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石田から圭三郎の過去を聞かされた智樹は、帰宅した。――絶望。憐憫。自分があの状況下に置かれたとしたら、果たして彼のような、天上天下唯我独尊。あのような人間に育ったであろうか。
いや違う、と彼はその考えを即座に否定する。肯定することはつまり、与えられた母の愛を、それから姉の愛を、周囲の信頼を裏切ることに繋がるからである。
キッチンにて手を洗い、コートを自室のハンガーにかけ、楽な室内着に着替えていると、玄関から物音がした。姉の晴子だろう。シャツの裾を引っ張りながら、玄関へと向かう。
「おかえ、りー……?」
暗い表情の姉の顔を覗き込む。が、姉は笑顔に切り替え、
「あのね。わたし、……」
続く台詞は、智樹の心の臓を撃ち抜いた。
「圭三郎くんと、つき合うことにした」
――今頃、西河智樹は、どんな顔をしているだろう。
ひとり、勉強机に向かう石田圭三郎は、笑みを堪えきれない。
交換条件を出すとは、随分古典的な手に出たものだ石田圭三郎。おまえもここまで落ちたか――と、どこかで自分が呆れているのだが、もうその声には耳を傾けない。
やりたいように、やるのだ。
面白いから――痛めつけてやる。
休憩がてら、からだをストレッチし、メイをケージから出してやる。自分がどんな仕打ちをされても耐え抜く、愛くるしいあの女の表情を思い返すと、たちまち下半身に熱が宿る。メイという第三者に傍観されながらも、圭三郎は、精を解き放った。
不思議と、あの子のことを思い返すと気持ちよく到達出来る。新たな発見だった。新たな玩具を見つけた圭三郎は、自分のなかに脈々と息づく、新たな感情の鼓動を、感じていた。――それが、恋だと知るのには彼はまだ、幼かった。
「圭三郎とつき合うって、晴ちゃん、どうして……」
意図せず智樹の声はふるえた。姉は、顔を下に向けて、靴を脱ぐと、
「思い切って告白したらさぁ。圭、わたしの気持ち、受け入れてくれて。いま、最高にハッピーな気分だよ」
「両想いで幸せに浸る人間が何故そんな顔をしている」
晴子の細い腕を掴み、引き寄せた。間近に見る姉は、目を潤ませ、顔を歪めている。そんなに力は入れていないはずなのだが。ということは、いま、姉を苦しめているのは、別の事態に違いないのだ。
「晴ちゃんのことなら、小さい頃から、ずっと見てきている……。問題があるのなら、ひとりで抱え込まないで……。あいつ――圭三郎に、なんか言われたんだろう? 晴ちゃんに降りかかる問題は、晴ちゃんだけの問題じゃない。みんなで、立ち向かうべき問題なんだ」
「違うよ智ちゃん」姉は、顔を背けた。「わたし、春にはもう、高校生なんだよ。ひとりで考えたり、ひとりで行動も出来る。大人の仲間入りを果たしたんだよ。だから、これからは、みんなに気軽に打ち明けられない問題も出てくるかもしれない。力を借りることはあるかもしれないけれど、でも、結局これって自分の人生なの……。自分の問題は、自分で解決しなきゃ」
「――晴ちゃん。おれじゃ、きみの力にはなれない……?」
「ありがとう智ちゃん」姉が、智樹の頭にそっと手を伸ばし、「困ったときには相談するよ。でも、いまは、……圭と結ばれた幸せに浸っていたい……」
「――嘘だねそれは」
智樹は、姉の手首を掴み、ずんずん進むと、姉を、壁に押し付ける。
困ったような表情で、姉が、「……智ちゃん」
「晴ちゃんが幸せなら、おれは、身を引こうと思っていた。でも、晴ちゃんにそんな顔をさせるあいつを、おれは――許せない。
姉ちゃん。もう、……おれのことは、好きじゃないの?」
「家族として、好きだよ……。智ちゃんのことは、家族として、大切に思っている。誰よりも幸せになって欲しい……」
「――圭三郎のことは」
え、と姉の口が開く。智樹は畳み掛ける。
「本当に、石田圭三郎のことを愛しているのなら、おれの前で、石田圭三郎を愛していると――言え」
姉の顔が歪み、姉は、智樹の胸を押すと、自室へと走り込んでしまった。
――結局自分にはなにも出来なかった。無力感に苛まれる。圭三郎の勝ち誇った顔が思いだされ、智樹は、吐き気を覚える。――負けたのだ、おれは。
守ると宣言したのに、おれは、姉を、悪魔に奪われてしまった。
あいつが姉に口づけている姿を想像するだけで、気が狂いそうだ。――触れるな。
おれの、大切な晴ちゃんに、指一本でも触れてみろ。――殺してやる。
いままでに味わったことのない殺意を覚え、智樹は、自分がそんな破滅的な思想を持っていることなど知らず、恐怖する。
