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上原さんと私がSACRAのビルの前で出会ったのは偶然ではなく、以前から上原さんが私のことを調べていたからだった。その情報の出所が上原専務なのか、SACRA関係者にコンタクトを取った誰かなのかは不明だが、潤はスカイガーデンでの話し合いの最後、上原さん自ら念書を書かせたそうだ。
その内容は二度と私や潤、SACRA関係者に不用意にコンタクトを取らないこと。
今後、AI動画、画像は如何なる理由であっても流出したら、責任のその全てを上原杏莉が取ること。一連のことは他人には喋らないこと。
動画をその場で消したことを確認した上で、スマホの音声と合わせて裁判になっても法的威力が強い念書を、その場で作成したと潤はあっさり言った。
しかも上原専務とこの件について、今後のやり取りは全て、知り合いの弁護士を通すように既に依頼済みだという。
私は潤の指示通りに、上原さんのアカウントを全てブロックし、上原さんとの今までのやり取りを全て潤にスクショで送って──それで終わり。
私が出る幕は何ひとつなく、潤が全てを解決してくれた。
まるで寝ている間に台風が去ったようだった。大変な場面には何も遭遇していない。
上原さんに騙されていたことの実感は、まだ湧かない。それでも備品室であの彼女達の会話を聞いたので、上原さんの行動はなんとなく想像は出来た。
また、ため息を吐きそうになったので顔を上げて潤を見つめる。
「潤、本当にお疲れ様。そして、ありがとう。私は潤のおかげで、心配していることは何もないです」
「そう言ってくれると、助かる」
潤はほっとしたかのように目尻を下げた。
「何か不安なこととかあったら、すぐに言いますね」
上原さんとのコンタクトを黙っていたのは、私が『この歳でコスメに興味を持ち、こっそりと練習をしていたから』それを明け透けに言うのは恥ずかしかったのだと、素直に潤に告げた。
自分磨きで自信をつけて、潤に告白したいから──とまでは言えなかったが、やましいことは何もない。
「俺は知佳のプライベートを全て、逐一報告してほしいとは思ってない。そこは知佳の判断に任せる」
こくり、と頷く。
「上原杏莉には念書も書かせて、それを破って裁判になったらどれだけ時間と費用と手間が要るかと懇々と説明したから、もう変な真似はしないと思うけど、身辺には気をつけてくれ」
もう一度、首を縦に振る。
怒っている潤に面と向かって説明されたら、大抵の人間はその迫力と知識に圧倒されて閉口してしまうだろう。
でも、私は潤に怒られたことはない。
ちょっと本気で怒った潤を見てみたい──そんな気の緩みから微笑むと、潤に不思議そうな顔をされてしまい、私は慌てて取り繕った。
「なんでもないです。それより潤、そろそろ……」
膝の上から降ろしてくれるといいなと、腰を少し浮かせると「分かった」と潤は呟き、すとんと反対側の膝の上に私を降ろした。
──違う。そうじゃない。
でも、ずっと私を離してくれない潤は愛しくて、なんと言っていいか分からず、身体をモジモジさせてしまう。
そこに潤が低いトーンの声で囁いてきた。
「知佳。最後に俺からも言いたいことがある。いいかな?」
「も、もちろんです」
#執着
猫とろ
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潤の真剣な声に緩んでいた気持ちを、きゅっと引き締めて言葉に耳を傾ける。
「今回のことは、俺たちが結婚したことを周囲に必要最低限しか明かさなかったのに、このような結果になってしまった。もっと慎重にすればよかったと俺は思っている。それは俺の見通しが甘かったからだと思う。知佳を不安な気持ちにさせて悪かった」
「そんな、潤は何も悪くないです」
私はゆっくりと首を振った。潤を責める気持ちなんて微塵もなかった。
「ありがとう。でも一つ、俺が懸念していることがある。今日、備品室にいた法務部のアシスタントの彼女たちは、知佳をあまり良く思っていなかっただろう。それなのに目敏く、最近の知佳の変化に気付いていた」
