを手でなぞって、うれしそうに小さく回った。
「えへへ〜〜〜!ねぇねぇ、今日から名前で呼んでいい?」
「……なまえ」
「うん、姫様のお名前は?」
私の名前、私の名は。
「……桜月、イロハ。女王であるお母様の、娘。」
「あははっ、イロハ!いいお名前!!じゃあイロハって呼ぶ!」
フユリは嬉しそうに宙を舞う。まるでひとり、空の中で踊るように。
「わたしは、凪津フユリ!改めて、よろしくね!」
「……うん、フユリ」
「うわああああああ!!呼んでくれた〜〜!!」
羽をパタパタさせて、更に飛び上がるフユリ。
私の胸の中にも、小さな風が吹いた気がした。
「……懐かしいね。この場所。」
フユリは、ふと空を見上げるように言った。
白く霞んだ吐息が、冷たい空に溶けていく。
「うん、私と……フユリが出会った場所。」
私は、握られていた手の温もりを感じながら、ただ頷いた。
けれどその手は、ふいに力を抜いて、私の指からすり抜ける。
「……フユリ?」
彼女はもう、私の方を見ていなかった。
まるで、もっと遠くの“何か”を見ているみたいだった。
「ごめんねぇ、イロハ。私、嘘ついてたの。」
「……?」
「イロハは忘れてるんだろうけど――この森に、虚霊が現れたの。
でね、観測者様がその虚霊をここに封印して……私に封印の維持を任せたの。」
……なにを、言ってるの?
「……封印、虚霊……観測者……」
知っているはずの言葉が、知らない意味を持って、頭の中をぐるぐる回る。
まとまらない思考の中、フユリは一歩、前へ出る。
「でもね、もう限界なの。
封印が緩んできてて……虚霊が、私の身体をどんどん侵食していくの。」
その瞬間だった。
フユリの背後――闇の中から、黒い影がにじみ出る。
まるで燃えるような赤い目。
それが、フユリの身体の半分以上を蝕んでいた。
「……フユリ……まさか……!」
私の声が震える。
けれどフユリは、静かに――まるで、もうすべてを終えた人のように微笑んだ。
「うん。もう私は、おしまい。」
その笑顔が、悲しかった。
諦めの中に、優しさが混じっていた。
その優しさが、かえって痛かった。
「このままだと、虚霊は私を完全に取り込んで、暴れ出しちゃう。 きっと、イロハのことも、傷つけちゃう。」
そして、フユリは私の持つ剣を、まっすぐ指さした。
「だから、お願い――
私を消して? そしたら、暴れなくて済むよ。」
その言葉が落ちた瞬間――
私は、何も言えなくなった。
口を開こうとしても、声が出ない。
頭の中で何度も否定の言葉を探すのに、喉が震えるばかりで、何も出てこない。
「い、や……」
ようやく搾り出した声は、自分でも情けなくなるくらい、掠れていた。
「いやよ、そんなの……っ」
私の手が、剣の柄を握る。けれど、力が入らない。
腕が震えて、剣が重く感じる。違う。剣じゃない。私が――怖がってる。
「どうして、そんなこと……どうして、そんな顔で……!」
フユリは、ただ微笑んでいた。
泣きもしない、怒りもしない。
あの頃の、私の大切な友達の顔で。
「だって、イロハを守りたいんだもん。
それに……ずっとこうなるって、わかってたから。」
「わかってたなら……! そんなの、ひとりで背負わないでよ!」
感情が、言葉の形にならずに、こぼれていく。
寒さとは違う、震えが身体を突き抜けた。
「私、……失うの……?」
心の奥で、痛みが滲む。
私は、私の手で友を失う運命に立たされた。
でも……そんなの無理よ……。
「ねぇ、イロハ。」
フユリの声は、穏やかだった。
まるで、最後のチャイムのように。
「私、イロハにまた会えて良かった……。」
「やめて……そんな言い方、やめてよ……」
私は顔を伏せた。
胸が焼けるように苦しかった。
「じゃあ、ひとつだけ、わがまま言っていい?」
ゆっくり、私は顔を上げる。
「私のこと、ちゃんと見ててね。最後まで、ちゃんと。」
フユリの言葉に、私は何も返せなかった。