苦悩のあまり、智樹は電話をかけていた。
『――はい』
相手がすぐ出てくれたことに、安堵する。「智樹です。さっきは、ありがとうございました。帰宅した姉から聞いたんですけど、姉は、圭三郎くんと交際することになりました。……おれには、結局、なにも出来ませんでした」
『晴ちゃんは、賢い子だから。圭三郎もああ見えてフェミニストだから、おかしなことは、しないと思うよ。それに、あいつ、実家暮らしだから。智樹くんは、最悪の事態を想定しているかもしれないけれど、彼ね。女性に乱暴なことは出来ないはずだ』
石田から、圭三郎の過去を聞き出しても、まだ、智樹は安心出来ない。「……どうしてそう、言い切れるんです?」
『彼ね、……ここだけの話』緊張からか、石田の声は強張る。『年上の彼氏がいるんだ。受験勉強に身が入らなかったのも、そのせい』
『来て』
メッセを見れば、親の見ていない隙を見計らい、裏口から飛び出す。
逢瀬の場所は、彼のアパート。限られた時間を有効に使わねば、と彼は思う。
背後から彼に刺し貫かれているときの自分が、本物なのだと思う。誰も知らない、裏で隠し持つ自分の顔が。――皆、騙されている。
温厚で平和主義の石田圭三郎だけを見て、おれという人間を判断している。本当は、あっちが嘘っぱちだというのに。馬鹿馬鹿しい。
終わるとすぐに、圭三郎はそのアパートを出て行く。彼と出くわしたのは、街をふらついているときであった。店から出てきた彼に、声を、かけた。
趣味も合い、感性も合い、年齢も同じ十代。ホストの仕事をしている彼は、昼夜逆転の生活を送っている。よって圭三郎が家を出るのは真夜中か、朝方だ。時間帯によって街の顔が変わることを、男との交際を通じて、初めて、圭三郎は知った。
夜中家を抜け出すことのスリルといったら。何事にも、代えがたい。ひょっとしたらそのようなスリルを味わいたくて、人間は万引きをし、薬に溺れるのかもしれない。
晴子との交際と両立させることに、なんの罪悪も感じなかった。――彼は、条件を持ちかけた。健気な晴子は涙ながらに彼の要求を飲んだ。――しかし、自発的に服従をさせなくては、意味がない。望まぬ相手に望まぬ交際を持ちかけるのは、彼の主義ではない。
『ぼくの言っている意味が分かるよね。晴子ちゃん……』
悪魔のように、あのとき、圭三郎は笑いかけた。こみあげるものを抑えきれなかったのだ。目の前の、健気な少女を冒涜するという愚行を介して味わえるスリルに。
『もし――ぼくに、誰にも言わないで欲しいと思うのなら、きみは――自分がどうすればいいのか。分かるよね?』
『圭は、なにを望んでいるの』まどろっこしい要求にも関わらず、苛立った様子もなく、極めて冷静な調子で晴子が答えた。『わたしが――なにをすれば、圭は、満足する? あなたの望むものを教えてくれる? 秘密を守ると約束出来るのなら、わたし――あなたの望む、どんなことでもするわ』
『――愛する者の前で、ぼくと交際していると、嘘をつけ』
一瞬、晴子は言葉を失った。が、感情を押し殺した声で、『……分かったわ。他には?』
『週一回、メイに会いに来ること。これが、条件だ』
『わたしいま、演奏会の準備で忙しいんだけど……でも、この調子だとどうなるか分からないわ。ええ。部活がない限りは、来るわ。つまり、場所は圭のおうちでいいのよね?』
二人は神社の境内で話をしている。この場にふさわしくない話題だとは思えど。
それから、晴子は、朝江と圭三郎のために、お守りを買い、圭三郎の自宅に立ち寄り、手渡してから帰った。――きちんと筋を通す晴子のことが、圭三郎は、憎らしかった。
被害者ならそれらしい顔をしろ。――悲しめ。憎め。おれを……。
憎むべき男の家族の前でいい顔をするだなんて言語道断。益々、圭三郎のなかで、晴子に対する、言い知れぬ感情が膨れ上がる。
例えば、晴子を犯すことも不可能ではないが、それでは、面白くない。あの明るい顔を曇らせるだけでは足らず、圭三郎の思想に心酔し、自分から股を開く玩具――が、彼には欲しかった。
男に犯されながら圭三郎は考え続ける。晴子の気持ちをこちらに向かせる手段を。
毎日、智樹に会うという状況下では厳しいだろう。思いのほか望みの薄い戦いに挑もうとしている。けれど、負けるつもりはなかった。智樹のあの整った顔が思いだされ、その残像が欲望を増幅させた。――なんとしても、西河晴子を、おれのものにしたい、と。
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