テラーノベル
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目を覚ました。 ――はずなのに、何かが変だった。
視界に広がる天井はいつも通りなのに、どうしてか「これは夢だ」と確信していた。
それなのに、頬に触れる床の硬さも、指先のひび割れた感触も、やけに生々しい。
夢か、現か。
判別しようとするうちに、思考がだんだん霧散していった。
小窓からパンが滑り込む。
水と一緒に受け取って、無言で口に入れる。
咀嚼の音がやけに大きく響いた。
それが「ボクの音」なのかどうか、一瞬わからなくなる。
噛んでいるのは誰だ? ボク? それとも別の誰か?
自分の喉がごくりと鳴る。
その感覚に、ほんの一瞬だけ安心する。
けれど、飲み込んだあとの空虚さは、以前よりも深くなっていた。
壁にもたれて目を閉じる。
夢を見る。
校舎の窓際。椅子に座って外を眺めている自分。
いや、それは本当に「ボク」なのか?
顔はぼやけ、制服の色もあやふや。
ただ「そこにいたはずの誰か」を、夢は淡々と映し出す。
声がする。
名前を呼ばれている。
でも、その響きは途中で途切れた。まるで音源が切れた機械のように、ぶつりと。
――名前。
ボクには名前があったはずだ。
なのに、どうしても思い出せない。舌の上で形になりかけるが、出てこない。
「……」
声を出してみようとしたが、音が空気に溶けただけだった。
かつて「ボク」と名乗っていた気がするけれど、それすらも霞んでいく。
本当に「ボク」と言っていたのか? もっと別の言葉だったんじゃないか?
考えようとした瞬間、頭の奥が軋んだ。
痛みが走る。
だからやめた。
時間は、もはや完全に意味を失った。
パンが差し入れられると、それを口に入れる。
食べ終われば、また横になる。
眠っているのか、起きているのか。夢の中なのか、現実なのか。
区別は、もう不可能だった。
ふいに壁の向こうから足音が聞こえた気がした。
立ち上がりかけて、すぐに動きを止める。
耳を澄ましても何も聞こえない。
幻聴だ。きっと。
いや、最初から「聞いた」という感覚そのものが幻だったのかもしれない。
ボクは壁に額を押し当てる。
冷たさが心地よくて、そのまま目を閉じた。
夢を見た。
白い教室。机が並んでいる。
みんなの顔が紙のように真っ白で、口元だけがにやにやと動いている。
笑っているのか、怒っているのかもわからない。
でも、その白い顔が一斉にこちらを向いた瞬間、心臓が跳ねた。
――ボク。
誰かがそう言った気がした。
けれど、その「ボク」は自分を指していない気がした。
教室にいた白い顔の誰かを呼んでいるような気がして、ぞっとした。
はっと目を覚ます。
だが現実も同じだった。壁も天井も真っ白。
結局、夢と現実の差なんてなくなっていた。
自分を呼ぶ声は、もう聞こえない。
そもそもボクには、呼ばれるべき名前があったのか。
あったのなら、どうしてこんなにも思い出せないのか。
いや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。
「ボク」と名乗っていたのも、きっと思い込みだ。
本当は、ボクには言葉なんて必要なかったんだ。
次の食事が差し入れられたとき、パンを見つめてしばらく動けなかった。
「食べるべきだ」と思うのに、指が動かない。
どうして食べる必要があるのか、説明できなかったからだ。
ただ手が勝手に動き、口に押し込んでいた。
噛む。飲み込む。
それが「ボク」という存在の最後の機能のように思えた。
壁に寄りかかり、目を閉じる。
声は出ない。思考も浮かばない。
天井の明るさが変わらないように、ボクの中ももう何も変わらなかった。
誰だったのかも、何を望んでいたのかも、すべて霧の中に沈んでいった。
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