でも、頷くことだけはできた。
風が吹いた。
冷たくて、やさしい、春の風だった。
私は、剣を――握りなおした。
震える指に、力を込める。
目の前の友達を、斬らなければいけない――そんな現実が、今、私の胸に突きつけられている。
「本当に……いいの?」
聞くこと自体、間違いだったかもしれない。
でも、どうしても、確かめたかった。
フユリは、小さく微笑んで頷いた。
「うん。……お願い、ね。」
その瞬間。
私の中で、時間が止まったようだった。
足元がきしんで、空の光が白く滲む。
フユリの背後に蠢く虚霊の影は、もう彼女の身体を半分以上覆い尽くしている。
その目は、怒りも憎しみもなく、ただ――空っぽだった。
私の胸の奥で、何かがきしんだ。
「……ありがとう」
それが、最後にフユリにかけた言葉だった。
風が、止んだ。
一閃。
光のような、音のない斬撃が走る。
フユリの身体がふわりと揺れ、
そのまま――崩れるように、消えた。
虚霊の黒い影が、空へと溶けていく。
まるで、雪が陽に溶けるように、静かに、儚く。
私は、ただ立ち尽くしていた。
「……フユリ……」
名前を呼んでも、返事はない。
その静けさが、何よりもつらかった。
その時、静けさを壊すかのように、少年の声が聞こえた。
「イロハさーん!どうし……た……。」
走りながら来た少年は、篠塚レンだった。
彼は私を見て、全てを察したのか、絞り出すように呟いた。
「……イロハさん……?」
私は、目を伏せた。その目から、一滴。突如として水が流れた。
どうして、水が流れているの?いや、これは水じゃない……。これは……。
「……涙。」
そう呟いた瞬間、私の手の力がするりと抜けた。
カラン……と、剣は音を立てて地に落ちる。
……あれ、なんだか、胸が張り裂けそうで、苦しくて、悲しくて、悔しくて。
篠塚レンが、私を不安そうに見つめる。
でも、何も言わない。ただ、寄り添うように、そこにいる。
「……。」
私の目からは、涙が止まらなかった。泣こうともしていないのに、自然に流れてくる。生まれて初めての、涙。
私は、私は私は。
自分のこの手で。大切な人を殺した。
その罪悪感に、襲われた。
この森に残されたのは、彼女の笑顔の残像だけだった。
私は、動けなかった。
ただ立ち尽くして、そこにいることしかできなかった。
雪のような静けさ。
風は止まり、鳥の声も、枝の揺れる音さえも――何も、なかった。
まるで、世界が呼吸をやめたみたいに。
「…………」
そんな時だった。
ふいに、カラカラ、と音がした。
風のないはずの空気の中で、木の枝が揺れている。
カラン、と。
どこかで、鈴の音のような――首を傾げたくなるような、不思議な音が響いた。
「……誰?」
思わず、呟く。
返事はなかった。ただ、耳元に、かすかな歌声が届く。
――おにさんこちら、てのなるほうへ。
足音がした。ころころと転がるような、軽い足取り。
木々の間から、影が差す。
「……っ」
私は顔を上げる。
そこに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
真っ黒な髪。
赤い瞳。
この場に合わない、黒いワンピース、黒いマント。
少女は、私のことをじっと見ていた。
笑っていた。けれどその笑みには、どこか空虚なものが混じっていた。
「……あなた、誰?」
私が問うと、少女はくるりと回るように一歩踏み出し、こう言った。
「門は、こっちだよ……イロハさん?」
その声に、彼が反応する。
「な、なんで名前……!」
少女は、くすりと笑って、
「さぁ、おにさんこちら。次は、あなた達の番だよ?」
と、森の奥へ向かって、走り出した。
私は、彼と顔を見合わせ――そして、走り出した。
何かが、変わる気がした。
世界の形が、少しずつ、ずれていく。
その始まりが、あの少女の声だった――。
第六の月夜「観測者の眼と目覚めの剣」へ続く。