潤に言われて、確かに彼女たちが私に好意的ではなかったことを思い出す。そして変化に気付いていた、とは──。
「私の変化……あ」
頭の中に備品室で、彼女たちが口にしていた言葉が唐突に蘇った。
『あぁ、なんか急に色気づいた子?』
頭の中で、その意地悪な声が何度もリフレインする。確かに、色気づいたと言われた。
けれど、会社での服装の露出が増えたわけでも、髪の色を派手に変えたわけでもない。そんなことは何一つしていない。
そうすると──化粧しかない。それを「色気づいた」と揶揄されたのだろう。
私はそっと、自分の爪を見つめた。
「あの人たちは、私の化粧の変化に気が付いた、ということ?」
「多分そうだろう。女性同士だし、俺より鋭く知佳の変化をキャッチしていたのかもしれない」
「私の変化を……」
「以前も言っただろう。知佳が微笑んだだけで勘違いする男もいる。しかも、知佳を合コンに誘おうと思っている男まで出てきた。それは──知佳が変わろうとしてから起こった出来事じゃないか?」
潤の言葉は怒っているわけでも責めているわけでもなく、まるで報告書を読み上げるような、どこまでも淡々とした声色だった。なのに、私はどうしようもなく焦ってしまった。
「私は、そんなつもりはなくて。目立ちたいとか、モテたいとかじゃなくて……」
本当は、潤に告白する自信が欲しいから。
契約結婚というこの機会に、姉という存在ではなく、ちゃんとした私になりたい。
お母さんに言われた言葉を、大事にしたかったから。
そんな切ない想いが胸の中にぐるぐると渦巻くのに、私の口から漏れたのは、「本当に違うの」という、ありきたりの言葉だけだった。
「分かっているよ。知佳は別に何も悪くない。ただ、上原杏莉は知佳の変わりたいという思いに、ずる賢くつけ込んだ。備品室でのあの彼女達は、知佳をこき下ろす材料にした」
「…………」
その部分については、そうだと私も思ってしまった。でも、断定するには口が重く、開けなかった。
「知佳は魅力的な女性だ。まずそれを自覚して欲しい。これは夫としての言葉じゃなくて、一般的な評価だ。そんな知佳が益々綺麗になったら、周りは嫌でも目にしてしまうということだ」
潤にここまで真っ直ぐに言われると「違う」とは否定できず、かといって肯定もしにくい。
「だからね、知佳。もう一度言う。知佳は変わらなくていい。そのままでいてくれ」
「変わらなくて……いい……」
心臓を冷たい指先で侵入された、そんな気持ちになった。
「そうだ。俺達は結婚したばかりで、やっと二人でいる環境に馴染んできたところだ。しかも契約結婚という特殊な環境を、俺が知佳に強いた。だから俺達は俺達のありのまま。今しばらくは何もせずに、ゆっくりと日々を過ごす方がいいんじゃないのか」
潤の言葉は、冷たさを伴ってどんどんと心臓の奥深くに入り込んでくる。それでも、この冷たい侵食にはどこか妖しい魅力があった。
「化粧をするなとか、自分磨きを否定しているわけじゃない。そもそも知佳は、何もしなくても綺麗だ」
「潤……」
「だから、そんな不安気な顔をしないで。今は上原杏莉の一件が終わったところだから、そっと周囲の様子を見たらどうだろうか」
最初に頭に浮かんだ言葉は『潤が正しい』『その通りだ』
同時に心に浮かんだのは『私が余計なことをしたから、こんな出来事に発展した』『私が何もしなかったら、何も起こらなかった』という思いだった。
二つの気持ちに板挟みになり、私が何も言えないでいると、潤が自嘲気味に笑った。
コメント
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第30話読み終わったよ〜!🌸 上原さん問題、潤がスパッと解決してくれてちょっとスッキリしたけど…でもその後の「変わらなくていい」って言葉、知佳ちゃんにはすごく重く響いたんじゃないかな😢 自分磨きを否定されたわけじゃないのに、余計なことしたって思っちゃう知佳の気持ち、すごく分かるよ…。潤の言い分も正しいんだけど、知佳の「変わりたい」って気持ちも大切にしてほしいなって思った!次話も気になる〜💕